Super源さんの音楽ブログ

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「忘れじのグローリア/ミシェル・ポルナレフ」 - 「シェリーに口づけ」「愛の休日」で知られるミシェル・ポルナレフの1973年のヒット曲!

今日は、ミッシェル・ポルナレフの「忘れじのグローリア(Gloria)」のご紹介です。

ミッシェル・ポルナレフ 忘れじのグローリア ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

ミッシェル・ポルナレフ(Michel Polnareff, 1944年7月3日 -)はフランス共和国ロット=エ=ガロンヌ県ネラック出身の男性ポップス・シンガーソングライター、作曲家です。
常に、派手なサングラスをかけているのが特徴で、フランスでは、国民的歌手として人気があります。
日本でも「シェリーに口づけ」、「愛の休日」などのヒット曲で知られています。
 

「シェリーに口づけ/ミシェル・ポルナレフ」 - 40万枚を売り上げたミシェル・ポルナレフのヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ


今日は、ミッシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ(フランス語:Tout,tout pour ma cherie)」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。ミッシェル・ポルナレフ(



「愛の休日/ミッシェル・ポルナレフ」 - 「シェリーに口づけ」を超えるミッシェル・ポルナレフ最大のヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ


今日は、ミッシェル・ポルナレフの「愛の休日(Holidays)」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。ミッシェル・ポルナレフ(Michel Polnareff, 1944年7月3


ミッシェル・ポルナレフは、幼少期からピアノやソルフェージュでアカデミックなクラシックの音楽教育を受け、コンセルバトワール(パリ音楽院)に通い、クラスで1番の成績を修めていましたが、その後エルヴィス・プレスリーの曲を聴いてロックンロールに目覚め、ギターを手に家出を決行。
ヨーロッパ放浪の旅の末、パリに戻ります。

そして、有名なレコード会社「Disc'AZ」およびラジオ局「Europe 1」のディレクターであるルシアン・モーリスに出会い、レコード・デビューに至ります。

1966年、4曲入りEP「ノンノン人形(La poupee qui fait non)」でレコードデビュー。
続いて発売されたEP版「愛の願い(Love me, please love me)」も大ヒットし、一躍スターダムに上り詰めます。
同年10月、日本でのレコード発売が決定し、テイチクよりシングル「ノンノン人形」が発売されます。

1971年8月、日本ではCBSソニーよりシングル「シェリーに口づけ(Tout, tout pour ma cherie)」と、同曲を追加収録したファースト・アルバム「愛と青のトルバドゥール/ミッシェル・ポルナレフ 1」が発売されます。
日本での人気はこの時に火がつき、「シェリーに口づけ」がラジオ・チャートでトップ入りし、40万枚を売り上げる大ヒット・シングルとなったことで、実質的にはこの時点がミッシェル・ポルナレフの日本でのデビューとされています。

今日は、そんなミッシェル・ポルナレフの多くのヒット曲の中から、1973年に発売された 「忘れじのグローリア」をどうぞ。
 
忘れじのグローリア(Gloria)/ミッシェル・ポルナレフ(Michel Polnareff)

この曲の歌詞はこちら

1960年代から1970年代初期のフランスでは、4曲入りEP盤でのレコード販売が主流だったため、ポルナレフの曲ではEP盤に収録されながらもアルバム未収録の曲が多数あります。
彼のフランスでのデビュー曲「ノンノン人形」もEP盤でした。

ミッシェル・ポルナレフの近況

・2013年5月7日、本人公認の写真集 "Le Polnabook" がフランスで発売されました。

・2014年1月、過去のテレビ出演映像、ビデオクリップ、インタビュー映像を集めた2枚組DVD "Polnareff Classics Vintage" が発売されます。同年の6月にドキュメンタリー映画 "Quand L'ecran S'allume" が公開され、同映画は9月にベルギーで、10月にはフランスでテレビ放送されました。

・2014年内に新作アルバムを発売する予定とアナウンスされましたが、結局、2014年には発売されませんでした。

・2015年4月、ポルナレフはフランスの金融会社 Cetelem を名誉棄損で告訴。2011年よりCetelemはテレビ放送用のCMのシリーズで、ポルナレフに似せた人物を無許可で登場させていました。
ポルナレフは100万ユーロの損害賠償を求めています。

