Super源さんの音楽ブログ

名曲紹介、作詞・作曲、音楽用語の楽しい覚え方、その他音楽にまつわることを書いていくブログです。可愛い音楽ブログパーツも配布しています。

Rss  Admin

「WON'T BE LONG(ウォント ビー ロング)/バブルガム・ブラザーズ」 - ミリオンセラーを突破した大ヒット曲!

今日は、バブルガム・ブラザーズの「WON'T BE LONG(ウォント ビー ロング)」のご紹介です。

ウォント ビー ロング バブルガム・ブラザーズ ジャケットイメ-ジ
写真は、こちらからお借りしました。

バブルガム・ブラザーズは、1983年にブラザー・トム(Bro.TOM)とブラザー・コーン(Bro.KORN)のコンビで結成されたデュオです。略称はBGB。
彼らは、もともとは漫才師でした。

バブルガム・ブラザーズは、1985年に「忘れじのエヴリナイト」を発売して、ミュージシャンとしてデビューをします。

そして、シングル『Beautiful People』あたりから、グループ名の英語表記で、定冠詞「THE」(ザ)を黒人英語の「DA」(ダ)に変えて、コーンの綴りも2008年ごろ「KORN」から「KONE」に変えます。

1991年には、前年の1990年に発売したシングル「WON'T BE LONG」が大ヒットし、『第42回NHK紅白歌合戦』に出場。
この年の紅白は、当初は「HOUND DOG」が出場を予定していましたが、NHKとの選曲のもつれから彼らの出場はキャンセルとなり、代役として白羽の矢が立ったのが、「バブルガム・ブラザーズ」です。
そして、当日歌い終わった後、「THANKS TO HOUND DOG」と絶叫します。

それでは、今日はその「WON'T BE LONG」をどうぞ。
 
WON'T BE LONG(ウォント ビー ロング)/バブルガム・ブラザーズ

この曲の歌詞はこちら

この曲は、東京都杉並区高円寺出身のBro.KORN(以下KORN)が東京高円寺阿波おどりをモチーフに作ったもので、プロモーション・ビデオの撮影は高円寺阿波おどりの会場で行なわれました。

KORN曰く、「今まで虐げられてきたけど、お前のために全て頑張ってきたよ」という内容の歌詞で、「お茶の間ファンクやお茶の間ソウル」という親しみやすいメロディが特徴の曲です。
歌っているのはKORNのみで、Bro.TOM(以下TOM)はレコーディングの段階から一切関わっていず、音楽番組などで歌う際も、TOMは当て振りしか行わいませんでした。
のちに、「レコーディング中、TOMはパチンコに行っていた」とKORNが明かしています。

この曲は1990年8月のbayfmのパワープレイに採用され、『ヒットスタジオR&N』(フジテレビ)のエンディングでも流されました。

発売後、しばらくは反響がありませんでしたが、1991年3月30日に放送された『オールナイトフジ』最終回スペシャル(フジテレビ)にKORNがゲスト出演した際に、この曲を気に入っていたとんねるずが生放送中に2度かけたところ、フジテレビに曲名を尋ねる質問電話400本が殺到。
これをきっかけにこの曲は大ヒットとなり、1992年1月にはミリオンセラーを突破(累計販売枚数は170万枚)しました。

バブルガム・ブラザーズのその後

バブルガム・ブラザーズは、1996年以降になるとソロ活動が多くなり、活動休止状態(2004年6月にライブを行ったことがある)となります。

しかしながら、2008年12月3日に発売したシングル「Daddy's Party Night~懲りないオヤジの応援歌~」で、本格的に活動を再開。音楽番組にも出演します。

その際、活動を休止した理由は、不仲によるものであったと語っています。
また、再始動のきっかけは、偶然、2人が町でバッタリ会ったときに会話が弾み、

『お互い病気を乗り越えた(トムは心筋梗塞、コーンは腎疾患)記念に、もう一度やろうか。』

というやり取りがあったことだと語っています。

「京都の恋/渚ゆう子」 - オリコン19位を記録したヒット曲

今日は、渚 ゆう子の「京都の恋」のご紹介です。

京都の恋 渚ゆう子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

 ゆう子(なぎさ ゆうこ、本名:大江 千鶴子 1945年11月8日 - )は、大阪市浪速区出身の歌手です。

渚 ゆう子は、1967年に、ハワイアン歌謡「早くキスして」でレコードデビューをします。

1970年に、ベンチャーズが作曲した「京都の恋」「京都慕情」を、日本語の歌詞で唄って大ブレイクし、人気歌手の仲間入りを果たします。

「京都の恋」は、オリコンシングルレコード売上げで85万枚を突破し、さらに、1970年年間第10位、翌1971年年間第27位にそれぞれランク、渚 ゆう子自身最大のヒット曲となりました。

また「京都慕情」の方も、翌年の1971年度オリコン年間第15位にランクされています。

今日は、そんな渚 ゆう子の、1970年2月25日に発売された、「京都の恋」をどうぞ。
 
京都の恋/渚ゆう子

この曲の歌詞はこちら

この曲は、オリコンチャートにおいて、最高順位19位を記録しています。
またこの曲は、前述したように、ザ・ベンチャーズ作曲ののインストゥルメンタルで、同1970年開催の「日本万国博覧会」を記念して製作されたものです。

