Super源さんの音楽ブログ

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「毎日がバレンタイン/柏原芳恵」 - 「No.1」でデビューした柏原芳恵の、2.9万枚を売上げた2ndシングル!

今日は、柏原 芳恵の「毎日がバレンタイン」のご紹介です。

毎日がバレンタイン 柏原芳恵 ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

柏原 芳恵(かしわばら よしえ、本名:柏原 芳恵(かしはら よしえ) 1965年10月1日 -)は、大阪府大阪市出身の歌手です。

柏原 芳恵は、1979年の秋、日本テレビ系「スター誕生!」に出場し、清水由貴子の「お元気ですか」を歌って合格。その後、グランドチャンピオンとなります。

1980年6月1日に、シングル「No.1」で歌手デビュー。
 

「No.1/柏原芳恵」 - オリコン76位、2.6万枚を売上げた柏原芳恵のデビュー曲にしてヒット曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、柏原 芳恵の「No.1」のご紹介です。 写真はこちらからお借りしました。柏原 芳恵(かしわばら よしえ、本名:柏原 芳恵(かしはら よしえ) 1965年10月1日 -)は、大阪府大阪


そして、1981年10月15日発売の7枚目のシングル「ハロー・グッバイ」が大ヒット。

1982年10月1日には、シングル「花梨」を発売。
同時に、名前を“よしえ”から“芳恵”に改名します。

その後は、「春なのに」(1983年、TBS系「ザ・ベストテン」で最高2位まで上昇)、「最愛」など、中島みゆき作詞・作曲による作品を中心に、トップ10ヒットを1981年から1986年の間に18作品出して行きます。
 
1980年代後半は、歌手としての活動よりも女優活動が目立つようになり、2時間ドラマに多数主演の他、映画にも出演します。

今日は、そんな柏原 芳恵の、1980年9月5日に発売された2枚目のシングルである、「毎日がバレンタイン」をどうぞ。
 
毎日がバレンタイン/柏原 芳恵

この曲の歌詞はこちら

いやあ。(^o^) いかにもアイドルソングといった曲ですねー。(^-')
柏原芳恵は、だんだん歌がうまくなっていきましたね。(^^)
確か、「第二章口づけ」あたりから声の出が良くなって、「ハロ-グッバイ」あたりから本当に歌がうまくなったと記憶しています。
春なのに」も名曲でした。
 
「春なのに/柏原芳恵」 - 33.4万枚を売り上げた、「ハロー・グッバイ」に次ぐ大ヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ

「春なのに/柏原芳恵」 - 33.4万枚を売り上げた、「ハロー・グッバイ」に次ぐ大ヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ


今日は、柏原 芳恵の「春なのに」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。柏原 芳恵(かしわばら よしえ、本名:柏原 芳恵(かしはら よしえ) 1965年10月1日 -)は、大阪府大


「毎日がバレンタイン」は、オリコンチャートにおいて、週間64位を記録し、シングル売り上げは2.9万枚を記録。
デビュー・シングルである「No.1」より若干上回った枚数となっています。

そうそう。柏原芳恵といえば、もう1曲忘れてはいけない曲があります。
それは、「坂道」です。
こちらも名曲なので、お時間が許せば、こちらも是非お聴きになってみてください。(^^)
 

「坂道/柏原 芳恵」 - 「夏模様」のB面収録曲 「オフコース」松尾一彦作曲による隠れた名曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、柏原 芳恵の「坂道」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。柏原 芳恵(かしわばら よしえ、本名:柏原 芳恵(かしはら よしえ) 1965年10月1日 -)は、大阪府大阪市


