Super源さんの音楽ブログ

名曲紹介、作詞・作曲、音楽用語の楽しい覚え方、その他音楽にまつわることを書いていくブログです。可愛い音楽ブログパーツも配布しています。

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「秘密のオルゴール/川田あつ子」- オリコン82位を記録したデビュー曲 歌唱力は? また、現在何をしている?

今日は、川田あつ子の「秘密のオルゴール」のご紹介です。

秘密のオルゴール 川田あつ子 ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

川田あつ子(かわだ あつこ、1965年8月10日 - )は、東京都保谷市(現・西東京市)出身の女優、元アイドです。
夫は、俳優・タレントの柳憂怜(やなぎ ゆうれい、元お笑い芸人(たけし軍団のメンバー)、旧芸名:柳 ユーレイ)

川田あつ子1は、1981年に、雑誌の「街で見かけた女の子」というグラビアページに登場したのをきっかけに芸能界入りします。
そして、「花の82年組」といわれる新人アイドル豊作の年にレコード・デビュー。
川田あつ子のアイドル歌手としての活動は2年ほどでしたが、ルックスの良い彼女のブロマイドの売上げがベスト10に入るなど、当時人気となりました。

川田あつ子 写真_01
川田あつ子 写真_02
出典:http://www.lastscene.net/A'sworld-photomemorial-menew.html

さて今日は、そんな川田あつ子の、1982年に発売されたデビュー曲である「秘密のオルゴール」をどうぞ。
 
秘密のオルゴール/川田あつ子

「これぞアイドル曲だ!」 といった感じの、もうアイドル曲のお手本のような曲ですね。(^^)
この曲の作詞は松本隆、作曲は財津和夫、編曲は大村正朗(おおむら まさあき)で、オリコンチャートにおいて、最高順位82位、0.6万枚の売上げを記録しています。
歌詞、メロディー、アレンジともに非の打ちどころがない、とても素敵な作品だと思います。

財津和夫が手掛けた数ある作品の中でもトップクラスのメロディーと、大村正朗の感動的なアレンジ。
大村正朗は、松田聖子の名曲「SWEET MEMORIES(スウィート・メモリーズ)」の作曲・編曲でも知られる作曲家です。

というより、川田あつ子、可愛いーっ。(♡O♡) (#^.^#)ぽっ!

川田あつ子はもともとドラマ出演でデビュー

川田あつ子は、もともとはドラマ出演でデビューをします。
そしてその後、女優業を中心に活動。
テレビドラマ、映画、舞台等、数多くの作品に出演します。
活動範囲は、その他声優、ラジオパーソナリティー、CM等と幅広く、また作詞家として歌手に詞の提供もしています(後述)。
また川田あつ子は、高校時代中森明菜とはクラスメートだったようです。

「秘密のオルゴール」の歌詞

著作権の関係か、単に古いからだけなのか、「秘密のオルゴール」の歌詞がインターネット上に見つかりませんでした。
ということで、当時発売されたこの曲のシングルレコード(ドーナツ盤)に入っていた歌詞カードの写真を以下に張りつけます。
ちょっと見にくいですが、ご勘弁。 m(_._)m

秘密のオルゴール 川田あつ子 歌詞カード
出典:https://www.parareco-domestic.com/product/3807

時間がある時に、また探してみますね。( ^-^)v

川田あつ子の歌唱力は?

川田あつ子の歌唱力ですが、お聴きいただけば分かる通り、決して「優れた歌唱力」 とは言いがたいものがあります。(^^;
インターネット上でも、彼女の歌唱力に関して、高評価はあまり見つかりませんでした。
が、その辺は可愛さでカバー \(^o^)/ していますね。

ということで、私としては「NICE」評価にしたいと思います。



「ニャー。この曲、どう思う?」「そうだニャー。『安定の財津クオリティー』に、『不安定な川田ボーカル』が乗った曲かニャ」「うまいこと言うニャー」
川田あつ子の「秘密のオルゴール」を評価する猫

ゆうちゃん



川田あつ子といえば
「8時だョ!全員集合」でのあの事件はずっと語りつがれるだろうね


しんちゃん



あっ!
あのいきなりサビに行っちゃったやつ?


