Super源さんの音楽ブログ

名曲紹介、作詞・作曲、音楽用語の楽しい覚え方、その他音楽にまつわることを書いていくブログです。可愛い音楽ブログパーツも配布しています。

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「たそがれの赤い月/ジュディ・オング」 - 「魅せられて」で知られるジュディ・オングの1967年のスマッシュヒット曲!

今日は、ジュディ・オングの「たそがれの赤い月」のご紹介です。

たそがれの赤い月 ジュディ・オング ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

ジュディ・オング (本名・帰化名:翁ジュディ}、旧名・台湾名:翁倩玉、英語名:Judy Ongg、1950年1月24日 - )は、台湾出身の歌手、女優、版画家です。
語学が得意で、母語である台湾語のほか、日本語、英語、中国語、スペイン語、広東語の6言語を話すことができます。

ジュディ・オング
ジュディ・オング
写真はこちらからお借りしました。

ジュディ・オング は、1966年に日本コロムビアより「星と恋したい」で歌手デビューをします。
そして、「サイボーグ009」と「サイボーグ009怪獣戦争」の劇場用映画2作において、声優として003役(初代)の声で出演します。

サイボーグ009怪獣戦争 太田博之 ジュディ・オング
写真はこちらからお借りしました。

1967年には、「たそがれの赤い月」がスマッシュヒット。
これを含め、コロムビア時代(初期~中期)は市川昭介が手がけた「夕日の恋」、「悲しみの十字架」、「さようなら17才」、「初めての別れ」、「ひらがなふたつ」など演歌調の曲が多く発売されます。

同時期に、「涙くんさよなら」、「青春ア・ゴーゴー」、「帰ってきた狼」などの多くの映画やテレビドラマ「S・Hは恋のイニシァル」(共演:伊東ゆかり、大原麗子、布施明。1969年)などにも出演し、人気を博します。

また、1970年代に、「おしどり右京捕物車」、「賞金稼ぎ」、「必殺からくり人」、「新・必殺からくり人・東海道五十三次殺し旅」、「江戸を斬るIV」など多くの時代劇に出演しています。

そして、1979年には、ワコール「フロントホックブラ」CMソングとして発売されたタイアップ曲「魅せられて(英語タイトル:Love Is Calling Me)」が、オリコンチャートにおいて123.5万枚、累計で200万枚の売上げを記録し、ジュディ・オングの代表曲の1つとなります。

曲は、そんなジュディ・オングの、1967年7月1日に発売されたスマッシュヒット曲「たそがれの赤い月」をどうぞ。
 
たそがれの赤い月/ジュディ・オング

哀愁漂う、何とも素敵な楽曲ですね。(^-')
この曲は、オリコンの始まる前年で、詳細な記録がありませんが、「レコードマンスリー」のランキングによれば、発売された翌月の8、9月にヒットしたようです。

集計日付順位
昭和42年8月11位
昭和42年9月11位
昭和42年10月12位
昭和42年11月18位
出典
https://www.hitchartjapan.work/entry/2019/06/19/220221


「ニャー。たそがれって、人を好きになって目が星になることだよニャー」「それは、『あこがれ』」
400

また、1970年代になると、「おしどり右京捕物車」、「賞金稼ぎ」、「必殺からくり人」、「新・必殺からくり人・東海道五十三次殺し旅」、「江戸を斬るIV」など多くの時代劇に出演。

そして、この頃からは、筒美京平や都倉俊一が手がけたポップス調の曲も発売するようになります。

また、1972年には、日中国交正常化を機に、日本に帰化します。

「毎日がバレンタイン/柏原芳恵」 - 「No.1」でデビューした柏原芳恵の、2.9万枚を売上げた2ndシングル!

今日は、柏原 芳恵の「毎日がバレンタイン」のご紹介です。

毎日がバレンタイン 柏原芳恵 ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

柏原 芳恵(かしわばら よしえ、本名:柏原 芳恵(かしはら よしえ) 1965年10月1日 -)は、大阪府大阪市出身の歌手です。

柏原 芳恵は、1979年の秋、日本テレビ系「スター誕生!」に出場し、清水由貴子の「お元気ですか」を歌って合格。その後、グランドチャンピオンとなります。

1980年6月1日に、シングル「No.1」で歌手デビュー。
 

「No.1/柏原芳恵」 - オリコン76位、2.6万枚を売上げた柏原芳恵のデビュー曲にしてヒット曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、柏原 芳恵の「No.1」のご紹介です。 写真はこちらからお借りしました。柏原 芳恵(かしわばら よしえ、本名:柏原 芳恵(かしはら よしえ) 1965年10月1日 -)は、大阪府大阪


