[1] [2] [3] [4] [5] [6]

2018年12月13日

「夜のプラットホーム/二葉 あき子」 - 名曲のご紹介

今日は、二葉 あき子の「夜のプラットホーム」のご紹介です。

夜のプラットホーム 二葉 あき子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

二葉 あき子(ふたば あきこ、本名:加藤芳江(かとう よしえ) 1915年2月2日 - 2011年8月16日)は、広島県広島市の女性歌手です。

二葉 あき子は、広島県立広島高等女学校(現在の広島県立広島皆実高等学校)を経(へ)て、1935年に東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)師範科卒業します。

音楽学校に在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で、同校に通う期待の生徒・増永丈夫(ますなが たけお)の美しいバリトンを聴いて感銘を受けます。
その増永丈夫は、すでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていました。

二葉 あき子のレコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコードで、卒業後は、地元の広島の三次高等女学校(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭(きょうべん)をとります。
教師時代も、上京して学校用教材のレコードを吹込みます。

そして、1936年の春に、コロムビアの専属となります。
最初に発売したレコードは、「愛の揺り籃(あいのゆりかご)」でした。
その後「あの夢この夢」「月に踊る」「乙女十九」などで世に知られるようになり、1939年に、松竹映画『春雷』の主題歌「古き花園」が大ヒットしたことで、人気歌手としての声価を得ます。

これ以後、彼女の歌う多くのブルースがヒットするようになります。
また戦時中は、歌手として慰問(いもん)活動をしています。

今日は、そんな二葉 あき子の、1947年2月に発売された代表曲のひとつである「夜のプラットホーム」をどうぞ。


夜のプラットホーム/二葉 あき子

この曲の歌詞はこちら

この曲はもともと、1939年(昭和14年)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷のり子が吹き込んだものです。

が、出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞があるとして、戦時下の時代情勢にそぐわないと検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けたものです。

そして戦後になり、二葉あき子がこの曲を新たに吹き込み直したレコードが発売され、大ヒットとなりました。
この曲は、それまでそこそこのヒットはあったものの、大ヒット曲のなかった二葉あき子にとって、待ち望んでいた朗報(ろうほう)でした。

"( ・。・) ヾ(^^@) ネエネエ。
('_') (^o^ ) 「朗報」ッテ、「さまよい歩く」ッテイウ 意味 ダヨネ。
ソ・レ・ハ、「放浪」! (-_-メ)/~~~~~バシィッ!!(T/O)

二葉あき子といえば、「さよならルンバ」や「水色のワルツ」も名曲ですね。(^^)

2018年12月11日

「青い麦/伊藤 咲子」 - 名曲のご紹介

今日は、伊藤 咲子の「青い麦」のご紹介です。

「青い麦 伊藤咲子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

伊藤 咲子(いとう さきこ、本名:千葉咲子、1958年4月2日 -)は、東京都出身の女性歌手です。
愛称は、サッコ。

伊藤 咲子は、1973年 15歳の時にオーディション番組「スター誕生!」で優勝し、芸能界入りをします。
そして、翌年の1974年に、 「ひまわり娘」でアイドル歌手としてデビュー。

同年末に、「木枯しの二人」を発売。この曲は、翌年の1975年、オリコン年間ヒットチャートで36位にランクインし、自身最大のヒット曲となります。

また、翌年の1976年には、 「きみ可愛いね」で第27回NHK紅白歌合戦初出場を果たします。

そして、「想い出のセンチメンタル・シティ」の発売と同時に、デビュー以来のシングル盤の総数が200万枚を突破したと東芝EMIから発表されます。

1984年には、デビュー10周年を記念して、写真集が出版されます。

今日は、そんな伊藤咲子の、前曲「木枯らしの二人」に続いて1975年03月20日に発売された、通算4枚目のシングルである「青い麦」をどうぞ。


青い麦/伊藤 咲子

この曲の歌詞はこちら

デビューにあたり、「スター誕生!」で芸名を公募しましたが、その際、下ネタ嫌いと言われる司会の萩本欽一から、男性器をもじった案が紹介されました。

その前には、スター誕生出身で、当時「花の中三トリオ」と呼ばれた森昌子・山口百恵・桜田淳子からそれぞれの頭文字をとった「森山 桜」という案も紹介されていました。

しかしながら、最終的には本名でデビューすることになったと萩本欣一が発表しました。

また、歌手活動休止期間はカラオケパブの経営者をしていましたが、その間伊藤咲子がアイドル歌手だった頃のファンがたびたび訪れたといいます。

ちなみに、伊藤咲子は祖父母が山形県出身で、両親は山形疎開時に結婚したため、山形に深い思い入れがあります。
そのため、出生も育った所も東京ですが、山形は自分の故郷だと語っています。