柏原芳恵のその後、現在

・2020年(令和2年)6月1日に、40周年記念ニュー・シングル「KU・ZU 〜ワタシの彼〜」を発売。
・同年7月4日に、「倉庫 de ライヴ」をYouTube生配信。
・同年7月24日に、「柏原芳恵40周年コンサート ~A・RU・KU~」を開催予定でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大状況を踏まえ、10月17日に延期した上で開催。また、YouTubeにアップされたコンサートのダイジェスト映像の再生数が上がり注目を集め、日本文化を海外に発信する経済産業省の事業「J-Lod Live」の対象となり、2020年12月31日から2021年(令和3年)1月10日までの期間限定で全世界に有料配信される運びとなります。
・2022年(令和4年)11月2日に、3枚組のDVD「柏原芳恵 NHK プレミアムコレクション」を発売。
・同年11月4日に、ハイブリッドコンサート「柏原芳恵Live2022 ~A・RU・KU 第二章~」を開催。
・2023年(令和5年)1月7日から、「柏原芳恵の喫茶☆歌謡界」を放送開始。この番組は、J:COMテレビで2023年1月7日から毎週土曜日22:00 - 22:30に放送されている、ゲストとのトークを交えた音楽番組で、柏原芳恵の冠番組です。

「アカシアの雨がやむとき/西田佐知子」 - 歌謡映画「アカシアの雨がやむとき」の主題歌&西田佐知子の代表曲

今日は、西田 佐知子の「アカシアの雨がやむとき」のご紹介です。


写真はこちらからお借りしました。

西田 佐知子(にしだ さちこ、本名:関口 佐智子、1939年1月9日 - )は、大阪府大阪市城東区出身の元歌手です。愛称は「さっちん」。
夫は俳優・テレビ司会者・タレントの関口宏。俳優・タレントの関口知宏は息子。

西田 佐知子は、1956年に、「伊那の恋唄」で歌手デビューをします。

1960年に、「死ぬまで一緒に」を発売。

1961年に、ギリシャ映画「日曜はダメよ」同名主題歌がスマッシュヒット。
続けて、外国曲のカバー「コーヒールンバ」がメガヒット。
西田 佐知子は、これらの曲のヒットにより、一躍その名を知られるようになります。
 

「コーヒールンバ/西田佐知子」 - 1961年にメガヒットした、ホセ・マンソ・ペローニ作曲の「Moliendo Cafe」のカバー曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、西田 佐知子の「コーヒールンバ」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。西田 佐知子(にしだ さちこ、本名:関口 佐智子。1939年1月9日 - )は、大阪府大阪市城東区出


今日は、そんな西田佐知子の、1962年に発売された「アカシアの雨がやむとき」をどうぞ。
 
アカシアの雨がやむとき/西田佐知子

この曲の歌詞はこちら

この曲は、西田佐知子の代表曲です。
西田佐知子はこの曲で、第4回日本レコード大賞特別賞を受賞しています。

「アカシアの雨がやむとき」は、AB面に異なる歌手の歌が収録されたシングルレコード

「アカシアの雨がやむとき」は、A面とB面に異なる歌手の歌う楽曲が収録されているシングルレコードのA面として、1960年4月に発売されたものです。
B片面には、原田信夫が歌う「夜霧のテレビ塔」が収録されています。

このレコードは、ポリドール・レコードから発売された西田佐知子の4枚目のシングルで、それ以前に発売された3枚も、やはり異なる歌手とカップリングされたシングルレコードでした。

発売当初、このレコード・ジャケットは、名前表記が当時の本名とされる「西田佐智子」になっており、原田信夫の顔写真も掲載されていました。

発売当初の「アカシアの雨がやむとき」のジャケットイメージ
アカシアの雨がやむとき 西田佐知子 発売初期のジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

しかしながら、この曲が世間に浸透した結果、レコード・ジャケットが西田佐知子のみの写真に変更され、名前も現在の芸名である「西田佐知子」に修正され、このリニューアル盤が流通していきました。

西田佐知子はこの曲で、第4回日本レコード大賞特別賞を受賞

前述したように、このシングル盤の発売自体は1960年ですが、「NHK紅白歌合戦」では1962年の第13回で初披露されました。
そして、同年の末に放送された「第4回輝く!日本レコード大賞」において、この曲のロング・セールスが評価され、「特別賞」が授与されました。

そして1963年には、浅丘ルリ子主演、高橋英樹が相手役で西田佐知子本人も出演する、日活制作の歌謡映画「アカシアの雨がやむとき」が封切られました。
なお、この曲で歌われているアカシアは、本当のアカシアではなく、ニセアカシアとされます。