そして、1981年10月15日発売の7枚目のシングル「ハロー・グッバイ」が大ヒット。

1982年10月1日には、シングル「花梨」を発売。
同時に、名前を“よしえ”から“芳恵”に改名します。

その後は、「春なのに」(1983年、TBS系「ザ・ベストテン」で最高2位まで上昇)、「最愛」など、中島みゆき作詞・作曲による作品を中心に、トップ10ヒットを1981年から1986年の間に18作品出して行きます。
 
1980年代後半は、歌手としての活動よりも女優活動が目立つようになり、2時間ドラマに多数主演の他、映画にも出演します。

今日は、そんな柏原 芳恵の、1980年9月5日に発売された2枚目のシングルである、「毎日がバレンタイン」をどうぞ。
 
毎日がバレンタイン/柏原 芳恵

この曲の歌詞はこちら

いやあ。(^o^) いかにもアイドルソングといった曲ですねー。(^-')
柏原芳恵は、だんだん歌がうまくなっていきましたね。(^^)
確か、「第二章口づけ」あたりから声の出が良くなって、「ハロ-グッバイ」あたりから本当に歌がうまくなったと記憶しています。
春なのに」も名曲でした。
 
「春なのに/柏原芳恵」 - 33.4万枚を売り上げた、「ハロー・グッバイ」に次ぐ大ヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ

「春なのに/柏原芳恵」 - 33.4万枚を売り上げた、「ハロー・グッバイ」に次ぐ大ヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ


今日は、柏原 芳恵の「春なのに」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。柏原 芳恵(かしわばら よしえ、本名:柏原 芳恵(かしはら よしえ) 1965年10月1日 -)は、大阪府大


「毎日がバレンタイン」は、オリコンチャートにおいて、週間64位を記録し、シングル売り上げは2.9万枚を記録。
デビュー・シングルである「No.1」より若干上回った枚数となっています。

そうそう。柏原芳恵といえば、もう1曲忘れてはいけない曲があります。
それは、「坂道」です。
こちらも名曲なので、お時間が許せば、こちらも是非お聴きになってみてください。(^^)
 

「坂道/柏原 芳恵」 - 「夏模様」のB面収録曲 「オフコース」松尾一彦作曲による隠れた名曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、柏原 芳恵の「坂道」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。柏原 芳恵(かしわばら よしえ、本名:柏原 芳恵(かしはら よしえ) 1965年10月1日 -)は、大阪府大阪市


柏原芳恵のその後、現在

・2020年(令和2年)6月1日に、40周年記念ニュー・シングル「KU・ZU 〜ワタシの彼〜」を発売。
・同年7月4日に、「倉庫 de ライヴ」をYouTube生配信。
・同年7月24日に、「柏原芳恵40周年コンサート ~A・RU・KU~」を開催予定でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大状況を踏まえ、10月17日に延期した上で開催。また、YouTubeにアップされたコンサートのダイジェスト映像の再生数が上がり注目を集め、日本文化を海外に発信する経済産業省の事業「J-Lod Live」の対象となり、2020年12月31日から2021年(令和3年)1月10日までの期間限定で全世界に有料配信される運びとなります。
・2022年(令和4年)11月2日に、3枚組のDVD「柏原芳恵 NHK プレミアムコレクション」を発売。
・同年11月4日に、ハイブリッドコンサート「柏原芳恵Live2022 ~A・RU・KU 第二章~」を開催。
・2023年(令和5年)1月7日から、「柏原芳恵の喫茶☆歌謡界」を放送開始。この番組は、J:COMテレビで2023年1月7日から毎週土曜日22:00 - 22:30に放送されている、ゲストとのトークを交えた音楽番組で、柏原芳恵の冠番組です。

「アカシアの雨がやむとき/西田佐知子」 - 歌謡映画「アカシアの雨がやむとき」の主題歌&西田佐知子の代表曲

今日は、西田 佐知子の「アカシアの雨がやむとき」のご紹介です。


写真はこちらからお借りしました。

西田 佐知子(にしだ さちこ、本名:関口 佐智子、1939年1月9日 - )は、大阪府大阪市城東区出身の元歌手です。愛称は「さっちん」。
夫は俳優・テレビ司会者・タレントの関口宏。俳優・タレントの関口知宏は息子。

西田 佐知子は、1956年に、「伊那の恋唄」で歌手デビューをします。

1960年に、「死ぬまで一緒に」を発売。

1961年に、ギリシャ映画「日曜はダメよ」同名主題歌がスマッシュヒット。
続けて、外国曲のカバー「コーヒールンバ」がメガヒット。
西田 佐知子は、これらの曲のヒットにより、一躍その名を知られるようになります。
 

「コーヒールンバ/西田佐知子」 - 1961年にメガヒットした、ホセ・マンソ・ペローニ作曲の「Moliendo Cafe」のカバー曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、西田 佐知子の「コーヒールンバ」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。西田 佐知子(にしだ さちこ、本名:関口 佐智子。1939年1月9日 - )は、大阪府大阪市城東区出