2018年12月04日

「さよならを教えて(Comment te dire adieu)/フランソワーズ・アルディ(Francoise Hardy)」- 名曲のご紹介

今日は、フランソワーズ・アルディの「さよならを教えて」のご紹介です。

さよならを教えて Comment te dire adieu フランソワーズ・アルディ ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

フランソワーズ・アルディ(Francoise Hardy 1944年1月17日 - は、フランスの歌手、シンガーソングライター、女優です。
夫は、ミュージシャンで俳優でもあるジャック・デュトロン。

フランソワーズ・アルディ
フランソワーズ・アルディ ピンナップ ブロマイド
写真は、こちらからお借りしました。

フランソワーズ・アルディは、1962年に「男の子女の子(Tous Les Garcons Et Les Filles)」でデビューをします。

1960年代には、トップアイドルとして活躍。
フランス語圏のみの人気にとどまらず、特にイギリスで人気が爆発。
アイドル人気に伴い、ジャン=リュック・ゴダール監督の『男性・女性』、1966年のアメリカ映画『グラン・プリ』など数作の映画に出演します。

1968年に、アメリカのポピュラーソング「It Hurts to Say Goodbye」にフランス語詞をつけた「さよならを教えて(Comment te dire adieu)」を発表。

そして、この曲の作詞を担当したのが、セルジュ・ゲンスブールで、それ以来、ゲンスブールおよびゲンスブールの妻だったジェーン・バーキンと親しくなります。
このセルジュ・ゲンスブールは「Kiss me Hardy」という曲を書いています。

1960年代後半からは、フランソワーズ・アルディはジョニ・ミッチェル的なシンガーソングライター・スタイルに転向。
シンガーソングライターとして、より自身の内面を表現するようになります。

今日は、そんなフランソワーズ・アルディの、1968年に発売されたヒット曲である「さよならを教えて」をどうぞ。


さよならを教えて(Comment te dire adieu)/フランソワーズ・アルディ(Francoise Hardy)

この曲の歌詞はこちら

50年前の録音ですが、今聴いても、古さを感じさせない鮮明なサウンドです。

この曲は、1973年に日本でも発売され、ヒットしました。
1979年には、TBSのテレビドラマ『沿線地図』で、Ma jeunesse fout l'camp(原題「私の青春は逃げて行く」、邦題「もうへなんか行かない」1967年)、「私の騎士 Si mi caballero」(1971年)が使用され、ドラマの中で繰り返し流されたことから話題を呼び、当時CBSソニーから発売されたシングル盤、ベスト盤「もう森へなんか行かない」がヒットしました。

また、荒井由実(現:松任谷由美)のアルバム『MISSLIM』に収録されている「私のフランソワーズ」という曲は、フランソワーズ・アルディのことを歌ったものです。

さらには、荒井由美が石川ひとみに書いた「まちぶせ」は、フランソワーズ・アルディのこの「さよならを教えて」の翻案(ほんあん)とも言われます。

2018年11月22日

「ハイティーン・ブギ/近藤 真彦」- 名曲のご紹介

今日は、近藤 真彦の「ハイティーン・ブギ」のご紹介です。

ハイティーン・ブギ 近藤 真彦 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

近藤 真彦(こんどう まさひこ、1964年7月19日 -)は、神奈川県横浜市瀬谷区出身の実業家、歌手、俳優、タレント、レーシングドライバーです。ニックネームは、マッチ。

近藤 真彦は、1979年10月にTBSのテレビドラマ「3年B組金八先生」の生徒役でデビューをします。
そして、同じく生徒役だった田原俊彦、野村義男とともに、「たのきんトリオ」として活躍します。

