Super源さんの音楽ブログ

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「LOVE(抱きしめたい)(ラブ だきしめたい)/沢田研二」 - オリコン4位を記録したヒット曲!

今日は、沢田研二の「LOVE(抱きしめたい)(ラブ だきしめたい)」のご紹介です。

ラブ 抱きしめたい 沢田 研二 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

沢田 研二(さわだ けんじ、本名:澤田 研二 1948年6月25日 -)は、鳥取県鳥取市生まれ、京都府京都市出身の歌手、俳優、作詞・作曲家です。ニックネームはジュリー。妻は女優の田中裕子。前妻は元ザ・ピーナッツの伊藤エミ。

沢田 研二は、1971年11月1日に「君をのせて」でソロデビューをします。
 

「君をのせて/沢田 研二」- オリコン23位を記録したソロデビュー曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、沢田 研二の「君をのせて」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。沢田 研二(さわだ けんじ、本名:澤田 研二 1948年6月25日 -)は、鳥取県鳥取市生まれ、京都府京都


この曲のオリコン最高位は23位どまりでしたが、この曲がGSの先輩であった「ザ・ワイルドワンズ」の加瀬邦彦プロデュースのもと、十数年にわたって音楽ランキングトップ10にチャートインし続けた沢田研二の、ソロ活動のスタートでした。

1973年4月21日に「危険なふたり」を発売。この曲は65万枚を売り上げ、ソロ初のオリコン1位を獲得し、第4回日本歌謡大賞を受賞します。
続いて翌年の1974年には、「追憶」が58万枚を売り上げ、2曲目のオリコン1位を獲得します。

今日は、そんな沢田研二の、1978年9月10日に発売された25枚目のシングルである「LOVE(抱きしめたい)(ラブ だきしめたい)」をどうぞ。
 
LOVE(抱きしめたい)(ラブ だきしめたい)/沢田 研二

この曲の歌詞はこちら

この曲は、オリコンチャートにおいて、最高順位4位、1978年度年間36位、1979年度年間81位を記録しました。

また、併せて以下の賞を獲得しています。

・第20回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞
・第7回FNS歌謡祭・グランプリ
・'78あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭・ゴールデングランプリ
・第11回全日本有線放送大賞・大賞
・第9回日本歌謡大賞・放送音楽賞


ゆうちゃん



おお!
沢田研二、スゴいね!


しんちゃん



ホントだな!
各賞を総なめという感じだね
この曲は、前述した「危険なふたり」から、スタイリストとして、早川タケジが参加、以後、沢田研二の斬新(ざんしん)なファッションが確立されることになります。

1978年に発売された「サムライ」では、刺青(いれずみ)風の模様が施されたシースルーの上に、ハーケンクロイツの腕章が施されたナチスを想起させる軍服を羽織り、この「LOVE (抱きしめたい)」ではスタジオに雨を降らせ、血で染まった包帯を手に巻くなど、どんどん奇抜な方向へとビジュアル化が進んでいきました。

この曲は第20回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞し、同年の第29回NHK紅白歌合戦でトリをつとめます。

当時、沢田研二は文字通り時の人で、この曲を歌った1978年を例にとれば、年間のテレビ出演700本以上、ラジオ300本、取材300本、地方公演100日で、バックバンドをひきつれて1日3回もテレビに出演。
バラエティ番組にも出演し、沢田研二は「お茶の間のアイドル」として活動していました。


ゆうちゃん



あれ?
この曲のAメロ、どこかで聞いたことがある気がするんだけど?


