Super源さんの音楽ブログ

名曲紹介、作詞・作曲、音楽用語の楽しい覚え方、その他音楽にまつわることを書いていくブログです。可愛い音楽ブログパーツも配布しています。

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「グッド・バイ・マイ・ラブ/アン・ルイス」 - オリコン16位を記録したヒット曲

今日は、アン・ルイスの「グッド・バイ・マイ・ラブ」のご紹介です。

グッド・バイ・マイ・ラブ アン・ルイス ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

アン・ルイス(Ann Lewis、本名:アン・リンダ・ルイス、1956年6月5日 - )は、兵庫県神戸市出身の歌手です。
現在、ロサンゼルス在住。

アン・ルイスは、アイドル歌手としてデビューし、その後、歌謡ロックの第一人者として活躍します。

アン・ルイスの父親はアメリカ人(アメリカ海軍の軍人)で、母親は日本人のハーフです。

アンは・ルイスは、1970年、14歳のときに、横浜外国人墓地を散歩中になかにし礼にスカウトされ、「なかにし礼商会」第一号タレントになります。
そして、1971年2月25日に、ビクターレコードからシングル「白い週末」で歌手デビュー。

当初は、グラビアアイドルやアイドル歌謡を中心に活動していましたが、そんな中、1974年に「グッド・バイ・マイ・ラブ」がヒット。

その後、ロックに転向し、1970年代後半から1980年代にかけ、「ラ・セゾン」「六本木心中」「あゝ無情」などのヒット曲を放ちます。

今日は、そんなアン・ルイスが1974年4月5日に発売した、通算6枚目のシングルである「グッド・バイ・マイ・ラブ」をどうぞ。
 
 
アンは・ルイスは、当初アイドル路線で売り出していました。
この曲は、アン・ルイスにとって初のヒット・シングルとなり、オリコンチャートにおいて、最高順位16位を記録します。
また、間奏部分に英語のセリフがありますが、さすが父親がアメリカ人だけのことがあり、素晴らしい発音です。

何より、可愛い!(♡_♡)

「グッド・バイ・マイ・ラブ」は、のちにテレサ・テン、南野陽子がカバー

この曲はのちに、テレサ・テンもカバーしています。
とりわけ、アジアにおいてはテレサ・テンの歌声で広く親しまれている楽曲で、1996年製作の香港映画『ラヴソング』でも、テレサ・テンの中国語版が使用されました。

その他、1990年の日本映画『ゴールドラッシュ』(監督:和泉聖治、主演:大友康平)の劇中で、南野陽子がこの曲を歌っています。

アン・ルイスのその後 - 結婚、出産、離婚、そして芸能界引退まで

・1980年に、ロック歌手の桑名正博と結婚
・1981年に、長男・美勇士(みゅーじ)を出産。この頃、育児に専念するために音楽活動をしばらく休業
・1982年に、音楽活動を再開。三浦百恵作詞、沢田研二作曲の「ラ・セゾン」がヒット
・1984年に、桑名正博と離婚・「六本木心中」がロングヒット。また、同年大塚食品の「アルキメンデス」のCMにも出演
・1995年頃に、パニック障害を患(わずら)う
・1999年に、再び音楽活動を休止
・2005年に、音楽活動再開


ゆうちゃん



そういえば、アン・ルイスのパチンコ機ってあったよね


しんちゃん



ああ!
あったあった!
・2007年に、ニューギンからタイアップパチンコ機「CR アンルイスと魔法の王国」が発売される

タイアップパチンコ機 CR アンルイスと魔法の王国
出典:http://www.img.p-kn.com/pc/480/images/kishu/direction/0001/1147.gif

・2009年3月に、フジテレビ系の番組『独占!金曜日の告白SP』に出演。10数年ぶりのテレビ番組出演となり、近況を語るほか活動休止となったときの思いを語った。この番組内で「現在もパニック障害のため、人前で歌うライブができない」「日本に行く(在住する)ことはもうないと思う」と告白
・2010年5月4日に、フジテレビ系の番組『カスペ!・芸能界の告白大ヒットに隠された壮絶人生SP!』にVTRで出演。一時音楽活動を休止する原因となったパニック障害や、元夫・桑名正博(くわなまさひろ)と長男・美勇士(みゅーじ)のことについてそれぞれコメント(インタビューしたのは、かつての歌手仲間・研ナオコ)
・2013年4月6日、元夫の桑名正博と息子の美勇士で、親子3人の共演CDを同年10月に発売すると同時に、これをもってアン・ルイスが芸能界から完全に引退することが発表された

「雲にのりたい/黛ジュン」 - 雑誌『平凡』の募集当選歌 オリコン週間35位を記録したヒット曲!

