Super源さんの音楽ブログ

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「アカシアの雨がやむとき/西田佐知子」 - 歌謡映画「アカシアの雨がやむとき」の主題歌&西田佐知子の代表曲

今日は、西田 佐知子の「アカシアの雨がやむとき」のご紹介です。


写真はこちらからお借りしました。

西田 佐知子(にしだ さちこ、本名:関口 佐智子、1939年1月9日 - )は、大阪府大阪市城東区出身の元歌手です。愛称は「さっちん」。
夫は俳優・テレビ司会者・タレントの関口宏。俳優・タレントの関口知宏は息子。

西田 佐知子は、1956年に、「伊那の恋唄」で歌手デビューをします。

1960年に、「死ぬまで一緒に」を発売。

1961年に、ギリシャ映画「日曜はダメよ」同名主題歌がスマッシュヒット。
続けて、外国曲のカバー「コーヒールンバ」がメガヒット。
西田 佐知子は、これらの曲のヒットにより、一躍その名を知られるようになります。
 

「コーヒールンバ/西田佐知子」 - 1961年にメガヒットした、ホセ・マンソ・ペローニ作曲の「Moliendo Cafe」のカバー曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、西田 佐知子の「コーヒールンバ」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。西田 佐知子(にしだ さちこ、本名:関口 佐智子。1939年1月9日 - )は、大阪府大阪市城東区出


今日は、そんな西田佐知子の、1962年に発売された「アカシアの雨がやむとき」をどうぞ。
 
アカシアの雨がやむとき/西田佐知子

この曲の歌詞はこちら

この曲は、西田佐知子の代表曲です。
西田佐知子はこの曲で、第4回日本レコード大賞特別賞を受賞しています。

「アカシアの雨がやむとき」は、AB面に異なる歌手の歌が収録されたシングルレコード

「アカシアの雨がやむとき」は、A面とB面に異なる歌手の歌う楽曲が収録されているシングルレコードのA面として、1960年4月に発売されたものです。
B片面には、原田信夫が歌う「夜霧のテレビ塔」が収録されています。

このレコードは、ポリドール・レコードから発売された西田佐知子の4枚目のシングルで、それ以前に発売された3枚も、やはり異なる歌手とカップリングされたシングルレコードでした。

発売当初、このレコード・ジャケットは、名前表記が当時の本名とされる「西田佐智子」になっており、原田信夫の顔写真も掲載されていました。

発売当初の「アカシアの雨がやむとき」のジャケットイメージ
アカシアの雨がやむとき 西田佐知子 発売初期のジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

しかしながら、この曲が世間に浸透した結果、レコード・ジャケットが西田佐知子のみの写真に変更され、名前も現在の芸名である「西田佐知子」に修正され、このリニューアル盤が流通していきました。

西田佐知子はこの曲で、第4回日本レコード大賞特別賞を受賞

前述したように、このシングル盤の発売自体は1960年ですが、「NHK紅白歌合戦」では1962年の第13回で初披露されました。
そして、同年の末に放送された「第4回輝く!日本レコード大賞」において、この曲のロング・セールスが評価され、「特別賞」が授与されました。

そして1963年には、浅丘ルリ子主演、高橋英樹が相手役で西田佐知子本人も出演する、日活制作の歌謡映画「アカシアの雨がやむとき」が封切られました。
なお、この曲で歌われているアカシアは、本当のアカシアではなく、ニセアカシアとされます。

「ええ? ニセ物なの?」


この猫ちゃん、ちょっと驚きすぎという気が。(^o^;

「アカシアの雨がやむとき」がヒットした背景

「アカシアの雨がやむとき」がヒットした背景として、「日米安保闘争」と関連付けて語られることが多くあります。

それは、1960年1月の「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」調印を発端とした安保闘争後、反対運動の成果ゼロという結果に疲れた若者たちが、西田佐知子の乾いたボーカルと廃頽的(たいはいてき)な詞に共鳴し、歌われたことで広まっていった、というものです。

そのため、テレビ番組においては、当時の世相を反映する楽曲として、安保闘争(とりわけ樺美智子死亡による抗議デモ)の映像のバックで流れることがあります。

西田佐知子は、今どうしている?

