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東京生まれ。神奈川県在住。
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開設日: 2008/04/26 (土)

作詞・作曲、名曲のご紹介、その他音楽にまつわることを、ペンペンと書いていきたいと思います。


 
今日は、新田 恵利の「冬のオペラグラス」のご紹介です。

新田 恵利(にった・えり、1968年3月17日 -)は、埼玉県上福岡市(現・ふじみ野市)出身の歌手、タレントです。

新田 恵利は、高校三年生の時に、1985年4月におニャン子クラブ会員番号4番としてテビュー。フジテレビの「夕やけニャンニャン」に出演します。

がすぐに、自分は芸能界には向いていないと思い、番組スタッフに辞めたいと申し出たのですが、「週刊文春喫煙事件」で5人のメンバー(1番・奥田美香、2番・榎田道子、3番・吉野佳代子、7番・友田麻美子、10番・佐藤真由美)が脱退したため、出演を継続することとなります。

同年の7月に、おニャン子クラブのデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」でフロントメンバーに選ばれ、以降、おニャン子クラブの「顔」として人気を博します。

そして、人気者になった新田 恵利は、高校卒業後もタレント活動を続けたいという意志を固め、芸能事務所「ボンド企画」に所属し、芸能界に残ることとなります。

1986年1月1日に、シングル「冬のオペラグラス」でソロデビュー。
この曲は、オリコン初登場で1位となり、30万枚以上の売り上げを記録します。

新田 恵利の、目が「ヘ」の字になるような笑顔は「100万ドル」と評され、シングルのジャケットをあしらったノベルティ「新田トランプ」が破格の値段で取引されました。

新田トランプ
新田トランプ

君は伝説の「新田恵利トランプ」を知っているか?
http://alfalfalfa.com/archives/7132471.html

そして、新田 恵利はその後も定期的に、シングル及びアルバムを発売していきます。

今日は、ソロデビュー曲である、「冬のオペラグラス」※をどうぞ。


冬のオペラグラス/新田恵利

新田恵利は、もともと芸能界には興味がなく、テレビに出たのも賞品のハワイ旅行目当てでした(このハワイ旅行は、は国生さゆりに持っていかれてしまいます)。
おニャン子クラブに入ったのも、当時時給380円だった不二家のアルバイトよりも出演料の5000円という高い金額に目がくらんだためで、さらに番組出演も週3日とスタッフにお願いするなど、アルバイト感覚だったと本人は語っています。

人気が上がると、一部の心ないファンに実家の傘や植木鉢、表札などが盗まれたり、ストーカー化したファンの車に母がひかれたり、ファンに自分の部屋を荒らされるなどの被害に遭い、一時期は人間不信になったこともありました。

変わったところでは、特技が「ふんどし」を洗うこと。これは、大正元年生まれの父が、ふんどしを着用していたためです。

また、2000年代後半までは喫煙者でしたが、禁煙に成功したということです。


新田 恵利の近況
結婚後の現在はタレント・女優として活動し、2010年7月に同じく元おニャン子クラブのメンバー・国生さゆりと新ユニットを発表。
現在は、ブリンクアーティストとしても活動中です。

新田恵利 新田恵利さんの曲で何が好きですか!因みに私は冬のオペラグラス-MYまとめ
http://daily.matome.club/list/%E6%96%B0%E7%94%B0%E6%81%B5%E5%88%A9/qa/detail/13137492648


※実は、これ以前にも一度ソロデビューの話があったということで、その際にはソロデビューを辞退しています。
そのときに用意されていた曲は「真っ赤な自転車」で、この曲はおニャン子クラブのアルバム「KICK OFF」の収録曲となっています。

今日は、尾崎 豊の「僕が僕であるために」のご紹介です。

尾崎 豊(おざき ゆたか、1965年11月29日 - 1992年4月25日)は、東京都練馬区出身のミュージシャン、シンガーソングライターです。

尾崎 豊は、1983年にシングル「15の夜」とアルバム「十七歳の地図」でデビューをします。

破滅的で体当たりなパフォーマンスや、自己の内面をえぐり出すような赤裸々な歌詞の中で、真実の愛や夢、生きることの意味を追い求めて、学校・社会の不条理に立ち向かう魂の叫びのようなその音楽の世界が、1980年代から1990年代の初めにかけて、若者を中心に多くの人の共感を得て、尾崎 豊はカリスマ的存在となります。

尾崎 豊に強い影響を与えたミュージシャンには、ジャクソン・ブラウン、ブルース・スプリングスティーン、ビリー・ジョエル、浜田省吾、佐野元春、井上陽水、アナーキー、甲斐バンドらがいます。

1992年、26歳のときに、突然死。※
このあまりにも早すぎる死は、社会的にも大きな衝撃を与えます。

実際、死後20年を経過する現在においてもなお、尾崎豊のファンは減るどころか逆に増えており、また彼が遺した曲の数々は、多くのアーティストにカバーされ続けています。

今日は、1983年に発売された尾崎豊のファースト・アルバム、「十七歳の地図」の中から、「僕が僕であるために」をどうぞ。


僕が僕であるために/尾崎豊

この曲の英題は「MY SONG」(マイ・ソング)で、ライブでも度々演奏されていた曲で、制作段階とは歌詞がかなり異なっています。
1997年に放送されたテレビドラマ「僕が僕であるために:、2011年のテレビドラマ「鈴木先生」において、主題歌として使用されました。