今日は、黛ジュンの「雲にのりたい」のご紹介です。

雲にのりたい 黛ジュン ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

黛 ジュン(まゆずみ ジュン、本名:渡邊 順子(わたなべ じゅんこ) 1948年5月26日 -)は、東京都調布市出身の歌手、女優です。実兄は作曲家の三木たかし。
1960年代後半を中心に、独特のパンチの効いた魅力的な歌声でヒットを飛ばした歌手です。

黛 ジュンは、1964年に「渡辺順子」の名でデビューします。
が、ヒットせず、2年後の1967年に石原プロモーションへ移籍します。
くわえて、作曲家である黛敏郎のファンであったことと、パンチのある名前ということで「黛ジュン」に改名し、東芝音楽工業から「恋のハレルヤ」で再デビューをします。

この曲は、ミニスカートと共にパンチの効いた歌声で、一気に注目を集めることとなります。

そして、翌年の1968年に発売された「天使の誘惑」は更なるヒットとなり、同年の第10回日本レコード大賞に輝きます。
結果、1967年から1968年の2年間において、レコードの売上が500万枚を記録。
 
「天使の誘惑/黛 ジュン」 - オリコン週間3位&1968年「第10回日本レコード大賞」受賞曲!|Super源さんの音楽ブログ

「天使の誘惑/黛 ジュン」 - オリコン週間3位&1968年「第10回日本レコード大賞」受賞曲!|Super源さんの音楽ブログ


今日は、黛 ジュンの「天使の誘惑」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。黛 ジュン(まゆずみ ジュン、本名:渡邊 順子(わたなべ じゅんこ) 1948年5月26日 -)は、東京都


「天使の誘惑」「夕月」では映画の主演女優に抜擢。
黛ジュンは、歌手ばかりではなく、売れっ子女優にもなります。
 
「夕月/黛 ジュン」 - 累計売り上げは66.3万枚、週間2位を記録したヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ

「夕月/黛 ジュン」 - 累計売り上げは66.3万枚、週間2位を記録したヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ


今日は、黛 ジュンの「夕月」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。黛 ジュン(まゆずみ ジュン、本名:渡邊 順子(わたなべ じゅんこ) 1948年5月26日 -)は、東京都調布市


また、年末恒例のNHK紅白歌合戦では、1967年の第18回から1970年の第21回まで、4年間連続で通算4回の出場を果たします。

今日は、そんな黛ジュンの、1969年6月1日に発売された通算7枚目のシングルである「雲にのりたい」をどうぞ。
 
雲にのりたい/黛ジュン

しっとりとした、素敵な曲ですね。(- . -)
この曲は、当時発行されていた雑誌「平凡」の募集当選歌で、作詞:大石良蔵、補作詞:なかにし礼、作曲:鈴木邦彦です。
この曲は、オリコンチャートにおいて、最高順位週間35位を記録。
黛ジュンはこの曲で、同年末に行なわれた「第20回NHK紅白歌合戦」へ3年連続3回目の出場を果たします。

またこの曲は、アイドル歌手だった長山洋子が、1986年5月1日に7枚目のシングルとして発売。
TBS系ドラマ「花嫁人形は眠らない」の主題歌に使われました。


ゆうちゃん



そういえば、黛ジュンって、なんか病気で歌手活動を一時休止してなかった?


しんちゃん



うん
そうなんだよな

黛ジュンは、一時病気のため歌手活動を休止

2011年1月に、約5年前に発症した原因不明の喉の病気で歌声が思うように出せなくなってしまい、歌手活動を休止します。
そして、同年2月に、黛ジュン自らが作曲した「博多山笠女節(はかたやまがさめぶし)」を長山洋子に提供し、作曲家としてデビューをします。

がその後、喉アレルギーの原因が判明して治療を続けたことが功を奏(そう)し、2012年に入ってからはほぼ完治しています。

「出逢った頃のように/Every Little Thing」 - 森永製菓「ICE BOX」&メナードCMソング オリコン週間3位を記録したヒット曲!  

今日は、Every Little Thing(エヴリ・リトル・シング)の「出逢った頃のように」のご紹介です。

出逢った頃のように Every Little Thing ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

Every Little Thing(エヴリ・リトル・シング、略称:ELT)は、1996年(平成8年)8月7日にデビューした音楽ユニットです。

メンバーは、以下の通りです。

持田香織(ボーカル)
伊藤一朗(ギター)
旧メンバー 五十嵐充(キーボード)

Every Little Thingの主なヒット曲には、「Dear My Friend(ディア・マイ・フレンド)」「出逢った頃のように」「Time goes by(タイム・ゴーズ・バイ)」「fragile(フラジャル、フラジール)」などがあります。

Every Little Thingは、1996年8月にボーカル・作詞担当の持田香織、ギター・作曲・編曲担当の伊藤一朗、リーダー・サウンドプロデュース・キーボード・作詞・作曲・編曲担当の五十嵐充の3人体制で、ファーストシングル「Feel My Heart(フィール・マイ・ハート)」でデビューをします。
このシングルは、オリコン最高位24位、売上げ約10万枚を記録。”ELT人気”に火がつきます。

翌年1997年1月には3枚目のシングル「Dear My Friend(ディア・マイ・フレンド)」を発売。
このシングルは初のトップ10入りを果たし49万枚のロングヒットを記録。

同年4月に発売されたファーストアルバム「everlasting(エヴァーラスティング)」は、初の1位を記録、かつ初のミリオンとなる192万枚を記録し、大ブレイクを果たします。

さらには、同年6月に発売された5枚目のシングル「For the moment(フォー・ザ・モーメント)」でも初登場1位を獲得。
そして、同年末に発売された6枚目のシングル「Shapes Of Love(シェイプス・オブ・ラブ)」で、Every Little Thingは、なんと、NHK紅白歌合戦に初出場を果たします!

