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「テイク・ア・チャンス・オン・ミー(Take a Chance On Me)/アバ(ABBA)」 - 名曲のご紹介

今日は、ABBAの「テイク・ア・チャンス・オン・ミー(Take a Chance On Me)」のご紹介です。

アイム・ア・マリオネット アバ ジャケットイメージ

ABBA(アバ)は、世界的に有名なスウェーデン出身のミュージシャン、男女4人グループです。
ABBAは、1970年代の半ばから1980年代の初頭にかけて活躍し、「ポップ・ミュージックの完成者」と呼ばれています。

メンバーは、アグネッタ・フォルツコグ(Agnetha Faltskog)、ビョルン・ウルヴァース(Bjorn Ulvaeus)、ベニー・アンダーソン(Benny Andersson)、アンニ=フリッド・リングスタッド(Anni-Frid Lyngstad)の4人です。

90年代にはマドンナ、最近ではレディー・ガガなど、数多くのミュージシャンが、ABBAの影響を受けたと語っています。
特に、ヨーロッパやオーストラリアでの人気は凄まじいものがあり、CDの総売り上げは3億7,000万枚を超え、世界で最も売れたアーティストにも名を連ねています。

ABBAは、ユーロビジョン・ソング・コンテスト1974優勝をきっかけに、「恋のウォータールー(Waterloo)」の大ヒットでヨーロッパ中に名前が知られることになります。
そして、1976年に「ダンシング・クイーン」が全世界的にヒット。その後は「ザッツ・ミー」や「テイク・ア・チャンス・オン・ミー」「アイム・ア・マリオネット」「きらめきの序曲」「チキチータ」「ザ・ウィナー」など、世界的なヒット曲を連発していきます。

今日はそれら多くのヒット曲の中から「テイク・ア・チャンス・オン・ミー」をどうぞ。


テイク・ア・チャンス・オン・ミー(Take a Chance On Me)/アバ(ABBA)

この曲の歌詞はこちら

ABBAとサンプリング

他の楽曲の(ごく)一部を切り取り、コピペして、自分の制作曲に使うことを「サンプリング」と呼びます。
音楽のレコーディングの世界でも、今やデジタル化が進み、PCを使った楽曲制作がもはや当たり前となった昨今、このサンプリングの在り方が問題となっています。

少し前までは、サンプリングといえば「HIPHOP(ヒップホップ)」という感じで、巷でヒットしているHIPHOPを聴くと、高確率でサンプリング音源が使われていることが確認できました。
が今や、サンプリングはテクノやハウスやPOPSなど、さまさまなジャンルの音楽で行なわれています。

サンプリングには、著作権フリーのものもあり、これらを使うぶんにはもちろん何の問題もないのですが、他人の、著作権のある楽曲から無断で拝借する(パクる)となると、これは大きな問題となります。

ABBAは、このサンプリングというものに寛容でないバンドのひとつで、他のミュージシャンに自分たちの作った曲のサンプリングの使用を許諾することはめったにありません。

ローリン・ヒルの在籍していたヒップホップ・グループのフージーズの楽曲、『Rumble In The Jungle』(1996年発表の『きらめきの序曲』をサンプリング)と、マドンナの楽曲『ハング・アップ』(2005年発表の『ギミー!ギミー!ギミー!』をサンプリング)は、数少ないABBAの許諾例です。


Rumble in the Jungle/The Fugees


Hung Up/Madonna

イギリスのエレクトロニック・ミュージックユニットであるThe KLF (ザ・ケイエルエフ)が、1987年に彼らのアルバム『1987 (What the Fuck Is Going On?)』に収録の楽曲『The Queen And I』にて『ダンシング・クイーン』を無許可でサンプリングした際には、ABAは著作権団体を経由して強く抗議を申し立て、このアルバムは回収措置が取られました。

まあ確かに、自分が苦労して作った作品の一部を、それがたとえ1秒であろうと、他人の楽曲に使われるというのは、あまり感じのいいものではありませんね。
仮にそれが有名アーチストであったとしても…。(@_@)ウーン


「ねえ、『サンプリング』って、2つのものを1つに組み合わせることニャよね」
「それは、『カップリング』。ムニャムニャ」

写真はこちらからお借りしました。

「戻っておいで・私の時間/竹内まりや」 - 名曲のご紹介

今日は、竹内まりやの「戻っておいで・私の時間」のご紹介です。

戻っておいで・私の時間 竹内まりや ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

竹内 まりや(たけうち まりや、本名:山下まりや(旧姓:竹内) 1955年3月20日 -)は、島根県簸川郡大社町(現出雲市)出身のシンガーソングライター、ミュージシャンです。
自称「シンガーソング専業主婦」。夫は、山下達郎。

竹内 まりやは、1978年11月25日にシングル「戻っておいで・私の時間」、アルバム「BEGINNING(ビギニング)」でデビューをします。
当時、アイドル不在の時期と重なったため、当初はそのルックスもあいまって、アイドル歌手のような役割を担います。

1979年に発売したシングル「SEPTEMBER(セプテンバー)」は、第21回日本レコード大賞新人賞を獲得。
1980年に発売したシングル「不思議なピーチパイ」は、資生堂化粧品CMソングとなり、ヒットします。

この頃にアレンジャーとして竹内まりやの前に現れたのが山下達郎で、当初、山下達郎は竹内まりやのレコーディングにアレンジャーとして起用されたのですが、2人の関わりは公私ともに次第に密になっていき、1980年頃から、竹内まりやは山下達郎のマンションにて同棲生活を始めます。