ゆうちゃん



そうそう
【8時だョ!全員集合】秘密のオルゴール - 伝説の? 歌入れ間違え。目、泳いじゃってます。

川田あつ子の略歴

以下が、川田あつ子の略歴です。
・1981年:集英社「週刊ヤングジャンプ」のギャルズコンテストでミスヤングジャンプグランプリ受賞。
・1981年:TBS系「たのきん全力投球!」にてテレビ初出演(レギュラー出演)。
・1982年:CBS・ソニーより「秘密のオルゴール」で歌手デビュー。ハウス食品のCMソング及びイメージキャラクターに起用される。TBSのテレビドラマ「人間万事塞翁が丙午」(青島幸男原作、久世光彦演出)にてヒロイン役で女優デビュー。
・1996年:小説「RAIN~眠らざる街~」(廣済堂)を発表。同年映像化される。
・1999年:川田のファンであり、当時たけし軍団のメンバーだった柳ユーレイ(現・柳憂怜)と結婚。
・2000年:川田自身がプロデュースした2冊組写真集「AII.A」でヌードを披露(ひろう)。

川田あつ子の提供作品

川田あつ子の他の歌手への提供作品(詞)は、以下の通りです。

高山厳:「祈るだけの恋」「貴方のことだけ」「おしえて」
平山みき:「思い出の海」

川田あつ子は現在何をしている?

川田あつ子は、近年はエッセイ・小説等も発表するなど、多芸多才(たげいたさい)ぶりは健在(けんざい)で、今もファンに根強い人気があります。
また、夫・柳憂怜(やなぎ ゆうれい)とともに、短篇映画等の制作も手掛けています。

川田あつ子夫婦のオフィシャルサイトはこちら。

柳憂怜・柳ユーレイ&川田あつ子 事務所サイト
http://www.lastscene.net/Toppage2.html

「落陽(らくよう)/吉田拓郎」- オリコン週間41位を記録したヒット曲

今日は、吉田拓郎の「落陽(らくよう)」のご紹介です。

落陽 らくよう 吉田拓郎 ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 -)は、 鹿児島県伊佐郡大口町(現・伊佐市)出身のシンガーソングライター、作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、フォーライフ・レコードの第2代社長です。

吉田 拓郎は、日本のシンガーソングライターの草分け的存在で、1970年代の初めに、当時マイナーだったフォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手です。
また、大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、CMソング、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立などのパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史において特筆すべき役割を果たした人物でもあります。

1970年4月に、吉田拓郎はインディーズレーベルのはしりであったエレックレコードに契約社員として就職し、1972年1月、CBSソニーに移籍し、アーティスト兼プロデューサーとして契約を結びます。
移籍と同時に発売した「結婚しようよ」が、オリコンチャート3位、40万枚以上の売り上げを記録します。

この曲のヒットで、それまで長髪の若者たちの反体制的な音楽としてしか見られていなかったフォークが、一躍普通の音楽として認知され、それまでサブカルチャーであったフォークが、メインカルチャーへ浮上する分岐点となりました。

さらに、「旅の宿」もヒットしたことで、作曲の依頼が吉田拓郎のもとに舞い込み、モップスに「たどりついたらいつも雨降り」、猫に「」「地下鉄に乗って」を提供。
吉田拓郎は、フォーク歌手としてだけでなく、売れっこ作曲家となり、さらに人気が高まります。
 
「旅の宿/吉田拓郎」 - オリコン1位を記録したヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ

「旅の宿/吉田拓郎」 - オリコン1位を記録したヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ


以前、吉田拓郎の、「夏休み」をご紹介しました。 「夏休み/吉田拓郎」 - シングル「風をみたか」のB面に収録されている名曲! 「夏休み」に関する都市伝説は本当? また、「吉田拓郎死亡説」


