Super源さんの音楽ブログ

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「春咲小紅/矢野顕子」|カネボウ化粧品CMソング 制作の背景&「春先神戸に見に見に見にきてね」と聞こえる謎も解明!

今回は、矢野顕子の「春咲小紅(はるさきこべに)」のご紹介です。
「春咲小紅」は、1981年のカネボウ化粧品・春キャンペーンのために作られた“CMソング発のヒット曲”です。
この曲の作曲陣は、作詞が前年に沢田研二「TOKIO」をヒットさせたばかりの糸井重里、編曲がいわずと知れたYMOメンバー総出の特別名義という精鋭メンバー!
しかしながら、「春咲小紅」は当時、矢野顕子にとって「そんなに愛着がない曲」でした。
この記事では、矢野顕子の人物紹介、「春咲小紅」の楽曲紹介、曲制作の背景、YMOとの濃密な関係、中国イメージを意識したコピー戦略、そして誤解されがちな歌詞の聞こえ方など、面白い裏話を厳選してご紹介します!

春咲小紅 矢野顕子 ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

矢野顕子ってどんな人?

矢野顕子は、東京生まれ・青森育ちのシンガーソングライター/ピアニストです。ひとことで言えば、「ジャンルに縛られない、ものすごく自由な音楽家」。ジャズ、ポップス、ロック、テクノ、童謡的な感覚までを自然に行き来しながら、ピアノ弾き語りを中心に独自の世界を作ってきた人です。公式プロフィールでも、ポップスのフィールドにいながら常にジャンルにとらわれない自由でユニークな活動を続けてきた、と紹介されています。 

矢野顕子が音楽をはじめたきっかけ

矢野顕子が音楽に入っていく最初の入口は、青森での幼少期のピアノでした。幼いころからピアノに親しみ、さらに青森の民謡や祭り囃子のような“土地の音”を聴いて育ったことが、その後の感覚の土台になったようです。加えて、ピアノ教室の先生との出会いが、彼女の大きな特徴である「即興演奏」のスタイルを育てたと紹介されています。つまり、譜面どおりに弾く人というより、感じたことをその場で音にする人として育っていった、ということです。 

矢野顕子がプロになるまで

矢野顕子は、高校は青山学院高等部に進み、在学中からすでにジャズクラブなどで演奏していました。そして1972年ごろには、ティン・パン・アレイ系のセッションメンバーとして活動を始めます。まだ「ニューミュージック」という言葉が広がっていく初期の時代に、裏方の演奏でも存在感を出す、かなり早熟なミュージシャンだったわけです。 

その流れの中で、矢野顕子は1976年にアルバム『JAPANESE GIRL』でソロデビューします。この作品は、LAでローウェル・ジョージらリトル・フィートのメンバーと録音され、「天才少女現わる」と話題になりました。つまり矢野顕子は、最初から“新人アイドル”的に出てきたのではなく、演奏力と作曲力でいきなり強い印象を残したタイプなのです。 

YMOとの接点と、知名度の広がり

デビュー後、矢野顕子は1979年から80年にかけて、YMOの2度のワールドツアーにサポートメンバーとして同行します。ここで彼女は、すでに高く評価されていた演奏家・作曲家としての実力に加えて、YMO周辺の先鋭的なポップ/テクノの空気とも強く結びついていきました。後の「春咲小紅」が、ポップでありながらどこか新しく聞こえるのは、この時期の流れとも無関係ではありません。

「春咲小紅」発売までの経緯

そして1981年、カネボウ化粧品の春キャンペーンCMソングとして「春咲小紅」が世に出ます。
この曲は1981年2月1日に発売され、矢野顕子の名前を一気に全国区へ押し上げました。それまでの彼女は、音楽好きや業界の中で「すごい人」として知られていた面が強かったのですが、「春咲小紅」によってお茶の間レベルで知られる存在になった、という見方がわかりやすいでしょう。公式プロフィールでも、1981年にこのシングルが大ヒットしたことが、キャリア上の大きな節目として記されています。

「春咲小紅」名曲紹介

さて、それでは早速、そんな矢野顕子の「春咲小紅」をどうぞ。
春咲小紅(はるさきこべに)/矢野顕子

「春咲小紅」制作の背景

1. カネボウ化粧品の春キャンペーン曲として制作

「春咲小紅」は、1981年にカネボウが新商品「レディ80 ミニ口紅」を中心に展開した春キャンペーン「春咲小紅ミニミニ」のために制作された曲です。
タイトルの「春咲小紅」というのは、この“ミニ口紅”を漢字で表現したコピーから生まれたものです。
さらに、当時カネボウが北京空港の免税店に初出店したことから、中国風のイメージを出すため漢字表記が採用されました。

