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2018年09月29日

「京都の恋/渚ゆう子」 - 名曲のご紹介

今日は、渚 ゆう子の「京都の恋」のご紹介です。

京都の恋 渚ゆう子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

渚 ゆう子(なぎさ ゆうこ、本名:大江 千鶴子 1945年11月8日 - )は、大阪市浪速区出身の歌手です。

渚 ゆう子は、1967年に、ハワイアン歌謡「早くキスして」でレコードデビューをします。

1970年に、ベンチャーズが作曲した「京都の恋」「京都慕情」を、日本語の歌詞で唄って大ブレイクし、人気歌手の仲間入りを果たします。

「京都の恋」は、オリコンシングルレコード売上げで85万枚を突破し、さらに、1970年年間第10位、翌1971年年間第27位にそれぞれランク、渚 ゆう子自身最大のヒット曲となりました。

また「京都慕情」の方も、翌年の1971年度オリコン年間第15位にランクされています。

今日は、そんな渚 ゆう子の、1970年2月25日に発売された、「京都の恋」をどうぞ。


京都の恋/渚ゆう子

この曲の歌詞はこちら

この曲は、前述したように、ザ・ベンチャーズ作曲ののインストゥルメンタルで、同1970年開催の「日本万国博覧会」を記念して製作されたものです。

この曲の日本での英語題は"Kyoto Doll"で、米題は"EXPO'70"。
オリジナルレコーディングにおいては、主旋律にエレキ・シタール(彼らのコンサートも同様)が使われています。

渚 ゆう子は、1971年に 筒美京平作曲の「さいはて慕情」で第13回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。
第22回NHK紅白歌合戦に「京都慕情」で初出場。
また、歌手としても、この年のシングルレコード売上げの年間第2位となりました。

1972年には、「風の日のバラード」で、第23回NHK紅白歌合戦に2回目の出場を果たし、1981年には、歌手としての第一線から一時引退するも、12年後の1993年に復帰し、「北ホテル」を発売。
1997年には、「京都ひとり」を発売します。

2018年09月19日

「とびだせ初恋/浅野ゆう子」- 名曲のご紹介

今日は、浅野 ゆう子の「とびだせ初恋」のご紹介です。

とびだせ初恋 浅野ゆう子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

浅野 ゆう子(あさの ゆうこ、本名: 赤沢 裕子(あかざわ ゆうこ)、1960年7月9日 -)は、兵庫県神戸市の女優、歌手です。

浅野 ゆう子は、1974年に、アイドル歌手として「とびだせ初恋」でデビューをします。

そしてその後、「恋はダン・ダン」「ひとりぼっちの季節」と、シングルを発売していきます。

が当時の女性アイドルは、小柄であることが好ましいとされており、浅野ゆう子のように長身で日本人離れしたプロポーションのアイドルは、珍しい存在でした。
くわえて、ミニスカートやホットパンツなどでスタイルを強調していたため、女性からの反発を受けたこともあって、アイドル歌手としてはうまくいきませんでした。

そんな中、1976年04月25日に発売された8枚目のシングル「セクシー・バス・ストップ」が大ヒット。
この曲は、浅野ゆう子自身最大のヒット曲となります。

そして、歌を実質休業状態になった1980年代からは、様々な会社の水着キャンペーンモデルなど企業広告で活躍。

ただし、水着での初出は1979年(昭和54年)のカネボウ化粧品CF「一気にこの夏チャンピオン」からで、1981年の洋酒の悩殺ポスターは、世の男性の目を楽しませます。



今日は、そんな浅野ゆう子の、1974年5月25日に発売されたデビュー曲である「とびだせ初恋」をどうぞ。


とびだせ初恋/浅野ゆう子

浅野ゆう子のエピソード

浅野ゆう子は、若い頃はものまね番組にも出演し、風吹ジュン等のものまねを披露していました。

・1980年代後半から1990年代前半にデビューした俳優やお笑い芸人から、「バブル期の大御所」また「ボディコンといえばゆう子」と言われています。
バブル時代当時には、「ボディコンゆう子」の異名が業界に浸透していました。