「ええ? ニセ物なの?」


この猫ちゃん、ちょっと驚きすぎという気が。(^o^;

「アカシアの雨がやむとき」がヒットした背景

「アカシアの雨がやむとき」がヒットした背景として、「日米安保闘争」と関連付けて語られることが多くあります。

それは、1960年1月の「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」調印を発端とした安保闘争後、反対運動の成果ゼロという結果に疲れた若者たちが、西田佐知子の乾いたボーカルと廃頽的(たいはいてき)な詞に共鳴し、歌われたことで広まっていった、というものです。

そのため、テレビ番組においては、当時の世相を反映する楽曲として、安保闘争(とりわけ樺美智子死亡による抗議デモ)の映像のバックで流れることがあります。

西田佐知子は、今どうしている?

関口邸_01

西田佐知子ですが、現在は病気で、これまで住んでいた豪邸(ごうてい)を売って転居したという情報が入っています。
もう既に、関口宏の住んでいた東京都世田谷区の自宅・通称関口御殿は解体され、すっかり更地になっている模様です。

関口夫婦の住んでいたこの豪邸は、いわば「その街の顔」のようなものだったので、自宅が取り壊されるのを見た近所の人たちは、かなり驚いたようです。

関口邸_02

関口邸は、東京都世田谷区の約545平米という広大な土地に建てられた豪邸で、西田佐知子と関口宏は、この自宅に1985年からずっと住んでいたそうです。

またこの豪邸は、地上階ばかりでなく、地下もある広大な物件だったため、購入した当時は土地代と建物代の両方を合わせ、5億円くらいはしたのではないかといわれています。
現在でもこの場所は、土地代だけでも3億円以上はするということです。

関口邸_03
上3枚の写真はこちらからお借りしました。

関口宏は、現在は東京都港区のタワーマンションに転居しているということで、世田谷の旧関口邸は凝った造りの階段もあったりで、年をとると階段の昇り降りが辛くなるからマンションが良い、と関口宏本人が語っていたそうです。

さらに、妻である西田佐知子の体調が良くないことも、世田谷の豪邸から港区のタワーマンションに引っ越す大きなきっかけとなったとうことです。
新居の近くには医療施設などもあるということなので、引っ越しの時には、この点も考慮されたのでしょう。

西田佐知子の息子は何をしている?

西田佐知子と関口宏の息子・関口知宏は、1996年には関口宏が代表を務める芸能事務所「株式会社 三桂(さんけい)」に所属して、俳優として活動していました。
そしてその後、2004年にはNHK BShiの「列島縦断 鉄道12000キロの旅 〜最長片道切符でゆく42日〜」に出演したことがきっかけでブレイクします。

その後も、さまざまな鉄道に乗って旅をする番組への出演をメインに芸能活動を行なっています。
関口知宏が出演した番組は、再放送されるほどのかなりの人気を誇っています。

「ff (フォルティシモ)/HOUND DOG(ハウンド・ドッグ)」 - 日清食品『カップヌードル』のCMソング オリコン11位を記録したHOUND DOGの代表曲!

今日は、HOUND DOG(ハウンド・ドッグ)の「ff (フォルティシモ)」のご紹介です。

ff フォルティシモ HOUND DOG ハウンド・ドッグ ジェケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

HOUND DOG(ハウンド・ドッグ)は、1976年(昭和51年)に結成された大友康(おおとも こうへい)を中心とした日本のロックバンドです。
代表曲に、「ff(フォルティシモ)」(1985年)、「ONLY LOVE」(1988年)、「BRIDGE~あの橋をわたるとき~」(1992年)などがあり、1980年代後半、絶大なライブ動員力を誇りました。

オリジナルメンバーは、以下の通りです。

大友康平(おおとも こうへい、1956年1月1日 -、ドラムス&ボーカル。妻は元ファッションモデルの木下桂子)
高橋良秀(たかはし よしひで、1956年5月7日 -、ギター)
玉手ヨシヒロ(ベース)

