Super源さんの音楽ブログ

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「地平を駈ける獅子を見た/松崎しげる」 - 埼玉西武ライオンズ球団歌

今日は、松崎しげるの「地平を駈ける獅子を見た」のご紹介です。

地平を駈ける獅子を見た 松崎しげる ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

松崎しげる(まつざき しげる、本名:松崎 茂幸(まつざき しげゆき)、1949年11月19日 - )は、東京都江戸川区出身の歌手、俳優、タレントで、通称は「マツ」です。

松崎しげるは、1976年にスペインのマジョルカで開催されたマジョルカ音楽祭に『愛の微笑』で出場し、見事最優秀歌唱賞と第2位に輝きます。
その翌年、改題されCMソングとして発表された「愛のメモリー」が大ヒット。同曲は数々の賞に輝き、第28回NHK紅白歌合戦にも初出場を果たします。
 

「愛のメモリー/松崎しげる」 - 最優秀歌唱賞とオリコン週間2位を記録したヒット曲! 制作秘話~曲制作からヒットまで~も紹介|Super源さんの音楽ブログ


今日は、松崎しげるの「愛のメモリー」のご紹介です。 写真はこちらからお借りしました。 松崎しげる(まつざき しげる、本名:松崎 茂幸(まつざき しげゆき)、1949年11月19日 - )は、


今日は、そんな松崎しげるの、1979年3月25日に発売された、日本プロ野球のパシフィック・リーグに所属する埼玉西武ライオンズの球団歌であるシングル曲、「地平を駈ける獅子を見た」をどうぞ。
 
地平を駈ける獅子を見た/松崎しげる

この曲の歌詞はこちら

この曲は、1979年、西武ライオンズ発足の際に発表されました。
福岡県から埼玉県にチームが移転し、心機一転を図る意味もあって、阿久悠・小林亜星といった豪華な顔ぶれによって曲が作られ、流行歌手である松崎しげるという当時としては異例のボーカル起用が行なわれました。

歌詞中には「ミラクル元年」という一節が織りこまれ、また、印象的に表現される空の青、風の白、地の緑、そして炎の赤は、西武ライオンズのチームカラーを表わしています。

そして、ライオンズが優勝した際には、西武百貨店や西友など旧セゾングループ各社による優勝記念セールでヘビーローテーションでかけられるのが恒例となっており、毎年のように優勝していた黄金期(1982年~1994年)の時期には頻繁に流されていました。

現在は、西武ドームでの試合開始前等に場内外で流される他、5回の攻撃開始時や、ライオンズの得点時、また9回裏の攻撃時に、ビクトリーフラッグを振りながら合唱するなどして使用されています。


松崎しげるは、当時「噂の刑事トミーとマツ」などのドラマにも出演するほか、「クイズダービー」では「クイズの帝王」を自称し、ゲスト解答者として度々出演するなど、お茶の間でも人気を獲得しました。

松崎しげるのバックバンドは、松崎の「松」にちなんで、「パイントリー・ファミリー・バンド」という名称です(パイントリー(pine tree)というのは、『松の木』の英訳)。

近年では、年間200本近くのディナーショーを開催して、「ディナーショーキング」の異名を取ったり、「タモリ倶楽部」などで夜の帝王ぶりを見せたりと、タフな一面が話題となっています。

また、松崎しげるは、日本で初めて生理用品のCMに出演した男性でもあります(他にも桑田佳祐、笑福亭鶴瓶や安全地帯などがいますが、ごくわずか)。

ももいろクローバーZのコンサートでは、「南国ピーナッツ」の変名で登場し、「愛のメモリー」の替え歌で、メンバーも知らされていない重大告知を行うことが恒例となっています。

また、一部のファンの間では「麩菓子(ふがし)の人」や「松崎・麩菓・しげる」など、麩菓子にまつわる愛称で呼ばれています。

「話しかけたかった/南野陽子」 - オリコン1位を獲得したヒット曲!

今日は、南野 陽子の「話しかけたかった」のご紹介です。

話しかけたかった 南野陽子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

南野 陽子(みなみの ようこ、1967年6月23日 - )は、兵庫県伊丹市出身の女優、タレント、歌手です。愛称は、ナンノ。

南野 陽子は、1985年6月23日に「恥ずかしすぎて」で歌手デビューをします。
そして、同年の11月からフジテレビ系ドラマ「スケバン刑事」シリーズ第2作「スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説」で主役を演じ、一躍ブレイク。トップアイドルの座を獲得します。

同時に、1986年3月に発売された、同ドラマの主題歌「悲しみモニュメント」が、初のオリコンチャートトップ10入りとなります。

また、1987年2月公開の映画「スケバン刑事」では、主演に抜擢され、主題歌の「楽園のDoor」は初のオリコンチャート第1位を獲得します。
 

「楽園のDoor/南野 陽子」 - 『スケバン刑事』の主題歌|Super源さんの音楽ブログ


今日は、南野陽子の1987年のヒット曲、「楽園のDoor(らくえんのドア)」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。楽園のDoorは、同年1月にリリースされた南野陽子の6枚目のシン