しんちゃん



ちょっと待って…
ああ、石野真子の「失恋記念日」だね

「失恋記念日/石野 真子」 - オリコンで24位を記録した1978年のヒット曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、石野 真子の「失恋記念日」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。石野 真子(いしの まこ、本名:同じ 1961年1月31日 -) は、兵庫県神崎郡神崎町(現: 神河町)生


なお、沢田 研二は、1979年にPARCOのテレビCMで全裸で横たわり、上半身裸の新聞全面広告を掲載。
併せて、PARCO各店には手で胸を隠した裸のポスターが貼られ、翌年の1980年2月29日には、写真集「水の皮膚」を発売。

この写真集が、男性歌手としては、初めてのオールヌード写真集となっています。

「♪抱~きしめたい~♪」 ムニャムニャ


なお、この曲は、2004年にロックバンドのBUCK-TICKのボーカルである櫻井敦司によって、2006年にはロックバンドのLUNA SEAのボーカルであった河村隆一によって、カバーされています。

「青いスタスィオン/河合その子」 - 34.1万枚を売り上げた最大のヒット曲!

今日は、河合その子の「青いスタスィオン」のご紹介です。

青いスタスィオン 河合その子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

河合その子(かわい そのこ、1965年6月20日、本名: 後藤 その子(ごとう そのこ) 旧姓:河合)は、愛知県知多郡横須賀町(現 東海市)出身の元歌手です。

河合その子は女性アイドルグループである「おニャン子クラブ」の元メンバーで、会員番号は12番です。
現役当時は、渡辺プロダクション→イザワオフィスに所属していました。

ソロ・デビュー第1弾シングルは、「涙の茉莉花LOVE」。
この曲は、初チャートイン(第5位)翌週のオリコンシングルチャートにて第1位を獲得します。
 

「涙の茉莉花LOVE」(なみだのジャスミン・ラヴ)/河合その子」 - オリコンシングルチャート第1位を獲得した、ソロ・デビュー第1弾シングル|Super源さんの音楽ブログ


今日は、河合その子の「涙の茉莉花LOVE」(なみだのジャスミン・ラヴ)」のご紹介です。 写真はこちらからお借りしました。河合その子(かわい そのこ、1965年6月20日、本名: 後藤 その子


今日は、そんな河合その子の、1986年3月21日に発売された、通算3枚目のシングルである「青いスタスィオン」をどうぞ。
 
青いスタスィオン/河合その子

この曲の歌詞はこちら

この曲のタイトルの「スタスィオン」というのは、「駅(station)」をフランス風に発音した言葉、もしくはフランス語で「駅」を表す言葉であるとされています。

が、フランス語名詞の "station" は、地上駅の場合は場内信号が設置されていない「停留所」という意味になります。

この曲の歌詞からすると、地下鉄の駅でもないようで、フランス語で一般的な鉄道の「駅」を表す単語としては、"gare"(ガール)が妥当と思われます。

実際、当時この曲が「クイズダービー」の歌詞あてクイズに出題された際、解答者の篠沢秀夫は、「ホームがあるならスタスィオンではなくガールだ」とボードに注記していました。

また、この曲は34.1万枚を売り上げ、河合その子の最大のヒット曲となりましたが、本人はニッポン放送系のラジオ番組「おニャン子のあぶない夜だよ」にて、

「(周囲から)いい『曲』だよねぇ、とばかり言われ。でもいい『歌』と言ってほしい」

と発言。
自らの歌唱ではなく、曲の良さばかりが評価されたことに対し、若干の悔しさを見せていました。


なお、河合その子は、2010年3月に、資生堂の新化粧品ブランド「IN&ON」のコマーシャル出演を発表。
このCMは、4月からオンエアされました。

同CMでは、荻野目洋子、薬丸秀美、伊藤つかさと共演し、またこの時の会見で、夫の後藤との間に子どもが1人いることを明かしています。
 
秀美が、つかさが、荻野目が、その子が 資生堂CMで「同窓会」

「真冬の帰り道/ザ・ランチャーズ」 - 結成は加山雄三 オリコン23位を記録したデビュー曲にしてヒット曲! 初期メンバーの1人は『ウルトラマン』のイデ隊員

今日は、ザ・ランチャーズの「真冬の帰り道」のご紹介です。

ザ・ランチャーズ 真冬の帰り道 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

ザ・ランチャーズ(The Launchers)は、1962年に結成されたグループ・サウンズのバンドで、1967年11月に、シングル「真冬の帰り道」でデビューをします。

