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2017年04月25日

「走れコウタロー/ソルティー・シュガー」 - 名曲のご紹介

今日は、ソルティー・シュガーの「走れコウタロー」のご紹介です。

走れコウタロー ソルティー・シュガー ジャケットイメージ

ソルティー・シュガーは、フォークシンガーグループです。

メンバーは、山本厚太郎(山本コウタロー、ボーカル、ギター)、手塚通夫(ボーカル、コントラバス)、佐藤敏夫(ボーカル、バンジョー)、高橋隆(ボーカル、ギター)。

ソルティー・シュガーは、コミックバンドともいわれますが、本来はカレッジ・フォークに属します。
ソルティー・シュガーの前身は、東京都立日比谷高等学校を中心にステージに出ていた高校生バンド、「ワイリット・マン」で、大学進学のときに、佐藤敏夫が抜けることになり、その際、佐藤の名前をバンド名に残そうということで、佐藤敏夫→さとうとしお→砂糖と塩→シュガーアンドソルト→ソルティーシュガーとなったのがその名前の由来です。

1969年12月(昭和44年)に、山本・池田・手塚・高橋の幼なじみ大学生4人組グループとして「ああ大学生」でデビュー。
が、売れたのはわずか3000枚でした。

しかしながら、翌年の1970年に発表した「走れコウタロー」がミリオンセラーの大ヒット。
この曲は、同年1970年に行なわれた第12回日本レコード大賞の新人賞を獲得します。

この曲に出てくる馬の名前は、当初は実在の馬の名前の歌でしたが、山本が練習に遅刻してばかりいるので、作詞担当の池田がコウタローに変えました。

ソルティー・シュガーはその後、「日本国有鉄道5月10日の歌」「ハナゲの唄」などのコミックソングも発表します。

今日は、そんなソルティー・シュガーの、1970年5月に発売された2枚目のシングルである「走れコウタロー」をどうぞ。

山本はその後、武蔵野タンポポ団、ソロ活動を経て、「山本コウタローとウィークエンド」を結成。
1974年には、大ヒットソング「岬めぐり」を発表します。

1976年には、山本以外の三人で再結成し、「ソルティー・シュガーII」の名前でシングルを1枚発表します。

2005年から、「山本コウタローとウィークエンド」を、一部メンバーを替えて、「山本コウタローとほぼウイークエンド」として再結成。
ライブ活動を開始します。

ちなみに現在、佐藤敏夫は現在陶芸家として活躍しています。
また、高橋隆は1976年にビクター音楽産業に入社し、ディレクターとして活躍しました。

2017年04月15日

「ドム(Dom)/サンタナ(Santana)」- 名曲のご紹介

今日は、サンタナの「ドム(Dom)」のご紹介です。

ドム シェイプシフター サンタナ ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

サンタナ(Santana)は、ギタリストのカルロス・サンタナ(Carlos Santana)を中心とした、アメリカのラテン・ロック・バンドです。

サンタナは、1966年にサンフランシスコで結成された「サンタナ・ブルース・バンド」が前身で、「サンタナ・ブルース・バンドがその後「サンタナ」と改名。
1969年に、コロムビア・レコードからデビューをします。

そして、それと同時期に、ウッドストック・フェスティバルに出演して、話題となります。

1970年に、セカンド・アルバム「天の守護神」を発売。
このアルバムは、ビルボード誌のアルバム・チャートで1位を獲得します。

1971年に、ニール・ショーンが加入して、ツイン・ギター編成となり、ジャズ・ロック色を強めたアルバム「キャラバンサライ」(1972年)を発表。
その後、大幅なメンバー・チェンジが起こり、新たにトム・コスター等が加わります。

1981年に、アルバム「ジーバップ!」を発売。
このアルバムは、全米9位のヒット作となります。

サンタナのその後の作品は、チャート順位は低迷しますが、バンドとしてはコンスタントに活動を継続。
1987年に発売された「フリーダム」では、ジミ・ヘンドリックスとの共演で知られるドラマー、バディ・マイルスがボーカルを担当。