翌1998年には、2月に発売された8枚目のシングル「Time goes by(タイム・ゴーズ・バイ)」が、シングルで初めてミリオンヒット。
 
「Time goes by(タイム・ゴーズ・バイ)/Every Little Thing」 - ミリオンセラーを達成した代表曲! 「NHK紅白歌合戦」で6.5%という史上最高の高視聴率をも記録!|Super源さんの音楽ブログ

「Time goes by(タイム・ゴーズ・バイ)/Every Little Thing」 - ミリオンセラーを達成した代表曲! 「NHK紅白歌合戦」で6.5%という史上最高の高視聴率をも記録!|Super源さんの音楽ブログ


今日は、Every Little Thing(エヴリ・リトル・シング)の「Time goes by(タイム・ゴーズ・バイ)」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。Every Li


 
くわえて、同年4月に発売された2枚目のアルバム「Time to Destination(タイム・トゥ・デスティネーション)」は、352万枚と、ELT最大のヒットを記録します!

さて今日は、そんなEvery Little Thingの、1997年8月6日に発売された通算5枚目のシングルである「出逢った頃のように」をどうぞ。
 
出逢った頃のように/Every Little Thing(エヴリ・リトル・シング)

何というか、Every Little Thingのボーカル・持田香織の歌声は、どの曲も心に沁みますよね。(^-')イイナァ。
この曲は、森永製菓「ICE BOX」とメナードのCMソング(2015年)に使われたので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。(^^)

こたつ、じゃなかったこの曲は、オリコンチャートにおいて、週間3位、1997年度年間45位を記録しています。

「出逢った頃のように」レコーディング時のエピソード

「出逢った頃のように」は、前作「For the moment(フォー・ザ・モーメント)」の2か月後に発売されたもので、シングルでは初の日本語タイトルとなっています。
当初のデモでは、この曲のキーが非常に高く、持田香織は高いキーが出るまで猛練習しましたが、実際にレコーディングする時には、キーが下げられていたといいます。
また、この曲のキーはCDシングルでは変ト長調となっていますが、ライブの時には半音下げてヘ長調にして歌うことが多いということです。

なお、この曲のPV・ジャケットは、沖縄県の宮古島で撮影されたものです。

「Every Little Thing」のグループ名の由来

Every Little Thingというグループ名は、一体どこから来ているのでしょうか?

Every Little Thingという名前は、ビートルズの楽曲「エヴリー・リトル・シング」に由来しています。
2018年にも持田香織は「曲のタイトルからいただきました」と説明しています。
伊藤一朗は、「五十嵐がEvery、持田がLittle、俺がThing」という話を会社の社長と話していたとし、

「1人抜けちゃって、そのバランスを修正している」

と、語っています。


ゆうちゃん



そういえば、持田香織って、途中で歌い方が変わってない?


しんちゃん



うん
そうなんだよな

持田香織の歌い方が変わったのは何故?

Every Little Thingのボーカル・持田香織。
2000年代半ばあたりから彼らの曲を聴き始めた人はご存知ないかも知れませんが、実は、持田香織はある時から歌い方を大幅に変えて、もはや昔のヒット曲を歌うときなどに高音を出せなくなっています。
それは一体、何故なのでしょうか?

持田香織が高音を出せなくなってしまった理由は、以下の通りです。

1.デビュー当時はキーの高い曲が流行っていたため、自らが歌う曲も高いキーだった
2.そのため、無理して高音を出し続けていたので、次第に喉が疲弊(ひへい)していった
3.その結果、声帯結節(せいたいけっせつ)になってしまった

つまり、持田香織が高音が出せなくなり、歌い方を変えてしまったのは、高音を無理に出し続けた結果、声帯を酷使(こくし)してしまい、「声帯結節」になってしまったのが原因ということです。

それでは、持田香織は、いつかまた再び、昔の美しい高音を出せるようになるのでしょうか?
残念ながら、その可能性は低いようです。

そのうえ、持田香織は、2022年現在44歳。「声帯結節」の話は脇(わき)に置いておいても、基本的に10代20代のときに出た高音を今も出すことは難しいでしょう。

持田香織のファンとしては、彼女の今後を温かく見守りたいと思います。

「♪あなたと出逢った~ コロッケのように~」「えっ? そんな歌詞だったかニャン?」
「出逢った頃のように」を歌う猫

あらあら。この猫ちゃん、歌詞を思いっきり間違えてますね。【><】