メンバーは、喜多嶋瑛(ドラムス)、喜多嶋修(ボーカル、ギター)、大矢茂(ギター)、渡辺有三(ベース)の4人です。

ランチャーズ
は、加山雄三主演の「若大将シリーズ(東宝が1961年から1971年まで製作した加山雄三主演の喜劇映画)」が始まったころ、加山雄三が藤本真澄プロデューサーに、

「会社の人間で演奏できるやつを集めてバンドをやれ。映画でも使うぞ」

と指示を受け、メンバーをかき集めて1962年に結成したバンドです。
バンド名は、「進水する」という意味で、ザ・ランチャーズと名付けられました。

第一期(結成当初)のメンバーは、加山雄三、二瓶正也(にへい まさなり)、津田彰、佐竹弘行、三木敏彦、速水洸の6人で、東宝の俳優らを中心メンバーにしてスタートしました。
ボーカルは、もちろん加山雄三です。

が、次第にそれぞれの本業が忙しくなり、バンド活動が困難になってきたため、一旦活動停止を余儀なくされます。

そうそう、二瓶正也といえば、円谷プロ制作の空想特撮シリーズ『ウルトラマン』のイデ隊員を務めた俳優でもありますね。(^^)

イデ隊員
ウルトラマン イデ隊員 二瓶正也
写真はこちらからお借りしました。

ナ、ナツカシー。(^o^) (--)トオイ メ

そして、喜多嶋修は、元女優・喜多島舞の父親でもあります。

喜多島舞
喜多島舞 ブロマイド
写真はこちらからお借りしました。

話を戻します。
そこで1964年に、加山雄三は、これではいけないと、従弟の喜多嶋瑛(きたじまえい)、喜多嶋修の兄弟と、大矢茂の4人に声をかけ、第二期ザ・ランチャーズを再結成。

1967年には、喜多嶋瑛、喜多嶋修、大矢茂、渡辺有三の4人で第三期ザ・ランチャーズを結成し、同年11月に東芝音楽工業よりシングル「真冬の帰り道」にてデビューをします。

前置きが長くなりましたが、【><】今日はそのデビュー曲である「真冬の帰り道」をどうぞ。
 
真冬の帰り道/ザ・ランチャーズ

この曲の歌詞はこちら

この曲の作詞は水島哲、作曲は喜多嶋修で、気品溢れるバロック調サウンドとシンプルなメロディーが売りで、オリコンチャートにおいて最高順位23位を記録しました。

ランチャーズは、「全員慶大生」という育ちの良さが売りのバンドでしたが、反面メンバーの個性に乏しく、それに加えて、「これがランチャーズだ!」という特徴的なサウンドが打ち出せなかったこともあり、デビュー曲以後、これといったヒット曲に恵まれませんでした。

そしてその後、1969年10月にドラムスを喜多嶋瑛から河手政次に交代しながら活動を続けていましたが、1971年春に解散となりました。

なお、1994年7月に、島英二を始めとするザ・ワイルドワンズのメンバーらにより、ランチャーズの名を冠する「加山雄三&ハイパーランチャーズ」が結成されました。

ランチャーズの発売したシングル曲

1.真冬の帰り道/北国のチャペル(1967年11月)
2.教えておくれ/愛のささやき(1968年3月)
3.シリウスの涙/想い出のジュリエット(1968年6月)
4.不機嫌な水溜り/HELLO! BABY MY LOVE(1968年12月)
5.砂のお城/雲を追いかけて(1969年6月)
6.マドレーヌ/昔も現代も真実はこれにつきる(1970年3月)

おまけ

「ニャー、この肉球パンチを受けてみよ! 」「おおっ、望むところだ!」

ウルトラマンと戦うにゃんこ
写真はこちらからお借りしました。