・1991年の『NHK紅白歌合戦』では、気丈にも鼻の骨の骨折を隠しながら司会を続けるということがありました。

・フジテレビ系『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」において、20回出演の記録をもっています(2012年4月18日出演時点)。これは、和田アキ子(21回出演)に次いで、陣内孝則と並ぶ歴代2位の記録です。

・浅野ゆう子はマイケル・ジャクソンの大ファンで、1980年代の日本公演で追っかけをしたことがあり、神奈川県葉山のフランス料理店で食事を一緒にしたこともあります。

・あまり知られていませんが、浅野ゆう子は若手時代、TBS系の長寿クイズ番組『世界・ふしぎ発見!』の準レギュラー回答者でした(3枠または5枠席)。
これは、前任の女性の準レギュラー回答者だった和田アキ子の事実上の後任として、1986年10月から月1または月2ペースの出演でしたが、女優業が多忙になって出演が困難になったため、1989年頃の出演が最後となっています。

・2017年、年末に一般男性と結婚したことを公式サイトを通じて発表しました。

2018年09月11日

「想い出が多すぎて/高木麻早」 - 名曲のご紹介

今日は、高木 麻早の「想い出が多すぎて」のご紹介です。

想い出が多すぎて 高木麻早 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

高木 麻早(たかぎ まさ、1953年12月31日 - )は愛知県名古屋市出身のシンガーソングライターです。

高木 麻早は、高校生の頃からその歌唱力に注目され、名古屋出身のデュオ「チェリツシュ」の担当番組に出演依頼されたり、地元の名古屋では一目置かれる存在でした。

そして1973年5月に、ヤマハ第5回ポピュラーソングコンテストに出場し、「ひとりぼっちの部屋」で入賞。
『キューピットのささやき』を愛称に、関東ポニーからソノシートでプレキャンペーン。
同年9月10日には、同曲で「ヤマハ音楽振興会」所属でキャニオンレコードからデビューをします。

「ひとりぼっちの部屋」は、40万枚を超える売り上げとなり、ファースト・アルバム『高木麻早』と共に大ヒット。
そして、オリコン新人賞を受賞します。

今日は、そんな高木 麻早の、1974年1月10日に発売されたセカンドシングルである「想い出が多すぎて」をどうぞ。


思い出が多すぎて/高木麻早

この曲の歌詞はこちら

高木 麻早の近況

2004年11月、オリジナルアルバム『True Love』を発売し、音楽活動を再開。
10年以上続いている名古屋ブルーノートでのLIVEは、毎回sold outで終了しています。

2018年は、デビュー45周年のツアーを企画していましたが、イベント会社の不手際で日程が決定できず、2019年に記念コンサートを開催する予定となっています。

2018年09月10日

「太陽がいっぱい/松本伊代」 - 名曲のご紹介

今日は、松本 伊代の「太陽がいっぱい」のご紹介です。

太陽がいっぱい 松本伊代 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

松本 伊代(まつもと いよ、本名:小園 伊代(こぞの いよ) 1965年6月21日 -)は、東京都大田区出身のタレント、歌手、女優です。
夫はタレントのヒロミ、長男はタレントの小園凌央。

松本 伊代は、中学3年生のときに、原宿でスカウトされます。
そして、1981年にTBS系『たのきん全力投球!』の田原俊彦の妹役オーディションに合格し、デビューをします。
同年10月21日には、「センチメンタル・ジャーニー」で、アイドル歌手としてもデビュー。

当時のキャッチコピーは、「瞳そらすな僕の妹」「田原俊彦の妹」。

そして、1982年12月の「第24回日本レコード大賞新人賞」を始めとして、同年に多くの音楽新人賞を受賞します。

その後、『オールナイトフジ』の司会を務めるなど、バラエティ番組でも活動。
1986年からは、川村真澄・林哲司・船山基紀による「恋愛三部作」を発売します。

今日は、そんな松本伊代の、1983年6月1日に発売された通算7枚目のシングルである「太陽がいっぱい」をどうぞ。


太陽がいっぱい/松本伊代

この曲の歌詞はこちら

松本伊代のその後と近況

1993年に、番組での共演がきっかけとなり、B21スペシャルのヒロミと結婚。
その後、2男の母となります。

2005年には、1982年の同期デビューだった早見優・堀ちえみとともにママドルユニット「キューティー★マミー」を結成。

2009年には、アイドル時代の12枚のオリジナルアルバム+ボーナスCD・DVDをまとめたBOXセット「SWEET 16 BOX」のボーナストラックとして、尾崎亜美作詞・作曲・プロデュースによる19年振りの新曲「私の声を聞いて」を発売。
配信限定ながら、シングルカットもされました。