2. 作詞はコピーライター・糸井重里

糸井重里は前年に沢田研二「TOKIO」をヒットさせたばかり。
「ミニミニ」というコピーを活かすために、

「ふわふわ」「ユラユラ」「キラキラ」

といった反復語を多用し、ポップで浮遊感のある歌詞に仕上げています。
英語を使わないのも、中国イメージを壊さないための意図です。

3. 編曲は “ymoymo”=YMOメンバー総出の特別名義

編曲クレジットの「ymoymo」は、

細野晴臣・坂本龍一・高橋幸宏・松武秀樹・大村憲司・矢野顕子

という、YMOツアー時のメンバー6人による“この時だけの表記”です。
つまり「春咲小紅」は、実質 YMO総出のテクノ歌謡なのです。

4. 矢野顕子は当初「愛着がない曲」だった

矢野本人は後年、
「CMのために割り切って作ったので、そんなに愛着がない」
と語っています。
しかし、結果的にこの曲は自身最大級のヒットとなり、一般的な知名度を一気に押し上げることになりました。

「春先小紅」の面白い裏話・小ネタ

●「春先神戸に見に見に見にきてね」と聞こえる謎

歌詞の「春咲小紅 ミニミニ見に来てね」が、
「春先神戸に見に見に見に来てね」
と聞こえるため、1981年の「ポートピア’81(神戸の博覧会)」と関係があると誤解されたことがあります。
しかし実際には、まったく関係がありません。

●YMOとの関係が生んだ“中華風テイスト

矢野顕子は1979?80年のYMOワールドツアーに帯同し、 さらに『ごはんができたよ』でもYMOメンバーが全面参加。
この時期の矢野は“チャイナ風テクノ”の中心にいたため、 「春咲小紅」の中華風メロディも自然な流れで生まれたと考えられています。

●テレビ出演での強烈なインパクト

『ザ・ベストテン』出演時には、 坂本龍一・高橋幸宏・大村憲司を従えて演奏。
この時、ピアノを身体の一部のように操る姿が話題になり、 “矢野顕子が世の中に見つかった瞬間”と評されました。

●矢野顕子は「売れること」に興味がなかった

「春先小紅」のヒット後も、 矢野顕子は、
 「売れることが私にとって最大の価値ではない」
と語り、流行歌手になることに魅力を感じていませんでした。

まとめ:CMソングから“異色の春うた”へ

「春咲小紅」は、
  • コピー戦略から生まれたタイトル
  • YMO総出の編曲
  • 糸井重里のコピーライター的発想
  • 矢野顕子のテクノ期の絶頂
が重なって生まれた、極めて時代性の強い楽曲です。

本人は、“割り切り”で作ったにもかかわらず、

結果的に 日本の春ソングの中でも異彩を放つ名曲

となり、 矢野顕子をお茶の間に広く知らしめるきっかけになったのが面白いところです。

「北酒場/細川たかし」|”レコード化の予定すらなかった曲”が「欽ちゃんのどこまでやるの!」でヒット曲に化けたドラマチックないきさつとは

今回は、細川たかしの「北酒場」のご紹介です。
「北酒場」は、1982年3月1日に発売された演歌の名曲です!
この曲は、デビュー曲『心のこり』以来7年ぶりの大ヒットとなった、オリコンで1982年度年間5位を獲得、第24回日本レコード大賞を初受賞した細川たかしの代表曲で、大ヒットのきっかけは「欽ちゃんのどこまでやるの!」でした。
この記事では、細川たかしの人物紹介、「北酒場」の楽曲紹介、あまり知られていない誕生秘話、「欽ちゃんのどこまでやるの!」で採用されたいきさつ、大ヒットのきっかけ、そして面白い裏話(エピソード)を厳選してご紹介します!

北酒場 細川たかし ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

細川たかしってどんな人?

細川たかしは、1975年4月1日に『心のこり』で歌手デビューをします。
そして、第6回日本歌謡大賞で放送音楽新人賞、第17回日本レコード大賞最優秀新人賞獲得など、同年の音楽新人賞を多数受賞します。
さらに、同年末の『第26回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たし、白組のトップバッターを務めます。

1982年3月1日に、『北酒場』を発表。
この曲は、デビュー曲『心のこり』以来7年ぶりの大ヒットとなり、オリコンでは1982年度年間5位を獲得、第24回日本レコード大賞を初受賞します。

1983年2月21日に、ちあきなおみが1976年に発表した『矢切の渡し』のカバーを発表。
この曲は、オリコン1983年度年間2位のヒットとなり、第25回日本レコード大賞を受賞。大賞受賞年の翌年は売れないというジンクスを打ち破り、史上初の2連覇を果たします。