・フランスの中部の街・モンリュソンにあるミュージアム "MuPop" において、6月21日から12月31日までの間、"PolnaEXPO" と題されたポルナレフ展が開催され、コスチューム、私物、手稿、レコードが展示されました。
6月20日にはポルナレフも現地を訪問しています。

ニッポン放送のラジオ番組「辛坊治郎ズーム そこまで言うか!」の中のコーナーで、タレントのSHELLYが登場するテーマ曲として、「シェリーに口づけ」が使用されていました。
同年12月には、翌年のツアーの日程が発表されました。

・2016年4月30日から、9年振りのツアーを開始。
バック・バンドにはブラッド・コール(音楽監督、キーボード)、ピーター・ソーン(ギター)、トニー・マカパイン(ギター)、レジー・マクブライド(ベース)、カート・ビスケラ(ドラム)らが参加しました。

「さよなら/オフコース」 - オリコンで2位まで上昇したオフコースのブレイク曲!

今日は、オフコース(OFF COURSE)の「さよなら」のご紹介です。

さよなら オフコース ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

オフコースは、小田和正、鈴木康博、地主道夫らが結成したフォーク・グループです。
1970年に「群衆の中で」でプロデビューをします。

メンバーは、小田和正(ボーカル、キーボード)、鈴木康博(ボーカル、ギター)、清水仁(ボーカル、ベース)、大間ジロー(ドラムス)、松尾一彦(ボーカル、ギター、ハーモニカ)。

オフコースの結成は、デビュー7年前の1964年(昭和39年)12月に遡(さかのぼ)ります。
この年、神奈川県横浜市の聖光学院高校に在学中の生徒らが、高校2年のクリスマス・パーティーでバンドの生演奏をしました。
これがきっかけとなり、翌年の文化祭(聖光祭)のステージに立つことを目指し、メンバーの中から小田和正、鈴木康博、地主道夫、須藤尊史の4人でグループが結成され、「オフコース」が誕生しました。
オフコースは、大学時代、自主コンサートを毎年開催するほか、同大学の友人から頼まれて演奏したり、他の大学の文化祭に呼ばれたりと、活発な演奏活動を続けました。

さて、オフコースは、「でももう花はいらない」に見られるように、当初は生ギターを中心とした、フォークソング色の濃い曲を歌っていましたが、結成7年目にあたる1976年に、ギターの松尾一彦、ベースの清水仁、ドラムスの大間ジローが加わり、キーボード、シンセサイザーを含めたバンドサウンドに変わります。
 

「でももう花はいらない/オフコース」 - 管理人一押し! 素朴な伴奏と美しいメロディが心に残る名曲!|Super源さんの音楽ブログ


今日は、1969年から1989年まで活動した日本の音楽グループオフコース(OFF COURSE)の、「でももう花はいらない」のご紹介です。 写真はこちらからお借りしました。当時、一世を風靡し


そして、結成10年目に発売した「さよなら」の大ヒットで、オフコースは多大なる人気を獲得。
それ以降も、「Yes-No」「時に愛は」「君が、嘘を、ついた」等の数多くのヒット曲を世に送り出し、ついには時代を代表するビッグ・グループとなります。

今日は、そんな彼らの多くのヒット曲の中から、1979年12月1日に発売された通算17枚目のシングルである、その「さよなら」をどうぞ。
 
さよなら/オフコース

この曲の歌詞はこちら

「さよなら」は、発売以後、オリコンで2位まで上昇。
翌週も2位を記録し、これが最高位となります。
この曲は、オリジナル・アルバムには未収録曲で、後にベスト・アルバム「SELECTION 1978-81」にビル・シュネーによるミックスで収録されたほか、ライヴ・ヴァージョンがライヴ・アルバム「LIVE」に収録されています。

「さよなら」制作に秘められた小田和正の想いと後悔

この曲について、小田和正は、「これまで以上に売れることを強く意識して書いた」と語っています。
この想いが功を奏し、このシングルの発売後から、オフコースはニューミュージックの代表的グループとして認知されることになります。

しかしながら、小田和正は、原詞では“僕は思わず 君を抱きしめそうになる”としていたところを、間違えて、“僕は思わず 君を抱きしめたくなる”と間違えて録音してしまったことを悔やんだといいます。

「SEPTEMBER/竹内まりや」 - 10.3万枚の売上げを記録! 第21回日本レコード大賞新人賞獲得曲!