この曲の日本での英語題は"Kyoto Doll"で、米題は"EXPO'70"。
オリジナルレコーディングにおいては、主旋律にエレキ・シタール(彼らのコンサートも同様)が使われています。

渚 ゆう子は、1971年に 筒美京平作曲の「さいはて慕情」で第13回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。
第22回NHK紅白歌合戦に「京都慕情」で初出場。
また、歌手としても、この年のシングルレコード売上げの年間第2位となりました。

1972年には、「風の日のバラード」で、第23回NHK紅白歌合戦に2回目の出場を果たし、1981年には、歌手としての第一線から一時引退するも、12年後の1993年に復帰し、「北ホテル」を発売。
1997年には、「京都ひとり」を発売します。

「とびだせ初恋/浅野ゆう子」- 後に「セクシー・バス・ストップ」が大ヒットする浅野ゆう子のデビュー曲

今日は、浅野 ゆう子の「とびだせ初恋」のご紹介です。

とびだせ初恋 浅野ゆう子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

浅野 ゆう子(あさの ゆうこ、本名: 赤沢 裕子(あかざわ ゆうこ)、1960年7月9日 -)は、兵庫県神戸市の女優、歌手です。

浅野 ゆう子は、1974年に、アイドル歌手として「とびだせ初恋」でデビューをします。

そしてその後、「恋はダン・ダン」「ひとりぼっちの季節」と、シングルを発売していきます。
 

「恋はダン・ダン/浅野ゆう子」- 「第16回日本レコード大賞新人賞」を受賞した浅野ゆう子のヒット曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、浅野 ゆう子の「恋はダン・ダン」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。浅野 ゆう子(あさの ゆうこ、本名: 赤沢 裕子(あかざわ ゆうこ)、1960年7月9日 -)は、兵


しかしながら、当時の女性アイドルは、小柄であることが好ましいとされており、浅野ゆう子のように長身で日本人離れしたプロポーションのアイドルは、珍しい存在でした。
くわえて、ミニスカートやホットパンツなどでスタイルを強調していたため、女性からの反発を受けたこともあって、アイドル歌手としてはうまくいきませんでした。

そんな中、1976年04月25日に発売された8枚目のシングル「セクシー・バス・ストップ」が大ヒット。
この曲は、浅野ゆう子自身最大のヒット曲となります。
 

「セクシー・バス・ストップ/浅野 ゆう子」 - オリコン週間12位を記録! 浅野ゆう子最大のヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ


今日は、浅野 ゆう子の「セクシー・バス・ストップ」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。浅野 ゆう子(あさの ゆうこ、本名: 赤沢 裕子、1960年7月9日 -)は、兵庫県神戸市


そして、歌を実質休業状態になった1980年代からは、様々な会社の水着キャンペーンモデルなど企業広告で活躍。

ただし、水着での初出は1979年(昭和54年)のカネボウ化粧品CF「一気にこの夏チャンピオン」からで、1981年の洋酒の悩殺ポスターは、世の男性の目を楽しませます。



今日は、そんな浅野ゆう子の、1974年5月25日に発売されたデビュー曲である「とびだせ初恋」をどうぞ。
 
とびだせ初恋/浅野ゆう子

この曲のレコード・ジャケットは、脚の長さを強調したものですね。
13歳にしてはスタイル良すぎですが、昭和30年代風のおかっぱ頭と脚の長さがミスマッチという気も…。(^^;

浅野ゆう子は当時、「ジャンプするカモシカ」というキャッチフレーズで活動していました。
それで、このようなジャケットになったものと思われます。

浅野ゆう子のエピソード

浅野ゆう子は、若い頃はものまね番組にも出演し、風吹ジュン等のものまねを披露していました。

・1980年代後半から1990年代前半にデビューした俳優やお笑い芸人から、「バブル期の大御所」また「ボディコンといえばゆう子」と言われています。
バブル時代当時には、「ボディコンゆう子」の異名が業界に浸透していました。

・1991年の『NHK紅白歌合戦』では、気丈にも鼻の骨の骨折を隠しながら司会を続けるということがありました。

・フジテレビ系『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」において、20回出演の記録をもっています(2012年4月18日出演時点)。これは、和田アキ子(21回出演)に次いで、陣内孝則と並ぶ歴代2位の記録です。

・浅野ゆう子はマイケル・ジャクソンの大ファンで、1980年代の日本公演で追っかけをしたことがあり、神奈川県葉山のフランス料理店で食事を一緒にしたこともあります。

・あまり知られていませんが、浅野ゆう子は若手時代、TBS系の長寿クイズ番組『世界・ふしぎ発見!』の準レギュラー回答者でした(3枠または5枠席)。
これは、前任の女性の準レギュラー回答者だった和田アキ子の事実上の後任として、1986年10月から月1または月2ペースの出演でしたが、女優業が多忙になって出演が困難になったため、1989年頃の出演が最後となっています。

・2017年、年末に一般男性と結婚したことを公式サイトを通じて発表しました。