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2018年10月12日

「-Dreaming Girl- 恋、はじめまして(ドリーミング ガール こい、はじめまして)/岡田 有希子(おかだ ゆきこ)」 - 名曲のご紹介

今日は、 岡田 有希子(おかだ ゆきこ)の「 恋・はじめまして」のご紹介です。

恋、はじめまして ドリーミングガール 恋、初めまして 岡田有希子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

岡田 有希子(おかだ ゆきこ、本名:佐藤 佳代(さとう かよ) 1967年 - 1986年)は、愛知県一宮市出身のアイドル歌手、女優です。
愛称は「ユッコ」。

岡田 有希子は、名古屋市立向陽高等学校から堀越高等学校へ編入、卒業。
サンミュージックに所属していた。1980年代中期に活動したアイドル歌手のひとりであり、「ポスト松田聖子」としても期待されていました。

今日は、そんな岡田 有希子の、1984年9月21日に発売された通算3枚目のシングルである「-Dreaming Girl- 恋、はじめまして」をどうぞ。


-Dreaming Girl- 恋、はじめまして(ドリーミング ガール こい、はじめまして)/岡田 有希子(おかだ ゆきこ)

この曲の歌詞はこちら

この曲は、竹内まりやが岡田有希子のために作詞作曲を手掛けた“学園三部作”の最終作となるもので、。デビュー曲の1作目「ファースト・デイト」で同級生との思いがけない馴れ初めを、次作「リトル プリンセス」で遊園地での親密なデートを、そしてこの3作目では、なかなか会えない恋人を想いながら“素敵なレディ”への成長を夢見る少女のときめきを歌い、あたかもファンの男子と次第に愛を深め合っているかのような三部作構成になっています。

この曲は、1984年10月8日のオリコンチャートで7位に入り、岡田有希子にとって、デビュー半年目にして初のトップ10入りとなりました。

そして、『ザ・ベストテン』にも初のランクインを果たし、岡田有希子はこの曲で、売れっ子アイドルとしての地位を確かなものとしました。

併せて、「第15回日本歌謡大賞」優秀放送音楽新人賞、「第26回日本レコード大賞」最優秀新人賞、「第13回FNS歌謡祭」最優秀新人賞等をも、この楽曲で受賞しました。

岡田有希子、可愛かったですねー。(^o^)
ちょっぴり気が強そうな彼女のスマイルも、私は好きでした。(#^.^#)

岡田有希子 ピンナップ
岡田有希子 ピンナップ
写真は、こちらからお借りしました。

が、人気絶頂だった1986年(昭和61年)に、突然の飛び降り自殺。
そして、この報道の後に起こった若者の相次ぐ自殺は、大きな社会問題となりました。
当時のこの現象は、「ユッコ・シンドローム」と呼ばれることもあります。

なお、この曲の約4ヶ月後に発売された「二人だけのセレモニー」も名曲です。
機会があったらご紹介したいと思います。

2018年10月03日

「WON'T BE LONG(ウォント ビー ロング)/バブルガム・ブラザーズ」 - 名曲のご紹介

今日は、バブルガム・ブラザーズの「WON'T BE LONG(ウォント ビー ロング)」のご紹介です。

ウォント ビー ロング バブルガム・ブラザーズ ジャケットイメ-ジ
写真は、こちらからお借りしました。

バブルガム・ブラザーズは、1983年にブラザー・トム(Bro.TOM)とブラザー・コーン(Bro.KORN)のコンビで結成されたデュオです。略称はBGB。
彼らは、もともとは漫才師でした。

バブルガム・ブラザーズは、1985年に「忘れじのエヴリナイト」を発売して、ミュージシャンとしてデビューをします。

そして、シングル『Beautiful People』あたりから、グループ名の英語表記で、定冠詞「THE」(ザ)を黒人英語の「DA」(ダ)に変えて、コーンの綴りも2008年ごろ「KORN」から「KONE」に変えます。

