Super源さんの音楽ブログ

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「若葉のささやき/天地真理」 - 48.1万枚を売り上げた1973年のヒット曲

今日は、天地 真理の「若葉のささやき」のご紹介です。

若葉のささやき 天地真理 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

天地 真理(あまち まり、1951年11月5日 -)は、埼玉県大宮市(現さいたま市)出身の女性歌手です。

天地 真理は、小学5年生の頃、母親に買ってもらった88鍵のアップライト・ピアノに親しみ、演奏の腕を上げていきます。
そして、1964年、国立音楽大学附属中学校に入学。
1967年、国立音楽大学附属高等学校に進学。当初はピアノ科に入るも、のち声楽科へ転科します。

1970年3月、国立音楽大学附属高等学校声楽科を卒業し、同年7月、TBS系視聴者参加番組「ヤング720」に出演。またこの年の12月、渡辺プロダクションへの所属が内定します。

1970年代前半、天真爛漫な笑顔で、国民的アイドルとなり、後に続くアイドル歌手の基本スタイルを確立します。
デビュー曲は、1971年に発売された「水色の恋」。
 

「水色の恋/天地 真理」 - 管理人一押し! 43.2万枚の売上げを記録した、天地真理のデビュー曲にしてヒット曲!この後も 11枚目のシングルまでヒット曲を連発!|Super源さんの音楽ブログ


今日は、天地 真理の「水色の恋」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。天地 真理(あまち まり、1951年11月5日 -)は、埼玉県大宮市(現さいたま市)出身の女性歌手です。


その後、「ちいさな恋」「ひとりじゃないの」「虹をわたって」「ふたりの日曜日」「若葉のささやき」「恋する夏の日」「空いっぱいの幸せ」「恋人たちの港」「恋と海とTシャツと」「想い出のセレナーデ」と、次々に大ヒット曲を放っていきます。

キャッチフレーズは「(あなたの心の隣にいるソニーの)白雪姫」。なお、デビュー当初には「可愛いアヒルちゃん」という愛称も用いられました。

さて、今日はそんな天地真理の、1973年3月21日に発売された通算6枚目のシングルである「若葉のささやき」をどうぞ。
 
若葉のささやき/天地真理

この曲の歌詞はこちら

天地真理は、この曲でオリコン1位を獲得。
新曲発表会で10万人以上のファンが集まったことが話題になります。

また、オリコン10位以内には、1973年(昭和48年)4月2日に4位で初登場。
その翌週、週間オリコン1位を5週連続で獲得し、11週にわたってオリコン10位以内にランクイン、100位以内に17週にわたってランクインします。

売上げ枚数は、オリコン集計で48.1万枚。1973年(昭和48年)年間オリコンでは、9位を記録するなど、1973年(昭和48年)の歌謡界を代表する作品のひとつとなります。

天地真理の近況

2016年10月1日のデビュー45周年に向けて、「天地真理クラシック音楽祭」、「天地真理スクリーンコンサート」「天地真理主演映画の上映会」などが、天地真理ファンクラブ事務局主催で頻繁に行なわれています。

また、ファンクラブ会員限定イベントとして、「真理ちゃんと京都でお茶会」が毎年春に開催されており、秋のデビュー記念日頃には「天地真理クラシック音楽祭」を開催し、天地真理のオリジナル作品をポップスの演奏家や、クラシックの編成等、様々な演奏形態で披露されています。

今年秋の歌手生活45周年では、天地真理を讃える「(仮称)天地真理デビュー45周年祝賀会」をファンクラブ会員限定で開催予定で、45周年記念作品「秋にあなたと」も完成し、「国民的歌手・天地真理」の再評価に向けたプロデュースが、より強く発信され、かつてのファンが徐々に戻りつつあり、応援の輪が広がって来ています。

また、2015年2月からは、facebookにて、天地真理からメッセージが一方的ながら発信されています。

「シルエット・ロマンス/大橋純子」 - 48万枚を売上げた、恋愛小説「シルエット・ロマンス」のイメージソング

今日は、大橋 純子の「シルエット・ロマンス」のご紹介です。

シルエット・ロマンス 大橋純子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

大橋 純子(おおはし じゅんこ、1950年4月26日 -)は、北海道夕張市出身の歌手です。

大橋 純子は、1974年に上京し、ヤマハ音楽振興会でアルバイトをしながら、その仲間とバンドで活動を開始します。
が、その日本人離れした歌唱力と音楽性が関係者の耳に止まり、レコード会社のオーディションを受けて合格。
そして、アルバム「フィーリングナウ」でソロデビューをします。

1976年に、2作目のアルバム「ペイパームーン」のタイトル曲が、最初のヒットとなります。

1977年に、「大橋純子&美乃家セントラル・ステイション」(ギタリストは後の一風堂の土屋昌巳)名義でバンド活動。
「シンプル・ラブ」がヒットします。

1978年に、「たそがれマイ・ラブ」がTBS系ドラマ主題歌「獅子のごとく」に採用されてヒット。
この曲は、大橋純子自身最大のヒットとなり、同年末に行なわれた「第20回日本レコード大賞」金賞(大賞ノミネート)を獲得。
その後、「サファリナイト」もヒットします。