2004年には、トリビュートアルバムにおいて、「Mr.Children」がこの曲をカバーしています。
また、2009年には中村あゆみが、そして2010年にはmiwaによるカバー版が、映画「カラフル」のイメージソングとなっています。


ちなみに、このアルバムのタイトル曲である「十七歳の地図」という曲は、当時大学生だった尾崎豊が、学校帰りにビルの屋上から街並みを眺めていたときに思いついた曲ということです。

このエピソードの詳細については、以下のページをご覧下さい。

「十七歳の地図」 - 名曲のご紹介
http://musingbuff.blog.shinobi.jp/Entry/572/


※尾崎豊が倒れていた、東京都足立区千住河原町の民家の部屋は、1人の女性ファンが毎日訪問した事をきっかけに、所有者の好意によってファンに開放され、「尾崎ハウス」と呼ばれてファンの交流の場になっていましたが、2011年10月に、改築のため解体されました。


「尾崎ハウス」取り壊し―自宅開放の家主「一生は付き合えない」
若者の孤独と挫折を歌い、人気絶頂のなかで1992年急逝した歌手の尾崎豊の終焉の地につくられた「尾崎ハウス」(東京・足立区)が、きのう3日(2011年10月)取り壊しになった。築65年というだけでなく、ある意味が込められていた。

尾崎が亡くなったのは1992年4月25日。足立区の小峰忠雄さん(72)の敷地内だった。小峰さんは「女房が見つけたんだよ。素っ裸になって空手の型みたいなのをやっていたらしい。(尾崎豊だと)知らない、知らない」という。

尾崎はそこで倒れ還らなかった。追悼式には4万人が集まった。石原裕次郎が3万5000人、 美空ひばりが4万2000人 だから、その人気がいかに高かったかがわかる。そしてファンは倒れた現場、小峰さん宅を訪れるようになった。
小峰さんは「(女の子たちが)毎日来て泣いてるからさ、家にあげていろんな話をきいてやった」という。自宅1階の6畳間を開放した。ファンはこれを「尾崎ハウス」と呼び、室内に写真やイラストを張り巡らし、交流の場としてきた。

取り壊しの日、ファンは集まってきた。「思い出の場所がなくなるのは寂しい」という若い人。なかで「寂しさはないですね」というのは、ここで出会って結婚したという小座間高雄さん夫妻だ。「(小峰さんが)尾崎豊という人から卒業して、息子さん夫婦と幸せになってもらいたいなと思う。受け入れてくれた感謝だけです。寂しさはない」
取り壊しの主な理由がこれだった。小峰さんは「息子たちに言われた。このままだと一生つきあわなければならないからと。じゃあ思い切って建て直して、『尾崎ハウス』をやめようとなった」という。
(2011/10/ 4 12:27)

「尾崎ハウス」取り壊し―自宅開放の家主「一生は付き合えない」
http://www.j-cast.com/tv/2011/10/04108954.html?p=all



今日は、「リチャード・クレイダーマン」の「愛しのクリスティーヌ(Souvenir d'enfance)」のご紹介です。

リチャード・クレイダーマン(リシャール・クレデルマン)(Richard Clayderman、1953年12月28日 -)はフランスのパリ郊外のロマンヴィルで生まれたピアニストです。
本名はフィリップ・ロベール・ルイ・パジェス(Philippe Pages)で、幼少時よりピアノに親しみ、5歳で作曲を始め、学校の教科書よりも楽譜の方がよく読めたと伝えられています。

リチャード・クレイダーマンは、1976年、「渚のアデリーヌ Ballade pour Adeline」でデビューします。

当初、フランスではあまり注目されませんでしたが、その後当時の西ドイツのテレビドラマの主題歌に使われたことにより、全西独シングル・ヒット・チャートの第1位に輝き、これを契機に、スペイン周辺の国々でもヒットし、いわば逆輸入の形でフランスでもヒットすることになります。

この話を聞いた、当時のビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント)が、デルファン社とクレイダーマンに関する日本での独占販売契約を結び、1978年、日本で初めて彼のレコードが発売されると直ぐに評判になったといいます。

1980年には、日本で初のコンサートを開き、「ニュー・イージーリスニング・ミュージック」として注目されるようになります。

リチャード・クレイダーマンは、初来日以来、毎年日本でコンサートを行なうほか、全世界通して年300日はコンサートをしています。

今日は、1980年に発売された(日本での発売は1981年)、リチャード・クレイダーマンの「愛しのクリスティーヌ(Souvenir d'enfance)」をどうぞ。


愛しのクリスティーヌ(Souvenir d'enfance)/リチャード・クレイダーマン(Richard Clayderman)

現在の日本で、リチャード・クレイダーマンの楽曲で良く知られている曲と言えば、「渚のアデリーヌ」ですが、日本でその名を最初に知らしめたのは1981年のシーボン化粧品のCMで流れた「愛のコンチェルト」です。
このCMは、当時頻繁に流れ、たとえ曲のタイトルを知らなくても、曲を聴けば「あの化粧品の曲だ」と分かるほどでした。

1982年には、「星のセレナーデ」に岸田智史(きしださとし)と下田逸郎(しもだ いつろう)が歌詞をのせて、「潮風のセレナード」のタイトルで岸田智史がカバーしました。

ちなみに、リチャード・クレイダーマンの曲の中で、私が一番好きなのは、何といっても「星のセレナーデ」ですね。
もう、リチャード・クレイダーマンといったらこの曲です。
そして次が、この「愛しのクリスティーヌ」、そして、「渚のアデリーヌ」と続きます。

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