1991年には、前年の1990年に発売したシングル「WON'T BE LONG」が大ヒットし、『第42回NHK紅白歌合戦』に出場。
この年の紅白は、当初は「HOUND DOG」が出場を予定していましたが、NHKとの選曲のもつれから彼らの出場はキャンセルとなり、代役として白羽の矢が立ったのが、「バブルガム・ブラザーズ」です。
そして、当日歌い終わった後、「THANKS TO HOUND DOG」と絶叫します。

それでは、今日はその「WON'T BE LONG」をどうぞ。


WON'T BE LONG(ウォント ビー ロング)/バブルガム・ブラザーズ

この曲の歌詞はこちら

バブルガム・ブラザーズは、1996年以降になるとソロ活動が多くなり、活動休止状態(2004年6月にライブを行ったことがある)となります。

しかしながら、2008年12月3日に発売したシングル「Daddy's Party Night~懲りないオヤジの応援歌~」で、本格的に活動を再開。音楽番組にも出演します。

その際、活動を休止した理由は、不仲によるものであったと語っています。
また、再始動のきっかけは、偶然、2人が町でバッタリ会ったときに会話が弾み、

『お互い病気を乗り越えた(トムは心筋梗塞、コーンは腎疾患)記念に、もう一度やろうか。』

というやり取りがあったことだと語っています。

2018年09月29日

「京都の恋/渚ゆう子」 - 名曲のご紹介

今日は、渚 ゆう子の「京都の恋」のご紹介です。

京都の恋 渚ゆう子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

渚 ゆう子(なぎさ ゆうこ、本名:大江 千鶴子 1945年11月8日 - )は、大阪市浪速区出身の歌手です。

渚 ゆう子は、1967年に、ハワイアン歌謡「早くキスして」でレコードデビューをします。

1970年に、ベンチャーズが作曲した「京都の恋」「京都慕情」を、日本語の歌詞で唄って大ブレイクし、人気歌手の仲間入りを果たします。

「京都の恋」は、オリコンシングルレコード売上げで85万枚を突破し、さらに、1970年年間第10位、翌1971年年間第27位にそれぞれランク、渚 ゆう子自身最大のヒット曲となりました。

また「京都慕情」の方も、翌年の1971年度オリコン年間第15位にランクされています。

今日は、そんな渚 ゆう子の、1970年2月25日に発売された、「京都の恋」をどうぞ。


京都の恋/渚ゆう子

この曲の歌詞はこちら

この曲は、前述したように、ザ・ベンチャーズ作曲ののインストゥルメンタルで、同1970年開催の「日本万国博覧会」を記念して製作されたものです。

この曲の日本での英語題は"Kyoto Doll"で、米題は"EXPO'70"。
オリジナルレコーディングにおいては、主旋律にエレキ・シタール(彼らのコンサートも同様)が使われています。

渚 ゆう子は、1971年に 筒美京平作曲の「さいはて慕情」で第13回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。
第22回NHK紅白歌合戦に「京都慕情」で初出場。
また、歌手としても、この年のシングルレコード売上げの年間第2位となりました。

1972年には、「風の日のバラード」で、第23回NHK紅白歌合戦に2回目の出場を果たし、1981年には、歌手としての第一線から一時引退するも、12年後の1993年に復帰し、「北ホテル」を発売。
1997年には、「京都ひとり」を発売します。

2018年09月19日

「とびだせ初恋/浅野ゆう子」- 名曲のご紹介

今日は、浅野 ゆう子の「とびだせ初恋」のご紹介です。

とびだせ初恋 浅野ゆう子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

浅野 ゆう子(あさの ゆうこ、本名: 赤沢 裕子(あかざわ ゆうこ)、1960年7月9日 -)は、兵庫県神戸市の女優、歌手です。

浅野 ゆう子は、1974年に、アイドル歌手として「とびだせ初恋」でデビューをします。

そしてその後、「恋はダン・ダン」「ひとりぼっちの季節」と、シングルを発売していきます。

が当時の女性アイドルは、小柄であることが好ましいとされており、浅野ゆう子のように長身で日本人離れしたプロポーションのアイドルは、珍しい存在でした。
くわえて、ミニスカートやホットパンツなどでスタイルを強調していたため、女性からの反発を受けたこともあって、アイドル歌手としてはうまくいきませんでした。