2012年には、品川ステラボールでデビュー30周年記念コンサートを開催しました。

2017年には、2月11日に名古屋ブルーノートで、芸能生活35周年を記念したワンマンライブを開催しました。
地方におけるワンマンライブとしては、これが約25年ぶりとなるもので、終演後には「これからは気を引き締めて、このような形のライブも続けていきたいです」とコメントするなど、今後の音楽活動にさらなる意欲を示しました。

松本伊代、芸能生活35周年記念ライブを名古屋ブルーノートで開催 | OKMusic News
https://okmusic.jp/news/158191

松本 伊代のエピソード

・1982年、新人賞レースを争ったことから、当時は堀ちえみ、小泉今日子、中森明菜、早見優らと共に「花の82年組」の1人と呼ばれました。

・運動が全般的に苦手で、ボールがうまく投げられないなどのエピソードが披露されたこともあり、また、デビュー時は身長156cmに対して体重は38kgしかなく、軽過ぎて自動ドアが開かないこともあったといいます。

・1984年12月29日の放送のオールナイトフジでで、自著と称する『伊代の女子大生 まるモテ講座』を宣伝した際、本の内容について質問をされ、「まだ読んでないのですけど」と発言してしまい、その場にいた片岡鶴太郎から「自分で書いた本なのにまだ読んでないとはどういうことか」と突っ込まれたことがあります。
この件については、「ゲラの状態で最終チェックはしましたが、製本になった状態を見たのはこの時が初めてだったので、(製本された本を)まだ読んでいないと発言した」と弁明をしましたが、後に、この弁明に関しても「嘘です」と白状しており、この本は、すべてゴーストライターによる代筆であったことを認めています。

・松本伊代は独特の低い声質が持ち味ですが、デビュー当初にスタッフから60年代に人気を博した海外の女性グループ「ロネッツ」のテープを渡され、良く聴いて勉強するようにいわれたと語っています。
ロネッツのフロントのロニー・スペクターが独特の低いハスキーボーカルが特徴の歌手で、加えて、松本伊代のデビュー時の楽曲が60年代調のために、スタッフが参考になると考えていた模様です。

・「マイ・ラグジュアリー・ナイト」のヒット曲で知られる歌手のしばたはつみは、松本伊代のはとこで、遠縁にあたります。

2018年09月05日

「黒のクレール/大貫妙子」 - 名曲のご紹介

今日は、大貫妙子の「黒のクレール」のご紹介です。

黒のクレール 大貫妙子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

大貫 妙子(おおぬき たえこ、1953年11月28日[2] - は、東京都杉並区出身のミュージシャンです。
愛称は、「ター坊。

大貫 妙子は、1973年に、山下達郎、村松邦男らとシュガー・ベイブを結成します。

1976年からはソロ活動開始。
シュガー・ベイブの解散後、同年に初のソロアルバム『グレイ・スカイズ』を発売。
レコード会社は日本クラウン→RVC→ミディ→東芝EMIと移籍して現在はソニー・ミュージックダイレクト所属。

1998年に、映画『東京日和』で、第21回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞。

今日は、そんな大貫 妙子の1981年10月21日に発売された「 黒のクレール」をどうぞ。


黒のクレール/大貫妙子

この曲の歌詞はこちら

この曲は、当時、日立マクセルのカセットテープのCMに使われました。

ちなみに、この曲のタイトルに使われている「クレール(clair)」の意味ですが、調べてみたところ、フランス語で「明るい」「透明な」という意味のようです。

>clair:
>Gender: Female Meaning of Claire: "bright, clear"
>Origin of Claire: French form of Clara

Claire: Meaning Of Name Claire | namebarrey
https://nameberry.com/babyname/Claire