今日は、竹内まりやの「SEPTEMBER」のご紹介です。

セプテンバー 竹内まりや ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

竹内 まりや(たけうち まりや、本名:山下まりや(旧姓:竹内) 1955年3月20日 -)は、島根県簸川郡大社町(現出雲市)出身のシンガーソングライター、ミュージシャンです。
自称「シンガーソング専業主婦」。夫は、山下達郎。

竹内 まりやは、1978年11月25日にシングル「戻っておいで・私の時間」、アルバム「BEGINNING(ビギニング)」でデビューをします。
当時、アイドル不在の時期と重なったため、当初はそのルックスもあいまって、アイドル歌手のような役割を担います。

1979年に発売したシングル「SEPTEMBER(セプテンバー)」は、第21回日本レコード大賞新人賞を獲得。
1980年に発売したシングル「不思議なピーチパイ」は、資生堂化粧品CMソングとなり、ヒットします。

その後は、「もう一度/本気でオンリーユー(Let's Get Married)(1984年4月10日)」「マージービートで唄わせて(1984年8月25日)」「元気を出して(1988年11月28日)」「シングル・アゲイン(1989年9月12日)」「告白(1990年9月18日)」」と、ヒットを飛ばしていきます。

当初は、安井かずみ・加藤和彦夫妻や松本隆などが提供する曲を歌っていましたが、これに飽き足らず、自らも作詞・作曲を手がけるようになります。

今日は、そんな竹内まりやの、1979年8月21日に発売された通算3枚目のシングルである、「SEPTEMBER」をどうぞ。

SEPTEMBER(セプテンバー)/竹内まりや

この曲は、竹内まりやのつくった曲で、オリコンチャートでは10.3万枚の売上げを記録するスマッシュヒットとなり、1979年12月末の「第21回日本レコード大賞」では新人賞を獲得しました(ただし、最優秀新人賞受賞者は桑江知子の「私のハートはストップモーション」でした)。

ちなみに、B面に収録されていた「涙のワンサイデッド・ラヴ」は、作詞・作曲が竹内まりや本人で、編曲は後に竹内まりやの夫となる山下達郎が担当しました。

そうそう、山下達郎といえば、なんと、俳句の季語になっているのですが、ご存知でしたか?(^^)
 

「山下達郎」「ユーミン」「サザン」は、俳句の季語になっている?


「山下達郎」は夏と冬、「ユーミン」は冬、「サザン」は夏の季語として使えることをご存じですか?えっ! ウソ?と思えるような話ですが、これは本当です。句会「東京ヘップバーン」が「山下達郎」と「ユーミン」を季語に提案俳句の季語については、認定する特別の機関があるわけではなく、誰もが同じ季節を思い浮かべることができる言葉であれば問題ありません。「山下達郎」「ユーミン」「サザン」を季語とすることを提案したの...


「ええっ! そうニャンか?」
ええっ、そうニャンか? 驚くネコ
写真は、こちらからお借りしました。

また、基本的に竹内まりやがライブをやらない理由は、「子育てや家庭を優先するため」と語っており、夫・山下から制限を受けたり、遠慮・気遣いではない、と明言しています。

竹内まりやは、以前に受けたインタビューで、

「達郎が『ライブは、やるな』と言っているとか、『達郎に遠慮している』とか言われているけど、私がライブをやりたくなったら、達郎がなんと言おうと、私はやるって! 本当にやりたくないから、今はやらないだけ」

と答えています。

この件に関して、2013年のインタビューでは、ステージで歌うのはわりと苦手であり、スタジオで緻密に歌作りをするほうが好きだと述べています。