関口邸_01

西田佐知子ですが、現在は病気で、これまで住んでいた豪邸(ごうてい)を売って転居したという情報が入っています。
もう既に、関口宏の住んでいた東京都世田谷区の自宅・通称関口御殿は解体され、すっかり更地になっている模様です。

関口夫婦の住んでいたこの豪邸は、いわば「その街の顔」のようなものだったので、自宅が取り壊されるのを見た近所の人たちは、かなり驚いたようです。

関口邸_02

関口邸は、東京都世田谷区の約545平米という広大な土地に建てられた豪邸で、西田佐知子と関口宏は、この自宅に1985年からずっと住んでいたそうです。

またこの豪邸は、地上階ばかりでなく、地下もある広大な物件だったため、購入した当時は土地代と建物代の両方を合わせ、5億円くらいはしたのではないかといわれています。
現在でもこの場所は、土地代だけでも3億円以上はするということです。

関口邸_03
上3枚の写真はこちらからお借りしました。

関口宏は、現在は東京都港区のタワーマンションに転居しているということで、世田谷の旧関口邸は凝った造りの階段もあったりで、年をとると階段の昇り降りが辛くなるからマンションが良い、と関口宏本人が語っていたそうです。

さらに、妻である西田佐知子の体調が良くないことも、世田谷の豪邸から港区のタワーマンションに引っ越す大きなきっかけとなったとうことです。
新居の近くには医療施設などもあるということなので、引っ越しの時には、この点も考慮されたのでしょう。

西田佐知子の息子は何をしている?

西田佐知子と関口宏の息子・関口知宏は、1996年には関口宏が代表を務める芸能事務所「株式会社 三桂(さんけい)」に所属して、俳優として活動していました。
そしてその後、2004年にはNHK BShiの「列島縦断 鉄道12000キロの旅 〜最長片道切符でゆく42日〜」に出演したことがきっかけでブレイクします。

その後も、さまざまな鉄道に乗って旅をする番組への出演をメインに芸能活動を行なっています。
関口知宏が出演した番組は、再放送されるほどのかなりの人気を誇っています。

「ff (フォルティシモ)/HOUND DOG(ハウンド・ドッグ)」 - 日清食品『カップヌードル』のCMソング オリコン11位を記録したHOUND DOGの代表曲!

今日は、HOUND DOG(ハウンド・ドッグ)の「ff (フォルティシモ)」のご紹介です。

ff フォルティシモ HOUND DOG ハウンド・ドッグ ジェケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

HOUND DOG(ハウンド・ドッグ)は、1976年(昭和51年)に結成された大友康(おおとも こうへい)を中心とした日本のロックバンドです。
代表曲に、「ff(フォルティシモ)」(1985年)、「ONLY LOVE」(1988年)、「BRIDGE~あの橋をわたるとき~」(1992年)などがあり、1980年代後半、絶大なライブ動員力を誇りました。

オリジナルメンバーは、以下の通りです。

大友康平(おおとも こうへい、1956年1月1日 -、ドラムス&ボーカル。妻は元ファッションモデルの木下桂子)
高橋良秀(たかはし よしひで、1956年5月7日 -、ギター)
玉手ヨシヒロ(ベース)

バンド自体は2005年に解散しましたが、その後、大友康平が同じバンド名で、1人でライブ活動を続けています。
なお、大友康平の「康」は徳川家康から、「平」は在原業平(ありわらの なりひら)からとられています。

さて、今日はそんなHOUND DOGの曲の中から、1985年8月25日に発売された、代表曲のひとつである「ff (フォルティシモ)」をどうぞ。
 
ff (フォルティシモ)/HOUND DOG(ハウンド・ドッグ)

いい曲ですねー。(^o^)
いい声、いいアレンジ!(^J^)
この曲を聴いていると、元気が出てきます。ヽ(^o^)ノ
t's a good tune! (^o^)
Nice voice, nice arrangement! (^J^)
I feel energized when I listen to this. (^J^)

もっと歌ってー、もっとー、もっとー。(^O^) おい!(ー_ー)!!

この曲は、オリコンチャートにおいて、最高順位11位を記録しています。
もともとは、大友康平が作詞をしていましたが、スタッフの意向により、作詞家の松尾由紀夫を迎え、新たに書き下ろした詞がレコーディングされました。

が、サビの部分の「愛がすべてさ いまこそ誓うよ」は、大友康平が作詞した原詞がそのまま使用されています。

大友康平はのちに、

「ff (フォルティシモ)」は自分にとって大切な曲。これからも心をこめて歌っていきたい」

と語っています。

なお、この曲はライブでファンがワンコーラス合唱するのが恒例(こうれい)の曲となっています。(^^)

またこの曲は、日清食品『カップヌードル』のCMソングに使われました。
 
日清カップヌードルCM ハングリアン民族

2009年には、大友康平がセルフカバーしています。
うれしいことに、2018年3月18日から、東日本旅客鉄道(JR東日本)仙台駅で、東北本線・常磐線・仙石東北ライン専用発車メロディーとして使用されることが決定しています。(^O^)

HOUND DOG(ハウンド・ドッグ)って、どんなバンド?