そんな中、1976年04月25日に発売された8枚目のシングル「セクシー・バス・ストップ」が大ヒット。
この曲は、浅野ゆう子自身最大のヒット曲となります。

そして、歌を実質休業状態になった1980年代からは、様々な会社の水着キャンペーンモデルなど企業広告で活躍。

ただし、水着での初出は1979年(昭和54年)のカネボウ化粧品CF「一気にこの夏チャンピオン」からで、1981年の洋酒の悩殺ポスターは、世の男性の目を楽しませます。



今日は、そんな浅野ゆう子の、1974年5月25日に発売されたデビュー曲である「とびだせ初恋」をどうぞ。


とびだせ初恋/浅野ゆう子

浅野ゆう子のエピソード

浅野ゆう子は、若い頃はものまね番組にも出演し、風吹ジュン等のものまねを披露していました。

・1980年代後半から1990年代前半にデビューした俳優やお笑い芸人から、「バブル期の大御所」また「ボディコンといえばゆう子」と言われています。
バブル時代当時には、「ボディコンゆう子」の異名が業界に浸透していました。

・1991年の『NHK紅白歌合戦』では、気丈にも鼻の骨の骨折を隠しながら司会を続けるということがありました。

・フジテレビ系『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」において、20回出演の記録をもっています(2012年4月18日出演時点)。これは、和田アキ子(21回出演)に次いで、陣内孝則と並ぶ歴代2位の記録です。

・浅野ゆう子はマイケル・ジャクソンの大ファンで、1980年代の日本公演で追っかけをしたことがあり、神奈川県葉山のフランス料理店で食事を一緒にしたこともあります。

・あまり知られていませんが、浅野ゆう子は若手時代、TBS系の長寿クイズ番組『世界・ふしぎ発見!』の準レギュラー回答者でした(3枠または5枠席)。
これは、前任の女性の準レギュラー回答者だった和田アキ子の事実上の後任として、1986年10月から月1または月2ペースの出演でしたが、女優業が多忙になって出演が困難になったため、1989年頃の出演が最後となっています。

・2017年、年末に一般男性と結婚したことを公式サイトを通じて発表しました。

2018年09月11日

「想い出が多すぎて/高木麻早」 - 名曲のご紹介

今日は、高木 麻早の「想い出が多すぎて」のご紹介です。

想い出が多すぎて 高木麻早 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

高木 麻早(たかぎ まさ、1953年12月31日 - )は愛知県名古屋市出身のシンガーソングライターです。

高木 麻早は、高校生の頃からその歌唱力に注目され、名古屋出身のデュオ「チェリツシュ」の担当番組に出演依頼されたり、地元の名古屋では一目置かれる存在でした。

そして1973年5月に、ヤマハ第5回ポピュラーソングコンテストに出場し、「ひとりぼっちの部屋」で入賞。
『キューピットのささやき』を愛称に、関東ポニーからソノシートでプレキャンペーン。
同年9月10日には、同曲で「ヤマハ音楽振興会」所属でキャニオンレコードからデビューをします。

「ひとりぼっちの部屋」は、40万枚を超える売り上げとなり、ファースト・アルバム『高木麻早』と共に大ヒット。
そして、オリコン新人賞を受賞します。

今日は、そんな高木 麻早の、1974年1月10日に発売されたセカンドシングルである「想い出が多すぎて」をどうぞ。


思い出が多すぎて/高木麻早

この曲の歌詞はこちら

高木 麻早の近況

2004年11月、オリジナルアルバム『True Love』を発売し、音楽活動を再開。
10年以上続いている名古屋ブルーノートでのLIVEは、毎回sold outで終了しています。

2018年は、デビュー45周年のツアーを企画していましたが、イベント会社の不手際で日程が決定できず、2019年に記念コンサートを開催する予定となっています。