2月26日に公開された近代放映製作・東宝配給の映画『百万人の大合唱』(須川栄三監督)の劇中では、「今日までそして明日から」を歌唱し、6月には長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子と結婚式。「町の教会で結婚しようよ」など、若者の新しいライフスタイルを表現した歌は、ブライダル業界にも大きな影響を与えます。
 
 「今日までそして明日から/吉田拓郎」 - 『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』挿入歌|Super源さんの音楽ブログ

「今日までそして明日から/吉田拓郎」 - 『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』挿入歌|Super源さんの音楽ブログ


今日は、吉田拓郎の「今日までそして明日から(きょうまでそしてあしたから)」のご紹介です。 写真はこちらからお借りしました。吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 -)は、 鹿児島県


さて、今日はそんな吉田 拓郎の、1973年12月21日に発売されシングル「落陽(らくよう)」をどうぞ。
 
落陽/吉田拓郎

いい曲ですねー。(^o^)
この曲は、オリコンチャートにおいて、最高順位週間41位を記録しています。

「落陽」は、1973年11月26・27日に中野サンプラザで行なわれた「吉田拓郎リサイタル」で発表された曲です。
この時の初演奏は、ライブアルバム「よしだたくろう LIVE '73」に収録されています。

この曲は、吉田拓郎のコンサートにおいては、「春だったね」とともに非常によく演奏される曲で、ファンからの人気も大変高い曲として知られています。

また、1990年代、に泉谷しげる(いずみや しげる)が主催したチャリティーコンサート「日本をすくえ!」で拓郎が参加したコンサートでは、常に場を盛り上げる曲として、最初の方で歌われていました。

「落陽」は、どのような経緯で生まれた? - 「落陽」誕生秘話

「落陽」は、どのような経緯で生まれた曲なのでしょうか?

この曲は、作詞の岡本おさみが北海道を放浪した時の実体験に基づいています。
岡本は、旅の途中で、1人の老人に出会いました。
「落陽」は、この老人がサイコロ賭博(とばく)に明け暮れるようになった人生と、苫小牧(とまこまい)港から仙台港に向かうフェリーに乗る自分をわざわざ見送りに来てくれた際の、港での別れの情景を歌っています。

「大空と大地の中で/松山千春」- アルバム「君のために作った歌」に収録されている名曲

今日は、松山 千春の「大空と大地の中で(おおぞらとだいちのなかで)」のご紹介です。


写真はこちらからお借りしました。

松山千春(まつやま ちはる、1955年12月16日 -)は北海道足寄郡足寄町(ほっかいどうあしょろぐんあしょろちょう)出身のフォークシンガーです。

1975年、STVラジオの竹田健二ディレクターに見出され、翌年に同局の「サンデージャンボスペシャル」内の15分コーナー「千春のひとりうた」でメディアデビューをします。
続いて、その2年後の1977年の1月25日に、「旅立ち」でレコードデビューを果たします。
 
「旅立ち/松山千春」 - その後「季節の中で」でブレイクする松山千春のデビュー曲|Super源さんの音楽ブログ

「旅立ち/松山千春」 - その後「季節の中で」でブレイクする松山千春のデビュー曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、松山 千春の「旅立ち」のご紹介です。 写真はこちらからお借りしました。松山 千春(まつやま ちはる、1955年12月16日 -)は北海道足寄郡足寄町出身のフォークシンガーです。1


しかしながら、同年8月27日に、二人三脚で歩んできた竹田が急性心不全(きゅうせいしんふぜん)のため36歳で急逝(きゅうせい)。
松山千春は、一時失意に陥(おちい)りますが、これが契機(けいき)となり、同年10月には個人事務所として「オフィス・パンタ」(現在のオフィス・ゲンキ)が設立され、松山千春をバックアップすることになります。

