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2018年09月10日

「太陽がいっぱい/松本伊代」 - 名曲のご紹介

今日は、松本 伊代の「太陽がいっぱい」のご紹介です。

太陽がいっぱい 松本伊代 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

松本 伊代(まつもと いよ、本名:小園 伊代(こぞの いよ) 1965年6月21日 -)は、東京都大田区出身のタレント、歌手、女優です。
夫はタレントのヒロミ、長男はタレントの小園凌央。

松本 伊代は、中学3年生のときに、原宿でスカウトされます。
そして、1981年にTBS系『たのきん全力投球!』の田原俊彦の妹役オーディションに合格し、デビューをします。
同年10月21日には、「センチメンタル・ジャーニー」で、アイドル歌手としてもデビュー。

当時のキャッチコピーは、「瞳そらすな僕の妹」「田原俊彦の妹」。

そして、1982年12月の「第24回日本レコード大賞新人賞」を始めとして、同年に多くの音楽新人賞を受賞します。

その後、『オールナイトフジ』の司会を務めるなど、バラエティ番組でも活動。
1986年からは、川村真澄・林哲司・船山基紀による「恋愛三部作」を発売します。

今日は、そんな松本伊代の、1983年6月1日に発売された通算7枚目のシングルである「太陽がいっぱい」をどうぞ。


太陽がいっぱい/松本伊代

この曲の歌詞はこちら

松本伊代のその後と近況

1993年に、番組での共演がきっかけとなり、B21スペシャルのヒロミと結婚。
その後、2男の母となります。

2005年には、1982年の同期デビューだった早見優・堀ちえみとともにママドルユニット「キューティー★マミー」を結成。

2009年には、アイドル時代の12枚のオリジナルアルバム+ボーナスCD・DVDをまとめたBOXセット「SWEET 16 BOX」のボーナストラックとして、尾崎亜美作詞・作曲・プロデュースによる19年振りの新曲「私の声を聞いて」を発売。
配信限定ながら、シングルカットもされました。

2012年には、品川ステラボールでデビュー30周年記念コンサートを開催しました。

2017年には、2月11日に名古屋ブルーノートで、芸能生活35周年を記念したワンマンライブを開催しました。
地方におけるワンマンライブとしては、これが約25年ぶりとなるもので、終演後には「これからは気を引き締めて、このような形のライブも続けていきたいです」とコメントするなど、今後の音楽活動にさらなる意欲を示しました。

松本伊代、芸能生活35周年記念ライブを名古屋ブルーノートで開催 | OKMusic News
https://okmusic.jp/news/158191

松本 伊代のエピソード

・1982年、新人賞レースを争ったことから、当時は堀ちえみ、小泉今日子、中森明菜、早見優らと共に「花の82年組」の1人と呼ばれました。

・運動が全般的に苦手で、ボールがうまく投げられないなどのエピソードが披露されたこともあり、また、デビュー時は身長156cmに対して体重は38kgしかなく、軽過ぎて自動ドアが開かないこともあったといいます。

・1984年12月29日の放送のオールナイトフジでで、自著と称する『伊代の女子大生 まるモテ講座』を宣伝した際、本の内容について質問をされ、「まだ読んでないのですけど」と発言してしまい、その場にいた片岡鶴太郎から「自分で書いた本なのにまだ読んでないとはどういうことか」と突っ込まれたことがあります。
この件については、「ゲラの状態で最終チェックはしましたが、製本になった状態を見たのはこの時が初めてだったので、(製本された本を)まだ読んでいないと発言した」と弁明をしましたが、後に、この弁明に関しても「嘘です」と白状しており、この本は、すべてゴーストライターによる代筆であったことを認めています。

・松本伊代は独特の低い声質が持ち味ですが、デビュー当初にスタッフから60年代に人気を博した海外の女性グループ「ロネッツ」のテープを渡され、良く聴いて勉強するようにいわれたと語っています。
ロネッツのフロントのロニー・スペクターが独特の低いハスキーボーカルが特徴の歌手で、加えて、松本伊代のデビュー時の楽曲が60年代調のために、スタッフが参考になると考えていた模様です。

・「マイ・ラグジュアリー・ナイト」のヒット曲で知られる歌手のしばたはつみは、松本伊代のはとこで、遠縁にあたります。

2018年09月05日

「黒のクレール/大貫妙子」 - 名曲のご紹介

今日は、大貫妙子の「黒のクレール」のご紹介です。

黒のクレール 大貫妙子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

大貫 妙子(おおぬき たえこ、1953年11月28日[2] - は、東京都杉並区出身のミュージシャンです。
愛称は、「ター坊。

大貫 妙子は、1973年に、山下達郎、村松邦男らとシュガー・ベイブを結成します。

1976年からはソロ活動開始。
シュガー・ベイブの解散後、同年に初のソロアルバム『グレイ・スカイズ』を発売。
レコード会社は日本クラウン→RVC→ミディ→東芝EMIと移籍して現在はソニー・ミュージックダイレクト所属。