その後、ソロ歌手としてデビューし、1980年代を代表する男性アイドルとして、「ザ・ベストテン」や「ザ・トップテン」などの歌番組を中心に活躍します。

また、1981年、1983年のブロマイド年間売上成績では第1位を獲得し、1987年の「第29回日本レコード大賞」では、「愚か者」で大賞を受賞します。

今日は、そんな近藤 真彦のヒット曲の中から、1982年6月30日に発売された通算7枚目のシングルである「ハイティーン・ブギ」をどうぞ。


ハイティーン・ブギ/近藤真彦

この曲の歌詞はこちら

この曲は、前作「ふられてBANZAI」の3ヶ月後に発売されたシングルで、1982年のオリコンシングルチャートにおいて1位を獲得しています。

また、東宝映画・『ハイティーン・ブギ』の主題歌で、 東山紀之がこの曲について、

「当時は合宿所のリビングで『若い子の意見も聞きたい』という事で俺たちもミーティングに一緒にいたりした。『ハイティーン・ブギ』の時は(作曲した)山下達郎さんが合宿所に来て、達郎さんがお酒が好きという事で、俺(東山)が水割り作って達郎さんに差し出した」

というエピソードを語っています。

(* ̄O)◇ゞ ゴクゴク。
(=^~^)o∀ウィーッ!
” ( '_') ゴキゲンダネ。(^・^ )ナニ ノンデル ノ?
クルボアジェ ナポレオン サ。( ^0^)// w(゚o゜)w ワォーッ!

近藤真彦と言えば、「ブルージンズ・メモリ-」も名曲ですね。(^^)
お時間が許せば、こちらもお聴きになってみて下さい。

ブルージーンズメモリー 近藤 真彦 ジャケットイメージ
※上の画像をクリックすると、曲ページにジャンプします。


そうそう、山下達郎といえば、なんと、俳句の季語になっているのですが、ご存知でしたか?(^^)

「山下達郎」「ユーミン」「サザン」は、俳句の季語になっている? | Super源さんの雑学事典
http://www.zatsugaku-jiten.net/blog-entry-1073.html

「え? そうワンか?」


はい、本当ですワン。(^^)

2018年11月09日

「アムール/サーカス」- 名曲のご紹介

今日は、サーカスの「アムール」のご紹介です。

アムール サーカス ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

サーカスは、1978年にデビューした男女2人ずつからなる4人組のコーラスグループです。

メンバーは、叶正子、叶高、叶ありさ、吉村勇一。

サーカスは、1977年に「月夜の晩には」で仮デビューをします。
この時のメンバーは、すが健、茂村泰彦、叶正子、卯月節子です。

そして、1978年に、バンド活動を志向していた男性2名がメジャーデビュー直前に脱退。
急きょ叶正子の弟の高(たかし)と央介(おうすけ)を加えて再結成されました。

1978年に、シングル「Mr.サマータイム」(ミシェル・フュガンのカヴァー曲) で本格的にデビュー。
この曲は、同年8月中に100万枚を突破する大ヒットとなります。
他のヒット曲としては、1979年に発売された「アメリカン・フィーリング」、1988年発売の「Woman in Love」などもあります。


サーカスは、それまでどのグループにもなかった男女2人ずつ、しかも三人姉弟と従姉というユニークな編成のヴォーカルグループとして誕生したのが特徴です。

1984年に、卯月節子が結婚、叶央介はソロ活動のため二人はグループから離れ、原順子と嶋田徹の二人が新メンバーとして加入。

1988年には、嶋田徹がグループを離れ、叶央介が復帰。

1991年に、叶央介と原順子が結婚し、メンバー4人が「親族」となります。

今日は、そんなサーカスの、1978年11月25日に発売された、通算4枚目のシングルである「アムール」をどうぞ。


アムール/サーカス

この曲の歌詞はこちら

サーカスの近況

2013年に、叶央介と原順子が2人のライブユニット「J&O」(→「2VOICE」)の活動に専念するためグループを離れ、叶ありさと吉村勇一が新メンバーとして加入します。

2013年4月24日に、メンバーチェンジ後、初となるアルバム「We Love Harmony!」を発表。

2013年5月29日に、アルバム「THE REBORN SONGS~80'sハーモニー~」を発表しています。