HOUND DOGは、1976年(昭和51年)に、東北学院大学に在学中だった高橋良秀が、大友康平に「一緒にやろう」と声を掛けたことがきっかけで結成されたバンドです。

バンド名の由来は、大友康平が敬愛(けいあい)するエルヴィス・プレスリーのヒット曲から採られました。

そしてHOUND DOGは、1980年にシングル「嵐の金曜日」でデビューします。
当時のメンバーは、大友康平、高橋良秀、八島順一、蓑輪単志、海藤節生、藤村一清でした。

以後HOUND DOGは、1984年にメンバーチェンジを行なうなど、紆余曲折(うよきょくせつ)を経(へ)ながらも、日本のロックシーンで息の長い活動を続けています。

大友康平が最も影響を受けたミュージシャンはロッド・スチュワートで、それを彷彿(ほうふつ)とさせるマイクスタンド捌(さば)きなどを行なっています。

ライブ活動に主眼を置くHOUND DOG

また、HOUND DOGの活動は、ライブに主眼を置くとされます。
ヒット曲がまったくない中で1万人を集めた日本武道館初公演や、足掛け3年間のライブツアー、チケットを買ったにも関わらず学校の指導で行けなくなったある地方の学生のために、卒業証書がチケット(無料)で、安全のためライブ終了時間を早め、危険性のない定められた場所で、「音楽は素晴らしいものなんだよ」と伝えるために、もう一度その土地でライブを行なうなど、過去にない実績を残しています。

また、1989年には、日本武道館史上最多の15日連続ライブを決行しており、この記録は2018年現在も破られていません。

サザンオールスターズの桑田佳祐は、HOUND DOGの才能を認めており、「ライブでの煽(あお)りが俺たちより上手い」と述べています。

2010年3月21日には、渋谷C.C.Lemonホールで30周年記念ライブが行なわれ、ファンによるベスト投票の30曲をもとに31曲が歌唱されました。
大友康平は、このライブで「ずっとハウンドドッグの歌を歌っていきたい。誰が何と言おうと」と語っています。

「長い髪の少女/ザ・ゴールデン・カップス」 - オリコン14位、35万枚の売上げを記録したヒット曲

今日は、ザ・ゴールデン・カップス(The Golden Cups)の「長い髪の少女」のご紹介です。

長い髪の少女 ザ・ゴールデン・カップス ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

ザ・ゴールデン・カップス(The Golden Cups)は、1966年12月に、神奈川県横浜市でデイヴ平尾を中心に結成されたグループ・サウンズです。

メンバーは、以下の通りです。

1.エディ藩(ギター・ボーカル)
2.ルイズルイス加部(ベース・ギター)
3.マモル・マヌー(ドラムス・ボーカル)
4.ミッキー吉野(キーボード・ボーカル)

旧メンバー
1.デイヴ平尾(ボーカル)
2.ケネス伊東(ギター・ベース・ボーカル)
3.林恵文(ベース)
4.アイ高野(ドラムス)
5.柳ジョージ(ベース・ボーカル)
6.ジョン山崎(キーボード)

ザ・ゴールデン・カップスは、1967年6月15日に1stシングル「いとしのジザベル」でレコードデビューをします。
このシングルは、公称18万枚のヒットとなります。
当初は「グループ・アンド・アイ」というバンド名でしたが、分かりにくいということで、TBS「ヤング720」の担当ディレクターだった高樋洋子によってゴールデン・カップスへと改名されました。

また、当時ザ・ゴールデン・カップスは混血グループという触れ込みで売り出されましたが、これは東芝音楽工業の意向だとされます。

そして、同年7月21日に、東京のジャズ喫茶(ラ・セーヌ)に初出演し、8月26日には、第31回日劇ウエスタンカーニバルに初出場。新人賞を獲得します。

1968年3月10日には、1stアルバム『ザ・ゴールデン・カップス・アルバム』を発売。
同年4月1日に、3rdシングル『長い髪の少女』が発売されると、この曲はオリコン14位、35万枚の売上げを記録し、一躍人気グループの仲間入りをします。

