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2019年01月07日

「黄昏のあらし/シグナル」 - 名曲のご紹介

今日は、シグナルの「黄昏のあらし」のご紹介です。

黄昏のあらし シグナル ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

シグナルは、1975年半ばから1984年にかけて活動した、フォークソンググループです。
1975年に発売したデビュー曲「20歳のめぐり逢い」が大ヒットし、これが彼らの代表曲となります。

メンバーは、以下の4人です。

1.浅見昭男
2.田村功夫
3.住出勝則
4.稲垣達雄の4人です

途中で田村功夫が抜けて、代わりに稲垣達雄が加入しています。

さて、今日はそんなシグナルの、1978年2月21日に発売された通算5枚目のシングルである、「黄昏のあらし」をどうぞ。


黄昏のあらし/シグナル

ノリのいい、アリスの「チャンピォン」を彷彿とさせる佳曲ですね。(^^)

ハイ、海苔!(^Q^)/□
その「ノリ」ジャ ナイノ!(-_-メ)/~~~~~バシィ!!(T/O)

彼らのメジャーデビューのきっかけは、後に代表曲となる『20歳のめぐり逢い』のデモテープを聞いたレコード会社のスタッフが、この曲をいたく気に入ったことによります。
この出来事があったからこその、「シグナル」なのですね。

なお、シグナルの発売したシングルは、以下の通りです。

シグナルのディスコグラフィー(シングル)

1.20歳のめぐり逢い 作詞:田村功夫/作曲:田村功夫 1975年9月21日
2.哀しみのプラットホーム 作詞:あさみあきお/作曲:あさみあきお 1976年7月21日
3.生きがい 作詞:あさみあきお/作曲:あさみあきお 1977年2月21日
4.さよなら my Love 作詞:シグナル/作曲:堀内孝雄/補作曲:住出勝則 1977年7月21日 
5.黄昏のあらし 作詞:小泉長一郎/作曲:住出勝則 1978年2月21日
6.ためらいに縁を切れ 作詞:あさみあきお/作曲:あさみあきお/補作詞:小泉長一郎 1978年8月21日
7.雪のひとひら 作詞:小泉長一郎/作曲:住出勝則 1979年1月21日
8.B・G・Mはため息で 作詞:中里綴/作曲:住出勝則 1979年5月1日
9.ウッドストックを超えて 作詞:稲垣達雄/作曲:住出勝則 1979年11月21日
10.ほほえみ 作詞:あさみあきお/作曲:あさみあきお 1980.3.21日
11.蒼い影 作詞:あさみあきお/作曲:住出勝則 1981年8月25日
12.愛の終りに 作詞:あさみあきお/作曲:住出勝則 1982年1月25日
13.夏のV.T.R. 作詞:小泉長一郎/作曲:住出勝則 1982年6月25日
14.Julia(ジュリア) 訳詞:戸沢暢美/作曲:Ted Mulry 1983年9月25日
15.逆光線(ソニアのテーマ) 作詞:山川啓介/作曲:堀内孝雄 1984年4月21日
16.センチメンタルウインド~感傷風~ 作詞:山川啓介/作曲:堀内孝雄 1984年10月25日

2018年12月19日

「青春の影/チューリップ」 - 名曲のご紹介

今日は、チューリップの「青春の影」のご紹介です。

青春の影 チューリップ ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

チューリップは、1970年に当初「ザ・フォーシンガーズ」として結成されたバンドです。
当時、音楽界にロックでもフォークでもない新しい音楽「ニューミュージック」というものが登場するのですが、チューリップは、この分野を開拓したバンドのひとつでもあります。

チューリップは、ビートルズに強く影響を受けたバンドで、リーダーの財津和夫は、和製ポール・マッカートニーを自認し、メロディアスでポップな作品を多数制作し、世に送り出しています。

また、メンバー全員が作詞・作曲・ボーカルを担当しているのもこのバンドの特徴のひとつとなっており、この方針は現在も伝統的に受け継がれています。

さてそれでは、今日はそんなチューリップの、1974年6月5日に発売された通算6枚目のシングルである「青春の影」をどうぞ。


青春の影/チューリップ

この曲の歌詞はこちら

「清酒の陰」
清酒の陰 酒の背後に猫
写真は、こちらからお借りしました。

この曲は、「心の旅」からしばらくアイドル路線を走っていたチューリップが、そのイメージを払拭(ふっしょく)して、自分達が目指していた本来の音楽に路線を戻すべく発表したバラード曲です。
アルバム『TAKE OFF(離陸)』からのシングルカットとなっています。