1998年に、映画『東京日和』で、第21回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞。

今日は、そんな大貫 妙子の1981年10月21日に発売された「 黒のクレール」をどうぞ。


黒のクレール/大貫妙子

この曲の歌詞はこちら

この曲は、当時、日立マクセルのカセットテープのCMに使われました。

ちなみに、この曲のタイトルに使われている「クレール(clair)」の意味ですが、調べてみたところ、フランス語で「明るい」「透明な」という意味のようです。

>clair:
>Gender: Female Meaning of Claire: "bright, clear"
>Origin of Claire: French form of Clara

Claire: Meaning Of Name Claire | namebarrey
https://nameberry.com/babyname/Claire

2018年09月03日

「君の誕生日/ガロ」 - 名曲のご紹介

今日は、ガロの「君の誕生日」のご紹介です。

君の誕生日 ガロ ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

ガロ(GARO)は、1970年から1976年まで活動した、フォークロックグループです。

メンバーは、

・堀内護(MARK(マーク)、ボーカル、コーラス、ギター、マンドリン、シタール、ピアノ、スペリオパイプ)
・日高富明(TOMMY(トミー)ボーカル、コーラス、ギター、マンドリン、琴)
・大野真澄(ボーカル、コーラス、ギター、マンドリン、ピアノ)

の3人。

ガロは、全員が生ギターとボーカルを担当しているのが基本的な編成です。
1973年に、「学生街の喫茶店」、「君の誕生日」、「ロマンス」と立て続けにヒットを飛ばし、一世を風靡(ふうび)しました。

ガロは、元々は「CSN&Y(Crosby, Stills, Nash & Young(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング))」や「ブレッド」の影響下にあったバンドで、彼らのグループの楽曲もレパートリーに加えていたこともあり、当時はその卓越したコーラスワークとギターテクニックで「和製CSN&Y」と称されていました。

近年では、「ソフトロック」というジャンルにおいて、また、アルバム『CIRCUS』『吟遊詩人』ではプログレッシブ・ロック的な、そして、『三叉路』ではハード・ロック的なアプローチをしたこともあり、ロックバンドとしても再評価されています。

今日は、そんな「ガロ」の、1973年5月10日に発売された5枚目のシングルである「君の誕生日」をどうぞ。


君の誕生日/ガロ

この曲の歌詞はこちら

いい曲ですねー。(^o^)
間奏が「学生街の喫茶店」になっているのがちょっとアレですが…。テヌキ? (^x^) モゴモゴ
まぁ、この間奏があることで、ガロの曲だということが一発で分かってよいのですが、個人的には、この曲のオリジナルの間奏を、きちんと作って欲しかったと思います。

この曲は、発売から約1ヶ月後の、6月25日付けのオリコン・シングル・チャートで第1位を獲得しています。

時系列上は、1972年10月に発売された「涙はいらない」の次作に相当しますが、1972年6月発売のシングル「美しすぎて/学生街の喫茶店」が、1973年2月~4月にオリコンのシングルチャートで7週連続1位を獲得するという状況下にあったため、この曲は実質的に「学生街の喫茶店」に次ぐシングルとなりました。

ちなみに、「ガロ」というグループ名は、当時ザ・タイガースのマネージャーで三人の世話役でもあった中井國二が、自分の子供にと考えていた「我朗」から名づけられました。

ガロのエピソード

・ガロは、きょうご紹介した「学生街の喫茶店」のヒットで知られていますが、前述したように、この曲はもともと「美しすぎて」のB面であり、「学生街の喫茶店」が人気が出たために、A面/B面を入れ替えた盤が、のちに発売されました。
また、この曲(レコード)のベースを弾いていたのは「宇野もんど」こと細野晴臣で、ドラムを演奏していたのは原田祐臣でした。

・当時、日本コロムビアのラジカセのブランドにも「GARO」というブランドがあり、CMソングに「学生街の喫茶店」を使われていたといいます。

・1972年、ガロは明治製菓(現・明治)「チェルシー」のコマーシャルソング『チェルシーの唄』を担当。
デビュー当時のAlfie(現在のTHE ALFEE)は、当時同じ事務所に所属しており、弟分的な位置づけでした。
ガロのライヴのスタッフをAlfieが務めたり、前座を行ったこともありました。THE ALFEEもまた、CSN&Yの影響下にあるバンドです。