その後は、「もう一度/本気でオンリーユー(Let's Get Married)(1984年4月10日)」「マージービートで唄わせて(1984年8月25日)」「元気を出して(1988年11月28日)」「シングル・アゲイン(1989年9月12日)」「告白(1990年9月18日)」」と、ヒットを飛ばしていきます。

今日は、そんな竹内まりやの、1978年に発売されたデビュー曲である「戻っておいで・私の時間」をどうぞ。


戻っておいで・私の時間/竹内まりや

この曲の歌詞はこちら

この曲は、1978年11月25日にRCA(RVC)より1stアルバム『BEGINNING(ビギニング)』と同時発売されました。
伊勢丹のCMテーマソングとしてつくられたもので、プロデューサーの1人だった宮田茂樹は、この曲のシングル・バージョンのアレンジを気に入っていなかったため、後にベスト・アルバム『VIVA MARIYA!!』を発売する際、服部克久に新アレンジを依頼して再レコーディングし、このアルバムにはその版が収録されました。

宮田茂樹は後に、このときの気持ちを以下のように語っています。

引用:
曲は加藤和彦さん、詞が安井かずみさん、アレンジが瀬尾一三さんと大先輩ばかり。しかしレコーディングが始まったとたん、「おやおや」と思ったことは確かです。だって、出てきた音はDr. Buzzard's Original Savannah Bandの”I'll Play The Fool"と”Cherchez La Famme”にそっくりなんですから。パクリですか! と思いましたが、日本のニュー・ミュージックなんてこんなものなのかもね、とその場では口をつぐんでいました。それでも、のどに刺さった魚の骨みたいでいつまでもスッキリとしない気持ちだったんです。
引用終了:


Dr. Buzzard's Original Savannah Band - "I'll Play The Fool" 1977


Dr. Buzzard's Original Savannah Band - Cherchez La Femme

37年前の本日、デビュー曲「戻っておいで・私の時間」がリリース…竹内まりや、デビュー秘話、のようなもの | 大人のミュージックカレンダー
http://music-calendar.jp/2015112501

そして2011年に、伊勢丹が創業125周年を迎えるにあたり、再びこの「戻っておいで・私の時間」がテーマソングに決定し、この新アレンジ版が33年の時を経て蘇りました。


戻っておいで・私の時間/竹内まりや(2011 Ver.)

そうそう。山下達郎といえば、俳句の季語になっているのですが、ご存知でしたか?
詳しくは、以下の記事をご参照ください。( ^^)/

「山下達郎」「ユーミン」「サザン」は、俳句の季語になっている? | Super源さんの雑学事典
https://www.zatsugaku-jiten.net/blog-entry-1073.html

ちなみに、竹内まりやの生家は、出雲大社正門前に位置する老舗旅館「竹野家」で、4女2男の6人兄弟の三女。
世界で通じるようにとの父の考えから、父親に「まりや」と名づけられました。

また、デビュー後、当初は安井かずみ・加藤和彦夫妻や松本隆などの提供曲を歌っていましたが、これに飽き足らず、次第に自らも作詞・作曲を手がけるようになっていったのは周知の通りです。

「さよなら好き/浜田朱里」 - 名曲のご紹介

今日は、浜田 朱里の「さよなら好き」のご紹介です。

さよなら好き 浜田朱里 ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

浜田 朱里(はまだ じゅり、本名:宮崎珠里(みやざき じゅり) 1962年11月1日 -)は、東京都出身の元女優・元アイドル歌手です。

浜田 朱里は、1980年6月21日に「さよなら好き」でデビューをします。
彼女は当時、「ポスト山口百恵」として周囲から期待されていました。
というのは、浜田朱里がデビューした頃は、既に山口百恵が引退していたため、事務所や周囲のスタッフも、彼女を「ポスト山口百恵」に仕立て上げようと意識していたのです。
そのため、シングルやアルバムが数多く発売されました。

確かに、このデビュー曲のジャケットを見ると、雰囲気が山口百恵に良く似ていますね。おお!(゚o゚)

また浜田 朱里は、ルックスのよさから、女優としても活躍。
整ったルックスと、ややハスキーボイスで独特の雰囲気の歌声とのギャップが、当時の女性アイドルの中でひときわ目立つ存在でした。
その意味で、当時のアイドルとしては唯一無二の存在であり、そのため今も根強いファンが存在します。

松田聖子とは、かつて親友でもあり、1980年デビューの同期生でもあります。
浜田 朱里と同期デビューの歌手には、他に河合奈保子、三原順子、柏原芳江などがいます。

今日は、そんな浜田朱里の、1981年1月21日に発売されたデビュー曲である「さよなら好き」をどうぞ。


さよなら好き/浜田朱里

この曲の歌詞はこちら

浜田 朱里は、その後(正確にはこの曲の次の次、つまり3枚目のシングル)「青い花火」という曲を発売します。
この曲がヒットしたためか、以後「青い嫉妬」「黒い瞳」など、タイトルに色が含まれる曲が何曲か発売されます。

また、アイドルとして活躍するかたわら、ドラマやバラエティでも活躍しており、篠山紀信撮影のヌード写真集が発売されたときは、大いに話題となりました。

浜田朱里のその後

浜田朱里は、1995年に結婚を機に引退します。
が、結婚相手の情報が公開されていないことから、相手の方は一般人ではないかと思われます。
東京在住の、趣味がジェット・スキー仲間だった、4歳年上の会社員だという噂もあるようです。

参考にしたサイト
浜田朱里さんは今何をしていらっしゃいますでしょうか。 - Yahoo!知恵袋https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q129788562