心の旅
曲名 歌手名 ジャケットイメージ
※上の画像をクリックすると、曲ページにジャンプします。

「青春の影」は、結婚式などで歌われることも多い曲ですね。(^^)
が、実のところこの曲は、別れの歌とも始まりの歌とも、どちらにもとれる内容となっています。

財津和男によれば、この曲はの歌詞はビートルズの「The Long And Winding Road」がモチーフになっているということです。

また、彼自身は、

「二人の関係が「恋」から「愛」に変わった。ただそれだけ(後略)」「単純に、主人公である男の成長を歌にしてみようと思った」・「「ただの女、ただの男」になることが確かな幸せにつながると言いたかった」

と語っており、「平凡な幸せこそが最高だ」と説いた、純粋な恋の歌なのです。

なおこの曲は、のちに西城秀樹 『HIDEKI SONG BOOK』(1981年)、福山雅治 『「福山エンヂニヤリング」サウンドトラック The Golden Oldies』(2002年)、つばき 『卒業アルバム』(2004年)、BLUE AGE ORCHESTRA(2004年)、CANCION(2006年)など、多くのアーティストによってカバーされています。

2018年12月13日

「夜のプラットホーム/二葉 あき子」 - 名曲のご紹介

今日は、二葉 あき子の「夜のプラットホーム」のご紹介です。

夜のプラットホーム 二葉 あき子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

二葉 あき子(ふたば あきこ、本名:加藤芳江(かとう よしえ) 1915年2月2日 - 2011年8月16日)は、広島県広島市の女性歌手です。

二葉 あき子は、広島県立広島高等女学校(現在の広島県立広島皆実高等学校)を経(へ)て、1935年に東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)師範科卒業します。

音楽学校に在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で、同校に通う期待の生徒・増永丈夫(ますなが たけお)の美しいバリトンを聴いて感銘を受けます。
その増永丈夫は、すでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていました。

二葉 あき子のレコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコードで、卒業後は、地元の広島の三次高等女学校(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭(きょうべん)をとります。
教師時代も、上京して学校用教材のレコードを吹込みます。

そして、1936年の春に、コロムビアの専属となります。
最初に発売したレコードは、「愛の揺り籃(あいのゆりかご)」でした。
その後「あの夢この夢」「月に踊る」「乙女十九」などで世に知られるようになり、1939年に、松竹映画『春雷』の主題歌「古き花園」が大ヒットしたことで、人気歌手としての声価を得ます。

これ以後、彼女の歌う多くのブルースがヒットするようになります。
また戦時中は、歌手として慰問(いもん)活動をしています。

今日は、そんな二葉 あき子の、1947年2月に発売された代表曲のひとつである「夜のプラットホーム」をどうぞ。


夜のプラットホーム/二葉 あき子

この曲の歌詞はこちら

この曲はもともと、1939年(昭和14年)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷のり子が吹き込んだものです。

が、出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞があるとして、戦時下の時代情勢にそぐわないと検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けたものです。

そして戦後になり、二葉あき子がこの曲を新たに吹き込み直したレコードが発売され、大ヒットとなりました。
この曲は、それまでそこそこのヒットはあったものの、大ヒット曲のなかった二葉あき子にとって、待ち望んでいた朗報(ろうほう)でした。

"( ・。・) ヾ(^^@) ネエネエ。
('_') (^o^ ) 「朗報」ッテ、「さまよい歩く」ッテイウ 意味 ダヨネ。
ソ・レ・ハ、「放浪」! (-_-メ)/~~~~~バシィッ!!(T/O)

二葉あき子といえば、「さよならルンバ」や「水色のワルツ」も名曲ですね。(^^)

2018年12月11日

「青い麦/伊藤 咲子」 - 名曲のご紹介

今日は、伊藤 咲子の「青い麦」のご紹介です。

「青い麦 伊藤咲子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

伊藤 咲子(いとう さきこ、本名:千葉咲子、1958年4月2日 -)は、東京都出身の女性歌手です。
愛称は、サッコ。

伊藤 咲子は、1973年 15歳の時にオーディション番組「スター誕生!」で優勝し、芸能界入りをします。
そして、翌年の1974年に、 「ひまわり娘」でアイドル歌手としてデビュー。