そして、1979年には、大晦日に行なわれた「第30回NHK紅白歌合戦」へ「ビューティフル・ミー」で初出場を果たします。

1981年11月には、「シルエット・ロマンス」を発売。
この曲は、同年の「第24回日本レコード大賞」で、最優秀歌唱賞を受賞します。

今日はその、1981年11月5日に発売された大橋 純子の通算18枚目のシングルである「シルエット・ロマンス」をどうぞ。
 
大橋純子 / シルエット・ロマンス

この曲の歌詞はこちら

「シルエット・ロマンス」(Silhouette Romance)というのは、恋愛小説の新書のレーベルで、この曲はそのイメージソングとして制作された楽曲です。

この曲は、発売当初の売れ行きは低調でしたが、翌年に入ってからじわじわと売れ始め、5月24日付のオリコンで最高位の7位を記録し、その後もロングヒットを続けます。
累計売上は48万枚で、またTBS系の音楽番組「ザ・ベストテン」でも、1978年の「たそがれマイ・ラブ」以来4年ぶりにランクインを果たしました。

大橋純子はこの曲で、1982年に開催された第24回日本レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞。
北島三郎と田中邦衛が特別ゲストとして祝福に訪れ、両者に見守られる中、熱唱しました。

なお、「和歌山毒物カレー事件」で逮捕された林眞須美(はやし ますみ)は、2006年に著書「死刑判決は『シルエット・ロマンス』を聴きながら 林眞須美 家族との書簡集」を出版。

この書籍のタイトルは、林眞須美の4人の子供が、ラジオ番組に「ママの大好きな曲」として「シルエット・ロマンス」をリクエストし、拘置所でその放送を聴いた林が声を出して泣いたエピソードが由来となっています。

また、「シルエット・ロマンス」の作曲者である来生たかおは、2009年に行なわれた自身のコンサートで、この本のことを話題に取り上げた後、この曲を披露しました。

「ルビーの指環/寺尾 聰」 - 第23回日本レコード大賞・FNS歌謡祭'81グランプリ受賞曲

今日は、寺尾 聰の「ルビーの指環」のご紹介です。

ルビーの指環 寺尾 聰 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

寺尾 聰(てらお あきら、1947年5月18日 - )は、神奈川県横浜市保土ケ谷区出身のベーシスト・シンガーソングライター・俳優です。
所属事務所は、ホリプロダクション→石原プロモーション→寺尾音楽事務所(自らの個人事務所)。
父は俳優の宇野重吉。女優の范文雀は元妻。

寺尾 聰は、少年期に洋楽に憧れ、エレキギターを入手して独学で練習します。
その当時影響を受けたミュージシャンの1人に、リッキー・ネルソンがいます。

そして1964年に、奥島吉雄らとカレッジ・フォーク・グループ「ザ・サベージ」を結成。
ベースギターを担当します。

1966年には、「いつまでもいつまでも」でレコードデビュー。
この曲は大ヒットしますが、すぐにグループを脱退してしまいます。

1968年に、三保敬太郎を中心としてザ・ホワイト・キックスというグループ・サウンズに参加。
このグループは、シングルを1枚出して解散します。
そして同年に、石原裕次郎製作・主演の映画である「黒部の太陽」で俳優デビュー。

1981年には、ヨコハマタイヤのCM曲だった「SHADOW CITY」に続き「ルビーの指環」が大ヒット。
この曲は、は第23回日本レコード大賞・FNS歌謡祭'81グランプリを受賞。
さらに、TBS「ザ・ベストテン」では、「ルビーの指環」「シャドー・シティ」「出航 SASURAI」が3曲同時にベストテンにランクインし、「ルビーの指環」12週連続1位の栄誉を讃えた真紅の記念シートも設置されました。

これを含めて、全曲を自らが作曲したアルバム「Reflections」は、当時のアルバムセールスを更新。
空前の大ヒットとなりました。

今日はその、1981年2月5日に発売された、寺尾 聰の通算6枚目のシングルである「ルビーの指環」をどうぞ。
 
ルビーの指環/寺尾 聰

この曲の歌詞はこちら

この大ヒットした「ルビーの指環」は、石原プロの関係者に聴かせたところ、「こんなお経みたいな曲が売れるわけがない」と専務の小林正彦が難色を示しましたが、社長の石原裕次郎の「いいじゃないの」の一言でレコード化が決定しました。

また、この曲がヒットし、「ザ・ベストテン」などで連続1位を取っていた頃、寺尾聰が父である宇野重吉に、家に帰った際にその事を報告したところ、宇野重吉は新聞に見入ったまま、「ふーん…」と素っ気ない返事をしました。
しかしながら、宇野重吉はいつも、「今日は何位だった?」と息子のことを陰ながら気にしていたといいます。