そして、同年10月には「オールナイトニッポン」水曜2部のラジオパーソナリティに起用(きよう)され、全国区の人気になります。
また、これに伴い「サンデージャンボスペシャル」からは降板(こうばん)し、1978年4月には月曜1部に昇格して全国区の知名度(ちめいど)を更に得るようになります。

くわえて、同年に発売したシングル「季節の中で」が大ヒットしたことで、一気にスターダムを駆け上り、以後も多数のヒット曲を出し、松山千春はニューミュージック界で確固(かっこ)たる地位を築くに至ります。
 
「季節の中で/松山千春」 - グリコアーモンドチョコレートCMソング ミリオンセラーを達成した松山千春のブレイク曲! |Super源さんの音楽ブログ

「季節の中で/松山千春」 - グリコアーモンドチョコレートCMソング ミリオンセラーを達成した松山千春のブレイク曲! |Super源さんの音楽ブログ


今日は、松山 千春の「季節の中で」のご紹介です。 写真はこちらからお借りしました。松山 千春(まつやま ちはる、1955年12月16日 -)は北海道足寄郡足寄町出身のフォークシンガーです。


さて今日は、そんな松山千春の、1977年6月25日に発売されたアルバム「君のために作った歌」の中から、「大空と大地の中で」をどうぞ!( ^-^)/
 
大空と大地の中で(おおぞらとだいちのなかで)/松山千春

「大空と大地の中で」は、松山千春の代表曲のひとつ

「大空と大地の中で」は、「季節の中で」と「長い夜」に次ぐ、松山千春の代表的な曲で、さだまさしの「北の国から〜遥かなる大地より〜」とともに、北海道のご当地ソングとして、現在でも広く愛されるスタンダードナンバーとなっています。

松山の出身地である足寄町の道の駅「あしょろ銀河ホール21」では、この楽曲が場内でオンエアされています。

「大空と大地の中で」は、2度にわたってリメイク

今日ご紹介した「大空と大地の中で」は、2度にわたってリメイクされ、1998年に発売されたシングル「この世で君が一番好き」のカップリング、そして、2006年に発売されたカバー・アルバム「再生」に、それぞれ収録されています。

松山千春のその後・現在

1980年3月3日に、清須邦義と加川良と共にNEWSレコードを設立。

1982年7月24日に、札幌・真駒内屋外競技場にて5万人コンサート「大いなる愛よ夢よ’82」を開催。

1984年に、「オレたちひょうきん族」内の『タケちゃんマン』に使用された「ビックリ箱のうた」の作詞・作曲を手がける。

1985年に、NEWSレコード事業解散。レコード会社をALFAレコードに移籍。同年12月に結婚、一児(長女)をもうける。

1992年に、日本コロムビアに移籍。1980年以降のオリジナル・アルバムCDが日本コロムビアから順次廉価再発される。

2007年に、コンサート公演回数が2000回に達する。

2008年8月5日、アスコムより松山千春責任編集 月刊松山「捨石 sute・ishi」を発行。

2009年1月24日から、映画化された松山千春原作のベストセラー自伝「足寄より」が全国順次公開。

2021年10月、デビュー45周年を記念して、通算82枚目のシングルとなる「敢然・漠然・茫然(かんぜん・ばくぜん・ぼうぜん)」を発売。

2023/01/23 「松山千春コンサート・ツアー2023春」開催が決定(4月7日 松戸市~6月28日 北海道)。
2023年04月19日 通算83枚目のシングルとなる「慕情」を発売。

※ 2023年現在、松山千春はコンサート活動、ラジオへの出演(NACK5 「松山千春 ON THE RADIO」)、CD発売などで活動しています。

なお、松山千春のオフィシャルサイトはこちら。

松山千春 | 日本コロムビア
https://columbia.jp/chiharu/