その後も、「話しかけたかった」「パンドラの恋人」「はいからさんが通る」「吐息でネット」「あなたを愛したい」「秋からも、そばにいて」「涙はどこへいったの」「トラブル・メーカー」など、ヒット曲を連発します。
 

「はいからさんが通る/南野陽子」 - オリコン1位を獲得! 映画「はいからさんが通る」の主題歌|Super源さんの音楽ブログ


以前、南野陽子の「楽園のDoor」をご紹介しました。 「楽園のDoor/南野 陽子」 - 『スケバン刑事』の主題歌|Super源さんの音楽ブログ今日は、南野陽子の1987年のヒット曲、


くわえて、フジカラー、グリコ、JR西日本など多数の企業のイメージキャラクターに起用されてCMに出演。かくして、南野 陽子は中山美穂、工藤静香、浅香唯と共に、女性アイドル四天王の一人として活躍することになります。

今日は、そんな南野 陽子の、1987年4月1日に発売された通算7枚目のシングルである「話しかけたかった」をどうぞ。
 
話しかけたかった/南野陽子

この曲の歌詞はこちら

この曲は、デビュー以来マイナー路線でシングル曲を発売してきた南野陽子の、全てメジャー調となる初めての曲で、前作「楽園のDoor」に続いて、2作連続でオリコン1位を獲得しました。

当時、TBS系「ザ・ベストテン」において、2週連続で自身初の1位を獲得。このとき、南野陽子の仲良しである友達が祝福に駆けつけ、また同時に、両親からの突然の手紙に、南野陽子が感極まって涙ぐんでしまうというシーンがありました。

この「話しかけたかった」は、前述した「初のベストテン1位獲得」のほか、この曲で「スケバン刑事のイメージを完全に払拭」という当時の話題性を抜きにしても、アイドルが歌うべきポップスの理想的な形を具現化(ぐげんか)した曲として、個人的趣向を取り除いてもトップの座を譲らない永遠の名曲であり、詞・曲・アレンジどれをとっても見事というほかはありません。

なお、この曲はその後、以下のアーチストによってカバーされています。

堀ちえみ (2005年) - カヴァーアルバム「80's IDOL SONGS COLLECTIONに収録。
・千葉紗子 (橙条瑠妃) (2008年) - アニメ「ロザリオとバンパイア」キャラクターソングシングルに収録。
・二階堂和美 (2008年) - カヴァーアルバム「ニカセトラ」に収録。

「愛の園/布施明」 - 「霧の摩周湖」で知られる布施明の代表的なヒット曲のひとつ

今日は、布施 明の「愛の園」のご紹介です。

愛の園 布施明 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

布施 明(ふせ あきら、本名:布施晃、1947年12月18日 -)は、東京都三鷹市出身の歌手、俳優です。妻は、歌手の森川由加里。横浜市立大学学長を務めた布施勉は実兄。

布施 明は、1965年に「君に涙とほほえみを」でデビューをします。
伸びやかな声の持ち主として知られる歌手で、「恋」「愛の園」「霧の摩周湖」「愛は不死鳥」「積木の部屋」「恋のサバイバル」「カルチェラタンの雪」などのヒット曲があります。

1975年に、「シクラメンのかほり」がヒットし、第17回日本レコード大賞・第6回日本歌謡大賞・FNS歌謡祭での最優秀グランプリなど、多数の賞を受賞します。
アイドルとして熱狂的な人気を集めながらも、歌唱力の評価は非常に高く、クラシック番組「オーケストラがやってきた」にメインゲスト出演し、シューベルトの歌曲に挑戦したこともあります。

1980年には、ハリウッド女優、オリヴィア・ハッセーと結婚して話題を呼びます。
同年、アメリカに渡り、歌手活動やミュージカルなどでも活躍します。1983年に息子Maxが生まれ、1989年に離婚して日本に帰国しますが、当時の日本では考えられない額の慰謝料、養育費が話題となります。

また、俳優の仕事としては、1969年にはTBSテレビのドラマ「S・Hは恋のイニシャル」の主演をつとめるほか、映画「ラヂオの時間」、ミュージカル「オケピ!」、テレビドラマ「男の選びかた」「ウソコイ」「WATER BOYS」「仮面ライダー響鬼」などに出演します。

今日は、そんな布施 明の、1968年4月20日に発売された通算13枚目のシングルである、「愛の園」をどうぞ。
 
愛の園/布施明

この曲の歌詞はこちら

この曲は、布施明の代表的なヒット曲のひとつで、布施明はこの曲で1968年のNHK紅白歌合戦に2度目の出場を果たしました。

この曲の作曲者である平尾昌晃は、布施明の代表曲である『霧の摩周湖』のヒットを機に、作曲家として本格的に活動することを決意し、結核の完全治療を行なうために肋骨6本を切除する大手術を受けて長期入院中で、この曲はその入院中に制作したことを後年語っています。