・鈴木雅之は、日高の盟友小田和正の編曲による「地球はメリーゴーランド」をカバーしています。

・南こうせつは、「かぐや姫」を結成する際、ガロから影響を受けたと「フォーク・ソング」のライナーノーツに書かれています。

2018年09月02日

「過ぎてしまえば/森田公一とトップギャラン」 - 名曲のご紹介

今日は、森田公一とトップギャランの「過ぎてしまえば」のご紹介です。

過ぎてしまえば 森田公一とトップギャラン ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

森田公一とトップギャラン(もりた こういち と トップギャラン)は、1969年に結成された森田公一と5名のコーラスによる音楽グループです。

メンバーは、森田公一(ボーカル、キーボード、リーダー)、渡部玲子(ボーカル)、原田正美(ギター、元マグマックス・ファイブ、元ポニーズ)、岩田康男(ギター、元スケルトンズ、元レモンルーツ)、小原重彦(ベース、元マグマックス・ファイブ)、北村勝彦(ドラムス)。

森田公一とトップギャランは、エキスプレス/東芝音工(現・ユニバーサルミュージック)よりデビューをします。
その後、CBSソニーレコードに移籍。「青春時代」「人間はひとりの方がいい」「過ぎてしまえば」「惜春の歌」などのヒットを放ちます。

そして、1977年の第28回NHK紅白歌合戦に出場。1981年に解散します。

その後、1990年に、森田公一自身の作曲家30周年を記念して、「森田公一とトップギャラン2」として再結成します。
元Sugarのミキこと笠松美樹が、キーボード担当として一時期加わっていました(Sugarは87年に解散しています)。

今日は、そんな森田公一とトップギャランの、1977年8月に発売されたシングルである「過ぎてしまえば」をどうぞ。


過ぎてしまえば/森田公一

この曲の歌詞はこちら

2010年から、森田公一の抜けたトップギャランに、狩人の加藤久仁彦(かとう くにひこ)がリードボーカルとして加入し、「加藤久仁彦&トップギャラン」として活動を始めています。

2018年08月23日

「Holiday(ホリディ)/Madonna(マドンナ)」 - 名曲のご紹介

今日は、Madonna(マドンナ)の「Holiday(ホリデイ)」のご紹介です。

Holiday ホリディ Madonna マドンナ ジャケットイメージ
この曲の歌詞はこちら

マドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコーネ(本名:Madonna Louise Ciccone、1958年8月16日 -)は、アメリカのミシガン州出身のポピュラー音楽のシンガーソングライター、女優、映画監督、文筆家、実業家です。
愛称は、代表曲から来た「マテリアル・ガール (Material Girl)」、または「ポップスの女王」ともいわれます。

マドンナは、1980年代初頭のニューヨークのダンスクラブ・シーンに登場し、1982年にデビュー。

1984年に、シングル「ライク・ア・ヴァージン」が大ヒット。その大胆かつ挑発的なイメージで一躍世界的なメガスターとなります。

アルバムの代表作としては、『トゥルー・ブルー』、『ライク・ア・プレイヤー』、『レイ・オブ・ライト』などがあり、シングルの代表作に「ホリディ」、「クレージー・フォー・ユー」、「パパ・ドント・プリーチ」、「ライク・ア・プレイヤー」、「イントゥ・ザ・グルーヴ」、「ヴォーグ」、「ミュージック」、「ハング・アップ」などが挙げられます。

MTVの到来により人気を得たミュージック・ビデオを駆使しながらポップアートと音楽を融合し、当時日本では「マドンナ旋風」と呼ばれる現象的な成功を収めます。

そして、セックス・シンボルとして不動の位置を固めますが、その後、多様なイメージの変遷を繰り返し現在に至ります。
彼女の活動は音楽にだけにとどまらず、レコード会社の設立、映画や舞台への出演、そして近年では児童書の執筆や映画監督などをも行なっている。

さて今日は、そんなマドンナの、1983年7月23日に発売されたファーストアルバム『Burning Up(バーニング・アップ)」の中から、「Holiday(ホリデイ)」をどうぞ。


Holiday(ホリディ)/Madonna(マドンナ)

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訳詩はこちら

1982年に、ニューヨークのダウンタウンにて、無名の時に作られたデモテープ「エヴリバディ」をきっかけに、サイアー・レコードと契約を結び、その後の正式版「エブリバディ」の商業的成功でこのアルバムが作られました。

アルバムの制作は、レジー・ルーカスをプロデューサーとして行なわれますが、完成したものはとマドンナにとって満足の行くものではありません。
そこで、急遽、その当時につき合っていたジョン・"ジェリービーン"・ベニーテスを呼び、追加製作(多くの曲のリミックスと「ホリデイ」の製作)を行ない発売しました。

このアルバムには、リンドラム、モーグ、オーバーハイムOB-Xa等の当時の最新技術が詰め込まれており、新しい音色は特にダンスジャンルから歓迎されました。

この曲はBillboard 200において8位、欧州各国でも軒並みトップ10入りし、全世界で1000万枚を売り上げ、商業的には大成功します。
当時の批評は芳しくありませんでしたが、現在では1980年代を代表する作品の1つとして、再評価されています。