1998年には、ロックの殿堂入りを果たします。

1999年に発表したアルバム「スーパーナチュラル(SUPERNATURAL)」は、バンドにとって28年ぶりの全米1位獲得を果たし、アメリカだけで1500万枚、全世界で3000万枚以上を売り上げるという大復活となります。
この作品は、グラミー賞史上最多の9部門を受賞し、収録曲「スムース (Smooth)」がビルボードのHOT 100で12週連続1位を獲得。
バンドにとって、初の全米1位シングルとなりました。

今日は、そんなサンタナの、2012年に発売されたスタジオアルバム・シェイプ・シフター(Shape Shifter)の中から「ドム(Dom)」をどうぞ。


ドム(Dom)/サンタナ(Santana)

2017年04月06日

「若草の招待状/新田恵理」 - 名曲のご紹介

今日は、新田 恵利の「若草の招待状」のご紹介です。


写真は、こちらからお借りしました。

新田 恵利(にった・えり、1968年3月17日 -)は、埼玉県上福岡市(現・ふじみ野市)出身の歌手、タレントです。

新田 恵利は、高校三年生の時に、1985年4月におニャン子クラブ会員番号4番としてテビュー。フジテレビの「夕やけニャンニャン」に出演します。

がすぐに、自分は芸能界には向いていないと思い、番組スタッフに辞めたいと申し出ますが、「週刊文春喫煙事件」で5人のメンバー(1番・奥田美香、2番・榎田道子、3番・吉野佳代子、7番・友田麻美子、10番・佐藤真由美)が脱退したため、出演を継続することとなります。

同年の7月に、おニャン子クラブのデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」でフロントメンバーに選ばれ、以降、おニャン子クラブの「顔」として人気を博します。

そして、人気者になった新田 恵利は、高校卒業後もタレント活動を続けたいという意志を固め、芸能事務所「ボンド企画」に所属し、芸能界に残ることとなります。

1986年1月1日に、シングル「冬のオペラグラス」でソロデビュー。
この曲は、オリコン初登場で1位となり、30万枚以上の売り上げを記録します。

新田 恵利の、目が「ヘ」の字になるような笑顔は「100万ドル」と評され、シングルのジャケットをあしらったノベルティ「新田トランプ」が破格の値段で取引されました。

それでは今日は、そんな新田恵利の、1987年2月14日に発売された通算5枚目のシングルである「若草の招待状」をどうぞ。


若草の招待状/新田恵利

いやー、いい曲ですねー。(^o^)
この曲は、フジテレビ系アニメ『世界名作劇場『愛の若草物語』のオープニングテーマ(第1話~第14話)として使われました(エンディングテーマは、同じく新田恵利の「夕陽と風とメロディ」)。

新田 恵利の近況

・2002年、期間限定で復活したおニャン子クラブに参加。
このころから。布川敏和、堀ちえみなどのように「当時の裏話を語る80年代アイドル」としてテレビ出演する機会も増える。
また、同時期から夫婦で神奈川県逗子市に居住し、逗子や近隣の鎌倉市を案内するテレビ番組の企画にも出演するようになる。

・2007年、福岡県嘉麻市にたけし軍団の井手らっきょが中心となって発足した誕生した硬式野球クラブ「嘉麻市バーニングヒーローズ」の応援団を務める。

・2010年、サントリー「ボス 贅沢微糖」テレビCM第8弾「贅沢銀行」篇でおニャン子クラブの限定復活に参加。
同時期から当時犬猿の仲だったといわれる国生さゆりともテレビ番組で共演する機会が増え、7月9日、有楽町のディスコ「クラブディアナ」で同じステージに立ち、新ユニット結成を約束した。