今日は、そんな西田佐知子の、1962年に発売された「アカシアの雨がやむとき」をどうぞ。
 
アカシアの雨がやむとき/西田佐知子

この曲の歌詞はこちら

この曲は、西田佐知子の代表曲です。
西田佐知子はこの曲で、第4回日本レコード大賞特別賞を受賞しています。

「アカシアの雨がやむとき」は、AB面に異なる歌手の歌が収録されたシングルレコード

「アカシアの雨がやむとき」は、A面とB面に異なる歌手の歌う楽曲が収録されているシングルレコードのA面として、1960年4月に発売されたものです。
B片面には、原田信夫が歌う「夜霧のテレビ塔」が収録されています。

このレコードは、ポリドール・レコードから発売された西田佐知子の4枚目のシングルで、それ以前に発売された3枚も、やはり異なる歌手とカップリングされたシングルレコードでした。

発売当初、このレコード・ジャケットは、名前表記が当時の本名とされる「西田佐智子」になっており、原田信夫の顔写真も掲載されていました。

発売当初の「アカシアの雨がやむとき」のジャケットイメージ
アカシアの雨がやむとき 西田佐知子 発売初期のジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

しかしながら、この曲が世間に浸透した結果、レコード・ジャケットが西田佐知子のみの写真に変更され、名前も現在の芸名である「西田佐知子」に修正され、このリニューアル盤が流通していきました。

西田佐知子はこの曲で、第4回日本レコード大賞特別賞を受賞

前述したように、このシングル盤の発売自体は1960年ですが、「NHK紅白歌合戦」では1962年の第13回で初披露されました。
そして、同年の末に放送された「第4回輝く!日本レコード大賞」において、この曲のロング・セールスが評価され、「特別賞」が授与されました。

そして1963年には、浅丘ルリ子主演、高橋英樹が相手役で西田佐知子本人も出演する、日活制作の歌謡映画「アカシアの雨がやむとき」が封切られました。
なお、この曲で歌われているアカシアは、本当のアカシアではなく、ニセアカシアとされます。

「ええ? ニセ物なの?」


この猫ちゃん、ちょっと驚きすぎという気が。(^o^;

「アカシアの雨がやむとき」がヒットした背景

「アカシアの雨がやむとき」がヒットした背景として、「日米安保闘争」と関連付けて語られることが多くあります。

それは、1960年1月の「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」調印を発端とした安保闘争後、反対運動の成果ゼロという結果に疲れた若者たちが、西田佐知子の乾いたボーカルと廃頽的(たいはいてき)な詞に共鳴し、歌われたことで広まっていった、というものです。

そのため、テレビ番組においては、当時の世相を反映する楽曲として、安保闘争(とりわけ樺美智子死亡による抗議デモ)の映像のバックで流れることがあります。

西田佐知子は、今どうしている?

関口邸_01

西田佐知子ですが、現在は病気で、これまで住んでいた豪邸(ごうてい)を売って転居したという情報が入っています。
もう既に、関口宏の住んでいた東京都世田谷区の自宅・通称関口御殿は解体され、すっかり更地になっている模様です。

関口夫婦の住んでいたこの豪邸は、いわば「その街の顔」のようなものだったので、自宅が取り壊されるのを見た近所の人たちは、かなり驚いたようです。

関口邸_02

関口邸は、東京都世田谷区の約545平米という広大な土地に建てられた豪邸で、西田佐知子と関口宏は、この自宅に1985年からずっと住んでいたそうです。

またこの豪邸は、地上階ばかりでなく、地下もある広大な物件だったため、購入した当時は土地代と建物代の両方を合わせ、5億円くらいはしたのではないかといわれています。
現在でもこの場所は、土地代だけでも3億円以上はするということです。

関口邸_03
上3枚の写真はこちらからお借りしました。

関口宏は、現在は東京都港区のタワーマンションに転居しているということで、世田谷の旧関口邸は凝った造りの階段もあったりで、年をとると階段の昇り降りが辛くなるからマンションが良い、と関口宏本人が語っていたそうです。

さらに、妻である西田佐知子の体調が良くないことも、世田谷の豪邸から港区のタワーマンションに引っ越す大きなきっかけとなったとうことです。
新居の近くには医療施設などもあるということなので、引っ越しの時には、この点も考慮されたのでしょう。

西田佐知子の息子は何をしている?

西田佐知子と関口宏の息子・関口知宏は、1996年には関口宏が代表を務める芸能事務所「株式会社 三桂(さんけい)」に所属して、俳優として活動していました。
そしてその後、2004年にはNHK BShiの「列島縦断 鉄道12000キロの旅 〜最長片道切符でゆく42日〜」に出演したことがきっかけでブレイクします。

その後も、さまざまな鉄道に乗って旅をする番組への出演をメインに芸能活動を行なっています。
関口知宏が出演した番組は、再放送されるほどのかなりの人気を誇っています。