同年末に、「木枯しの二人」を発売。この曲は、翌年の1975年、オリコン年間ヒットチャートで36位にランクインし、自身最大のヒット曲となります。

また、翌年の1976年には、 「きみ可愛いね」で第27回NHK紅白歌合戦初出場を果たします。

そして、「想い出のセンチメンタル・シティ」の発売と同時に、デビュー以来のシングル盤の総数が200万枚を突破したと東芝EMIから発表されます。

1984年には、デビュー10周年を記念して、写真集が出版されます。

今日は、そんな伊藤咲子の、前曲「木枯らしの二人」に続いて1975年03月20日に発売された、通算4枚目のシングルである「青い麦」をどうぞ。


青い麦/伊藤 咲子

この曲の歌詞はこちら

デビューにあたり、「スター誕生!」で芸名を公募しましたが、その際、下ネタ嫌いと言われる司会の萩本欽一から、男性器をもじった案が紹介されました。

その前には、スター誕生出身で、当時「花の中三トリオ」と呼ばれた森昌子・山口百恵・桜田淳子からそれぞれの頭文字をとった「森山 桜」という案も紹介されていました。

しかしながら、最終的には本名でデビューすることになったと萩本欣一が発表しました。

また、歌手活動休止期間はカラオケパブの経営者をしていましたが、その間伊藤咲子がアイドル歌手だった頃のファンがたびたび訪れたといいます。

ちなみに、伊藤咲子は祖父母が山形県出身で、両親は山形疎開時に結婚したため、山形に深い思い入れがあります。
そのため、出生も育った所も東京ですが、山形は自分の故郷だと語っています。

2018年12月04日

「さよならを教えて(Comment te dire adieu)/フランソワーズ・アルディ(Francoise Hardy)」- 名曲のご紹介

今日は、フランソワーズ・アルディの「さよならを教えて」のご紹介です。

さよならを教えて Comment te dire adieu フランソワーズ・アルディ ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

フランソワーズ・アルディ(Francoise Hardy 1944年1月17日 - は、フランスの歌手、シンガーソングライター、女優です。
夫は、ミュージシャンで俳優でもあるジャック・デュトロン。

フランソワーズ・アルディ
フランソワーズ・アルディ ピンナップ ブロマイド
写真は、こちらからお借りしました。

フランソワーズ・アルディは、1962年に「男の子女の子(Tous Les Garcons Et Les Filles)」でデビューをします。

1960年代には、トップアイドルとして活躍。
フランス語圏のみの人気にとどまらず、特にイギリスで人気が爆発。
アイドル人気に伴い、ジャン=リュック・ゴダール監督の『男性・女性』、1966年のアメリカ映画『グラン・プリ』など数作の映画に出演します。

1968年に、アメリカのポピュラーソング「It Hurts to Say Goodbye」にフランス語詞をつけた「さよならを教えて(Comment te dire adieu)」を発表。

そして、この曲の作詞を担当したのが、セルジュ・ゲンスブールで、それ以来、ゲンスブールおよびゲンスブールの妻だったジェーン・バーキンと親しくなります。
このセルジュ・ゲンスブールは「Kiss me Hardy」という曲を書いています。

1960年代後半からは、フランソワーズ・アルディはジョニ・ミッチェル的なシンガーソングライター・スタイルに転向。
シンガーソングライターとして、より自身の内面を表現するようになります。

今日は、そんなフランソワーズ・アルディの、1968年に発売されたヒット曲である「さよならを教えて」をどうぞ。


さよならを教えて(Comment te dire adieu)/フランソワーズ・アルディ(Francoise Hardy)

この曲の歌詞はこちら

50年前の録音ですが、今聴いても、古さを感じさせない鮮明なサウンドです。

この曲は、1973年に日本でも発売され、ヒットしました。
1979年には、TBSのテレビドラマ『沿線地図』で、Ma jeunesse fout l'camp(原題「私の青春は逃げて行く」、邦題「もうへなんか行かない」1967年)、「私の騎士 Si mi caballero」(1971年)が使用され、ドラマの中で繰り返し流されたことから話題を呼び、当時CBSソニーから発売されたシングル盤、ベスト盤「もう森へなんか行かない」がヒットしました。

また、荒井由実(現:松任谷由美)のアルバム『MISSLIM』に収録されている「私のフランソワーズ」という曲は、フランソワーズ・アルディのことを歌ったものです。

さらには、荒井由美が石川ひとみに書いた「まちぶせ」は、この「さよならを教えて」の翻案(ほんあん)とも言われます。