それでは、今日はその「長い髪の少女」をどうぞ。
 
長い髪の少女/ザ・ゴールデン・カップス

この曲の歌詞はこちら

「ねえ! いい曲じゃない、これ」「ボクもそう思う」「以下同文」
カップに入って犬たちの会話

なんか、「ネコ」と名前をつけたくなるほど、可愛い犬たちですね。(^^)

ブレッド&バター」 カ!(-_-メ)/~~~~~バシィ!!(T/O)

ザ・ゴールデン・カップスは、GS全盛時代にはジミ・ヘンドリクス、マディ・ウォーターズ、ジュニア・ウォーカー、クラシックス・フォー、ウィルソン・ピケット、クリーム、ヴァン・モリソン、ポール・バターフィールド、リー・ドーシー等をカバーしていました。

また、メンバー一覧を見ていただければ分かる通り、ザ・ゴールデン・カップスには後のゴダイゴのリーダー、ミッキー吉野やギターの名手、柳ジョージもメンバーだったことがあったことから、そのレベルの高さが分かります。

一言でいえば、ザ・ゴールデン・カップスは記憶に残るバンドで、殊(こと)にマモル・マヌーは記憶に残るボーカルでした。

ザ・ゴールデン・カップス グループ解散後

・1972年10月5日に、デイブ平尾が初のソロシングル『僕達の夜明け/一人』を発売

・1973年12月頃、同年春頃から断続的に活動を続けていたママリンゴというバンド(メンバーはデイブ平尾、ルイズルイス加部、柳ジョージ)が、デイブ平尾とゴールデン・カップス名義で活動を開始

・1975年頃、デイブ平尾が俳優業を本格化させたため、デイブ平尾とゴールデン・カップスを解散

・1981年12月5日に、横浜のシェルガーデンで行なわれたライブ、『ゴールデン・カップス・ワンナイト・セッション』で当日のみの再結成(メンバーは、デイブ平尾、エディ藩、ルイズルイス加部、ミッキー吉野、アイ高野)

・1982年に、デイブ平尾が六本木にライブ・バー「ゴールデン・カップ」をオープン

・1989年4月5日に、大坂城ホールでのライブ、『タイガース・メモリアル・クラブ・バンド』にて、当日のみの再結成(メンバーはデイブ平尾、マモル・マヌー、ミッキー吉野、アイ高野)。6月10日、横浜アリーナでのライブ、『タイガース・メモリアル・クラブ・バンド』にて、当日のみの再結成(メンバーはデイブ平尾、エディ藩、マモル・マヌー、ルイズルイス加部、ミッキー吉野、アイ高野)

・1997年3月2日、ケネス伊東が死去(急性心不全)

・2002年12月、本格的な再結成と映画『ザ・ゴールデン・カップス・ワンモアタイム』の製作が決定

・2003年5月4日、5月6日、横浜・club Matrixにて映画撮影用ライブ『THE GOLDEN CUPS MAXIMUM R&B LIVE 2003』を行なう。メンバーはデイブ平尾、エディ藩、ルイズルイス加部、マモル・マヌー、ミッキー吉野の5人に、サポートメンバー3名(ドラムス:樋口晶之、ベース:スティーブ・フォックス、ギター:中村裕介)。8月9日、NHK『思い出のメロディー』に出演

・2004年7月24日、横浜赤レンガ倉庫にて、映画完成ライブイベント、『ONE MORE TIME LIVE SESSION 2004』を行なう。7月25日、横浜赤レンガ倉庫にて、映画『ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム』先行完成披露上映会を行なう。10月10日、渋谷公会堂にて『THE GOLDEN CUPS MAXIMUM R&B LIVE 2004』を行なう。11月20日、映画『ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム』が一般公開される

・2006年4月1日、アイ高野が死去(急性心不全)

・2008年11月10日、ディブ平尾が死去(食道がん)。11月28日、『デイブ平尾追悼ライブを行なう

・2009年1月26日、神奈川県横浜市のライヴハウス「タイクーン」にて、『THE GOLDEN CUPS PRESENTS 追悼 デイヴ平尾 トリビュートパーティー』が行なわれ、メンバーはもちろん、 旧知のCHIBOや陳信輝、CHARやジョニー吉長、金子マリ、石間秀機、篠原信彦などに加え、沢田研二、岸部一徳も参加して、デイブ平尾と伊東を偲(しの)ぶ。11月10日、横浜BLITZにて『THE GOLDEN CUPS 横浜公演 2009』を行なう。残った4人とサポートメンバー(樋口とスティーブ)に加え、ベースで林恵文が数曲参加する

・2011年10月10日、柳ジョージが死去(腎不全)