・同じく2010年より、手製のアクセサリーやテディベアなどを販売するインターネットショップ「EriS」を展開。

・2011年7月、初の小説『アイドルとつきあう方法』を出版。

・2016年6月15日、2013年に出演したテレビ番組で発見した脳動脈瘤の手術を行ない、6月18日に退院。
翌日には仕事復帰。

2017年04月02日

「ひまわり娘/伊藤 咲子」 - 名曲のご紹介

今日は、伊藤 咲子の「ひまわり娘」のご紹介です。

ひまわり娘 伊藤 咲子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

伊藤 咲子(いとう さきこ、本名:千葉咲子、1958年4月2日 -)は、東京都出身の女性歌手です。

伊藤 咲子は、1973年 15歳の時にオーディション番組「スター誕生!」で優勝し、これをきっかけに芸能界へ入ります。
そして、翌年の1974年に、 「ひまわり娘」で、アイドル歌手としてデビュー。

同年末には、「木枯しの二人」を発売。
この曲は、翌年の1975年、オリコン年間ヒットチャートで36位にランクイン。
自身最大のヒット曲となります。

また、翌年の1976年には、 「きみ可愛いね」で「第27回NHK紅白歌合戦初」出場を果たします。

今日は、そんな伊藤 咲子の、1974年12月01日に発売されたデビュー曲、「ひまわり娘」をどうぞ。
この曲の歌詞はこちら

ちょっぴりセクシーさを強調したジャケットでしょうか?
笑顔が素敵です。(^^)

伊藤 咲子の曲は、あと「青い鳥逃げても」が、私には強く印象に残っています。
こちらはぶっちゃけた話、それほど良い曲ではないのですが(^^;、彼女の豊かな声量と表現力で、”聴かせる曲”になっているという感じです。

機会がありましたら、1度お聴きになってみてください。
私のいっていることが、お分かりいただけるかと思います。

岩崎宏美や由紀さおりもそうですが、特別名曲ではないごく普通の曲が、彼女たちが歌うと、たちまち味のある素晴らしい曲に変身します。おお!(゚o゚)
これがきっと、”プロの歌唱”というものなのでしょうね。
(゚ー゚)(。_。)ウンウン ← (^^;ヒトリデ 納得 シテル。

伊藤 咲子のエピソード

・デビューするにあたり、「スター誕生!」で芸名を公募した際、男性器をもじった案が、下ネタ嫌いといわれる司会の萩本欽一によって紹介された。
その前には、スター誕生の出身で、当時「花の中三トリオ」と呼ばれた森昌子・山口百恵・桜田淳子の3人の、それぞれ最初の文字をいただいた「森山 桜」という案も紹介された。
が、最終的には、本名でデビューすることになったと萩本欣一によって発表された。

・母方の親戚に声楽家の砂原美智子がいる。

・同期にデビューした城みちると、3、4年交際していたことをお互いに明かしている。

2017年03月31日

「センチメンタルジャーニー/松本伊代」 - 名曲のご紹介

今日は、松本 伊代の「センチメンタルジャーニー」のご紹介です。

センチメンタルジャーニー 松本伊代 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

松本 伊代(まつもと いよ、本名:小園 伊代(こぞの いよ) 1965年6月21日 -)は、東京都大田区出身のタレント、歌手、女優です。
夫はタレントのヒロミ、長男はタレントの小園凌央。

松本 伊代は、中学3年生のときに、原宿でスカウトされます。
そして、1981年にTBS系『たのきん全力投球!』の田原俊彦の妹役オーディションに合格し、デビューをします。
同年10月21日には、「センチメンタル・ジャーニー」で、アイドル歌手としてもデビュー。

当時のキャッチコピーは、「瞳そらすな僕の妹」「田原俊彦の妹」。

そして、1982年12月の「第24回日本レコード大賞新人賞」を始めとして、同年に多くの音楽新人賞を受賞します。

その後、『オールナイトフジ』の司会を務めるなど、バラエティ番組でも活動。
1986年からは、川村真澄・林哲司・船山基紀による「恋愛三部作」を発売します。

今日は、そんな松本伊代の、デビュー曲である「センチメンタルジャーニー」をどうぞ。


松本伊代 ?♪☆ センチメンタルジャーニー  LIVE 投稿者 qqmt5fb9k

この曲の歌詞はこちら

この曲は、ロッテ「ガーナチョコレート」のCMソングに使われました。
デビューシングルながら、売り上げは松本伊代自身最大のヒットとなり、さらにこの曲で、松本伊代は翌1982年の第24回日本レコード大賞新人賞を受賞しました。