1984年8月21日、『浪花節だよ人生は』を発表。
第26回日本レコード大賞最優秀歌唱賞受賞。3冠達成となります。

1985年には、真狩村に「細川たかしを讃える碑」が、1994年には「細川たかし記念像」が建てられます。

「北酒場」名曲紹介

さて、それでは早速、そんな細川たかしの1982年3月1日に発売された「北酒場」をどうぞ!
北酒場/細川たかし

いやー。(^O^)
何度聴いても飽きない、ノリのいい名曲ですねー。(^O^)v

「北酒場」誕生秘話

細川たかし「北酒場」は、当初“レコード化の予定すらなかった曲”が、テレビ番組での偶然の採用とハプニング続きの放送によって国民的ヒットへと化けた、非常にドラマチックな誕生秘話を持つ作品です。

そもそもレコード化の予定がなかった

「北酒場」は 1982年1月16日にレコーディングされた時点では、発売予定がありませんでした。
作詞は なかにし礼、作曲は 中村泰士。細川のデビュー曲「心のこり」と同じ黄金コンビ。
演歌では珍しい スラップ奏法のベースを取り入れた軽快な歌謡曲スタイルで、当時としては新鮮なサウンドでした。

「北酒場」大ヒットのきっかけ

大ヒットのきっかけは「欽ちゃんのどこまでやるの!」

細川がレギュラー出演していた番組で、萩本欽一が“何か一曲歌おう”と提案し、この曲が採用されました。
1982年1月27日の放送で初披露され、その後 9月15日まで毎週歌われ続けたことで、幅広い層に浸透しました。

「北酒場」面白い裏話(バラエティ番組で語られたエピソード)

① 歌詞を覚えておらず“カンペ事件”

細川本人が語った裏話として有名なのが、歌詞を覚えていなかったためステージ下にカンペを用意してもらったという話。
しかし——

スポットライトが細川を追いかけて動くため、カンペが暗くて読めない。
歌い出しは覚えていましたが、その後が続かず、欽ちゃんにいじられまくり。
結果、サビまで歌えるようになるのに1か月かかったといいます。

② 欽ちゃんの“焦らし作戦”で視聴者が熱狂

萩本欽一の自伝では、別の裏話も語られています。
イントロが流れ、歌う直前に欽ちゃんが話しかけます。
「では歌ってもらいましょう!」→また話しかけます。

結局、歌わないまま時間切れで翌週へ。
これを何週も繰り返し、視聴者は「早く歌わせて!」と盛り上がり、結果的に大ヒットにつながったといいます。

③ 生放送で音程が取れず“やり直し連発”

視聴者の記憶として語られる別のハプニングもあります。
「きた〜の〜♪」と歌い出した瞬間、音程が取れずやり直し。
再挑戦しても同じく外し、欽ちゃんにいじられ、汗だくになる細川。

この“生放送のドタバタ感”が逆に話題になりました。

その後の大成功!

「北酒場」は、その後有線放送で1位を獲得し、オリコンでも最高3位。
1982年には日本レコード大賞・大賞を受賞。
くわえて、NHK紅白歌合戦でも披露され、細川たかしの代表曲となったのです。

「雪列車/前川清」仰天! あの前川清がポップスを歌唱!糸井重里&坂本龍一異色のコラボ&前川清が驚いた歌詞の謎とは

今回は、前川清の「雪列車」のご紹介です。
「雪列車」は、コピーライターとして知られる糸井重里と、YMOのメンバーとして有名な通称「教授」坂本龍一という異色のコンビによって生まれた、演歌の枠を超えた名曲です!
この曲には、制作にかかわるユニークなエピソードもたくさんあります。
この記事では、前川清の人物紹介、「雪列車」の楽曲紹介、制作の背景と狙い、そして多くのエピソードの中から、面白いものを3つ厳選してお届けします!

雪列車 前川清 ジャケットイメージ
出典:https://img15.shop-pro.jp/

前川清ってどんな人?

前川 清(まえかわ きよし、本名同じ、1948年8月19日 - )は、長崎県北松浦郡鹿町町出身の歌手です。
元妻は藤圭子(宇多田ヒカルの実母、現在の妻は非公開)、息子(長男)は歌手で俳優の紘毅。娘(次女)は歌手の前川侑那(Dire Wolf)。そして、姪の義弟に元俳優の加勢大周がいます。

前川清は、1969年2月5日に「内山田洋とクール・ファイブ」のメインボーカルとして、『長崎は今日も雨だった』でメジャー・デビュー。同年の第20回NHK紅白歌合戦で紅白初出場。その後は「噂の女」(1970年)、「そして、神戸」(1972年)、「中の島ブルース」(1975年)、「東京砂漠」(1976年)など多くのヒットを飛ばしていきます。

クール・ファイブの初期は、常に澄まし顔で斜に構え、ほとんど喋らない冷たい二枚目キャラクターでした。しかし、1970年代半ばにフジテレビ「欽ちゃんのドンとやってみよう!」のレギュラーに起用されると、個性を発揮。とぼけたキャラで、笑いの才能も認められるようになりました。