バンド自体は2005年に解散しましたが、その後、大友康平が同じバンド名で、1人でライブ活動を続けています。
なお、大友康平の「康」は徳川家康から、「平」は在原業平(ありわらの なりひら)からとられています。

さて、今日はそんなHOUND DOGの曲の中から、1985年8月25日に発売された、代表曲のひとつである「ff (フォルティシモ)」をどうぞ。
 
ff (フォルティシモ)/HOUND DOG(ハウンド・ドッグ)

いい曲ですねー。(^o^)
いい声、いいアレンジ!(^J^)
この曲を聴いていると、元気が出てきます。ヽ(^o^)ノ
t's a good tune! (^o^)
Nice voice, nice arrangement! (^J^)
I feel energized when I listen to this. (^J^)

もっと歌ってー、もっとー、もっとー。(^O^) おい!(ー_ー)!!

この曲は、オリコンチャートにおいて、最高順位11位を記録しています。
もともとは、大友康平が作詞をしていましたが、スタッフの意向により、作詞家の松尾由紀夫を迎え、新たに書き下ろした詞がレコーディングされました。

が、サビの部分の「愛がすべてさ いまこそ誓うよ」は、大友康平が作詞した原詞がそのまま使用されています。

大友康平はのちに、

「ff (フォルティシモ)」は自分にとって大切な曲。これからも心をこめて歌っていきたい」

と語っています。

なお、この曲はライブでファンがワンコーラス合唱するのが恒例(こうれい)の曲となっています。(^^)

またこの曲は、日清食品『カップヌードル』のCMソングに使われました。
 
日清カップヌードルCM ハングリアン民族

2009年には、大友康平がセルフカバーしています。
うれしいことに、2018年3月18日から、東日本旅客鉄道(JR東日本)仙台駅で、東北本線・常磐線・仙石東北ライン専用発車メロディーとして使用されることが決定しています。(^O^)

HOUND DOG(ハウンド・ドッグ)って、どんなバンド?

HOUND DOGは、1976年(昭和51年)に、東北学院大学に在学中だった高橋良秀が、大友康平に「一緒にやろう」と声を掛けたことがきっかけで結成されたバンドです。

バンド名の由来は、大友康平が敬愛(けいあい)するエルヴィス・プレスリーのヒット曲から採られました。

そしてHOUND DOGは、1980年にシングル「嵐の金曜日」でデビューします。
当時のメンバーは、大友康平、高橋良秀、八島順一、蓑輪単志、海藤節生、藤村一清でした。

以後HOUND DOGは、1984年にメンバーチェンジを行なうなど、紆余曲折(うよきょくせつ)を経(へ)ながらも、日本のロックシーンで息の長い活動を続けています。

大友康平が最も影響を受けたミュージシャンはロッド・スチュワートで、それを彷彿(ほうふつ)とさせるマイクスタンド捌(さば)きなどを行なっています。

ライブ活動に主眼を置くHOUND DOG

また、HOUND DOGの活動は、ライブに主眼を置くとされます。
ヒット曲がまったくない中で1万人を集めた日本武道館初公演や、足掛け3年間のライブツアー、チケットを買ったにも関わらず学校の指導で行けなくなったある地方の学生のために、卒業証書がチケット(無料)で、安全のためライブ終了時間を早め、危険性のない定められた場所で、「音楽は素晴らしいものなんだよ」と伝えるために、もう一度その土地でライブを行なうなど、過去にない実績を残しています。

また、1989年には、日本武道館史上最多の15日連続ライブを決行しており、この記録は2018年現在も破られていません。

サザンオールスターズの桑田佳祐は、HOUND DOGの才能を認めており、「ライブでの煽(あお)りが俺たちより上手い」と述べています。

2010年3月21日には、渋谷C.C.Lemonホールで30周年記念ライブが行なわれ、ファンによるベスト投票の30曲をもとに31曲が歌唱されました。
大友康平は、このライブで「ずっとハウンドドッグの歌を歌っていきたい。誰が何と言おうと」と語っています。