この曲の歌詞には「伊代はまだ16だから」とありますが、NHKの『レッツゴーヤング』に出演した歳に、この『伊代は』のところが「『わたし』に変更されました。
これは、この曲の発表当時、松本伊代が歌詞通り本当に16歳であり、当時のNHKの基準に照らして、「歌詞が松本伊代の個人宣伝になる」と判断されたためです。

松本伊代のその後と近況

1993年に、番組での共演がきっかけとなり、B21スペシャルのヒロミと結婚。
その後、2男の母となります。

2005年には、1982年の同期デビューだった早見優・堀ちえみとともにママドルユニット「キューティー★マミー」を結成。

2009年には、アイドル時代の12枚のオリジナルアルバム+ボーナスCD・DVDをまとめたBOXセット「SWEET 16 BOX」のボーナストラックとして、尾崎亜美作詞・作曲・プロデュースによる19年振りの新曲「私の声を聞いて」を発売。
配信限定ながら、シングルカットもされました。

2012年には、品川ステラボールでデビュー30周年記念コンサートを開催しました。

2017年には、2月11日に名古屋ブルーノートで、芸能生活35周年を記念したワンマンライブを開催しました。
地方におけるワンマンライブとしては、これが約25年ぶりとなるもので、終演後には「これからは気を引き締めて、このような形のライブも続けていきたいです」とコメントするなど、今後の音楽活動にさらなる意欲を示しました。

松本伊代、芸能生活35周年記念ライブを名古屋ブルーノートで開催 | OKMusic News
http://okmusic.jp/#!/news/158191

なおこの曲は、YUKIが歌った「センチメンタルジャーニー」とは同名異曲です。

松本 伊代のエピソード

・1982年、新人賞レースを争ったことから堀ちえみ、小泉今日子、中森明菜、早見優らと共に「花の82年組」の1人と呼ばれた。

・運動が全般的に苦手で、ボールがうまく投げられないなどのエピソードが披露されたこともあった。また、デビュー時は、身長156cmに対して体重は38kgしかなく、体重が軽過ぎて自動ドアが開かないこともあったという。

・1984年12月29日の放送のオールナイトフジでで、自著と称する『伊代の女子大生 まるモテ講座』を宣伝した際、本の内容について質問をされ、「まだ読んでないのですけど」と発言してしまい、その場にいた片岡鶴太郎から「自分で書いた本なのにまだ読んでないとはどういうことか」と突っ込まれたことがある。
この件については、「ゲラの状態で最終チェックはしましたが、製本になった状態を見たのはこの時が初めてだったので、(製本された本を)まだ読んでいないと発言した」と弁明をしたが、後に、この弁明に関しても「嘘です」と白状しており、この本は、すべてゴーストライターによる代筆であったことを認めている。

・ボンカレーのCM「だってらっきょうが転がっちゃう編」の撮影で笑うシーンがあるが、本人が緊張してうまく笑えなかったため、テーブルの下にスタイリストが入って足の裏をくすぐり、笑わせられることになったという撮影裏話がある。



・独特の低い声質が持ち味であるが、デビュー当初はスタッフから60年代に人気を博した海外の女性グループのロネッツのテープを渡され、良く聴いて勉強するようにいわれたと語っている。
やはり、ロネッツのフロントのロニー・スペクターは独特の低いハスキーヴォーカルで、加えて松本伊代のデビュー時の楽曲が60年代調のため、参考になるとスタッフが考えていた模様。

・「マイ・ラグジュアリー・ナイト」のヒットで知られる歌手のしばたはつみははとこで、遠縁にあたる。