1971年、藤圭子と結婚しましたが翌年に離婚。一時期、アン・ルイスとの交際も噂されました。

ソロ活動後は、ソロデビュー曲の「雪列車」(作曲・坂本龍一)や、「フィクションのように」(作曲・井上大輔)など、ポップス色を出した曲も数多く歌っています。

以降、歌手のみならず「8時だョ!全員集合」「ドリフ大爆笑」や前述の「欽ドン!」といったバラエティ番組のコントでも活躍。1990年代からは梅沢富美男とのコンビでNHK総合テ『ふるさと皆様劇場』や舞台でコントを見せています。

2007年に、クールファイブのメンバーと20年ぶりにレコーディングを行ない、「前川清&クール・ファイブ」として新曲を発売。以降、"前川清&クールファイブ"として、ソロ活動と並行しながら活動しています。

2012年から放送が開始された、九州朝日放送の旅番組「前川清の笑顔まんてんタビ好キ」では、お笑い芸人のえとう窓口(Wエンジン)とともに、九州を中心とした日本各地の行き当たりばったりの旅を行ない、九州地方では人気番組となっています。

「雪列車」名曲紹介

さて、前置きが長くなりましたが、「百聞は一見に如かず」です。
まずは「雪列車」をどうぞお聴きください!

雪列車/前川清

いかがでしょうか。
前川清の「演歌色」がグッと皇太子、じゃなかった後退し、「坂本龍一色」がわずかに感じられる、日本的でどこか哀愁の漂う名曲ですよね。(^-')
前川清はこの曲を、聴いている人が温かい気持ちになるよう、心を込めて歌っているそうです。

「雪列車」制作の背景と狙い

まずは、「雪列車」制作の背景と狙いについてです。

発売年
 1982年

ソロシングル
 「雪列車」は、前川清が「内山田洋とクールファイブ」から独立後、ソロとして発表した初のシングルです。

作詞・作曲陣
 作詞:糸井重里(コピーライターとしても著名)
 作曲・編曲:坂本龍一(YMOのメンバーで世界的音楽家)

狙い:イメージチェンジ
 この作品は、前川清が従来の演歌的イメージから脱却し、より洗練されたポップス色を取り入れた作品にしたいという意図で制作されました。

「雪列車」の面白い制作裏話・エピソード3選

前川清のシングル「雪列車」のエピソードの中で印象的なのは、主に歌詞とレコーディングにまつわる裏話です。
ここでは、その中から3つをご紹介します。

1.歌詞の謎に前川清が唖然

「匂うように 笑うように 雪が降る」という印象的な歌詞について、前川清が糸井重里に意味を尋ねたところ、糸井氏は「特に意味はない」と答えたそうです。この答えに前川は驚いたと語っています。

2. 坂本龍一のこだわり

レコーディングには3日もかかったそうです。通常の演歌のレコーディングと比べると、かなり時間をかけて制作された楽曲だったことがわかります。レコーディング中、坂本龍一は納得がいくまでドラムを何度も叩き直し、スタジオ代がかさみ、当時のレコード会社の社長が冷や汗をかいたというエピソードがあります。

3. 新人歌手への優しさ

番組共演時、当時新人だった演歌歌手の岩本公水(いわもと くみ)は、前川清からかけられた一言に感動し、思わず涙を流したという心温まるエピソードも残っています。

まとめ:「雪列車」は制作陣の個性が融合した作品!

「雪列車」は、演歌の枠を超えた表現力と、制作陣の個性が融合した、近年まれにみる作品です。
雪の情景と心情が繊細に描かれた楽曲で、今なお多くの人の心に残る名曲となっています。
もしもお時間が許せば、是非この曲の歌詞もチェックしてみてください。

前川清「雪列車」歌詞
https://www.kkbox.com/jp/ja/song/1XRxJLcl9YZDxEciVi

なお、演歌の枠を超えたコラボという点では、森進一の「ゆらぎ」も負けてはいません。というより、こちらの方が先輩格ですね。
この路線の曲にご興味をもたれた方は、こちらもどうぞお聴きになってみてください!
 
「ゆらぎ/森進一」 - 演歌の枠を超えたポップス歌謡として制作された楽曲!ダンスパフォーマンスも話題に 面白い裏話・トリビアも紹介!|Super源さんの音楽ブログ

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今日は、森進一の「ゆらぎ」のご紹介です。 「ゆらぎ」は、演歌の枠を超えたポップス歌謡として制作された、森進一の音楽的挑戦心が色濃く反映された作品です。この記事では、森進一の人物紹介、「ゆらぎ」の楽曲紹介、制作の背景、多くの裏話の中から面白いものを3つ厳選してお届けします!