Super源さんの音楽ブログ

名曲紹介、作詞・作曲、音楽用語の楽しい覚え方、その他音楽にまつわることを書いていくブログです。可愛い音楽ブログパーツも配布しています。

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「ありがとう/いきものがかり」 - NHK連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』の主題歌 バンド名の由来は?

今日は、いきものがかりの「ありがとう」のご紹介です。

ありがとう いきものがかり ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

いきものがかりは、2人組の音楽グループです。
1999年(平成11年)2月に、小学校時代からの同級生である水野良樹と山下穂尊が、男性2人組アマチュアバンドを結成。
同年の11月にボーカルの吉岡聖恵が加わって、男女3人組となりました。
その後、山下穂尊が脱退し、現在は水野良樹と吉岡聖恵の2人組となっています。

2000年9月から2003年4月までは、メンバーの大学受験・進学に伴い活動を休止します。
そして、活動再開後の2003年8月25日に、アルバム「誠に僭越ながらファーストアルバムを拵えました…」でインディーズ・デビューを果たし、3年後の2006年3月15日に、シングル「SAKURA」でメジャー・デビューを果たします。

いきものがかりは、アニメソング、CMソング、テレビドラマ、また映画の主題歌などを数多く手掛けており、メジャーデビューから2012年までに発売した全てのシングルA面曲にタイアップがついています。

今日は、そんな彼らの多くの楽曲の中から、2010年5月5日に発売された通算18枚目のシングルである 「ありがとう」をどうぞ。
 
ありがとう/いきものがかり

いい曲ですねー。(^O^)
「ありがとう」は、NHK朝の連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』の主題歌です。
『ゲゲゲの女房』は、マンガ『ゲゲゲの鬼太郎』の作者である水木しげるを支えた妻・武良布枝の自伝が原作の物語です。

この曲は、いきものがかりがNHKからの曲制作の依頼を受けて書き下ろされたもので、「お互いを“思い合うこと”の積み重ねが、とても大きなことに繋がるのでは」という、シンプルながらも大切なことを歌った曲です。
温かく、優しく、そして力強い曲で、いきものがかりらしい仕上がりになっています。

バンド名「いきものがかり」の由来は?

「いきものがかり」というバンド名は、結成した際、水野良樹と山下穂尊の唯一の共通点が小学校1年生のときに金魚に餌をあげる「生き物係」だったことに由来しています。

もともと、「いきものがかり」というのは仮称でした。
吉岡聖恵が加入した際、これを契機に、バンド名の変更が検討されたのですが、吉岡聖恵がこの名前を気に入ったことから、変更されることなく現在に至っています。

「アイム・ア・マリオネット( I'm A Marionette)/アバ」 - 「恋のウォータールー」の大ヒットで知られるアバの1978年のヒット曲!

今日は、「ABBA」の「アイム・ア・マリオネット(I'M A MARIONETTE)」のご紹介です。

アイム・ア・マリオネット アバ ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

ABBA(アバ)は、世界的に有名なスウェーデン出身のミュージシャン、男女4人グループです。
ABBAは、1970年代の半ばから1980年代の初頭にかけて活躍し、「ポップ・ミュージックの完成者」と評されています。

メンバーは、アグネッタ・フォルツコグ(Agnetha Faltskog)、ビョルン・ウルヴァース(Bjorn Ulvaeus)、ベニー・アンダーソン(Benny Andersson)、そしてアンニ=フリッド・リングスタッド(Anni-Frid Lyngstad)の4人です。

ABBAは、ユーロビジョン・ソング・コンテスト1974優勝をきっかけに、「恋のウォータールー(Waterloo)」の大ヒットでヨーロッパ中に名前が知られることになります。
そして、2年後の1976年には「ダンシング・クイーン」が世界的にヒット。その後は「ザッツ・ミー」「テイク・ア・チャンス」「きらめきの序曲」「チキチータ」「ザ・ウィナー」など、世界的なヒット曲を連発していきます。

90年代にはマドンナ、最近ではレディー・ガガなど、数多くのミュージシャンが、ABBAの影響を受けたと語っています。
とりわけ、ヨーロッパやオーストラリアでの人気は凄まじいものがあり、CDの総売り上げは3億7,000万枚を超え、世界で最も売れたアーティストにも名を連ねています。

今日はそれらヒット曲の中から、1978年に発売された「テイク・ア・チャンス(Take A Chance On Me)」のB面に収録されていた 「アイム・ア・マリオネット」をどうぞ。
 
アイム・ア・マリオネット( I'm A Marionette)/アバ(ABBA)

この曲の歌詞はこちら

1978年といえば、この頃がアバの絶頂期で、この年のアバの年間総収入が1600万ドル(約30億円となり、一時期は同じスウェーデン発祥の大手自動車メーカーのボルボ・グループに匹敵、あるいはそれを超える外貨を稼いだことで、当時はABBAそのものが「産業」であるとも言われました。

またABBAは、2005年にユーロビジョン・ソング・コンテストの創立50周年を迎えると、その大ヒット曲「恋のウォータールー」が、コンテストの歴史の中で最高の歌に選ばれています。

ちなみに、アバのグループ名の由来ですが、スウェーデンには古くからAbbaという名前の魚の缶詰メーカーがあり、この会社から使用許可を得ているとのことです。

また、かつてロゴで反転している「B」は誰のことかと聞かれた時、ビョルンが「たぶん僕の事じゃないかな」と答え、そしてその理由に関しては、近くにいたスタッフが「彼はいつも後ろ向きなのさ(He's always backwards.)」と答えたということです。

「さよならをするために/ビリー・バンバン」 - ドラマ「3丁目4番地」主題歌 約80万枚の大ヒット!

今日は、ビリー・バンバンの「さよならをするために」のご紹介です。

ビリー・バンバン さよならをするために ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

ビリー・バンバン(Billy BanBan)は、東京都国立市出身の菅原孝、菅原進の兄弟二人によるフォークデュオです。

ビリー・バンバンは、1966年に当時青山学院大学の学生であった菅原進によって、友人達四人組のバンドとして結成されました。
翌年の1967年にメンバーチェンジが行なわれ、菅原孝とパーカッションの中野光雄(後のせんだみつお)の三人組のバンドとなります。


ゆうちゃん



えっ? 「ビリーバンバン」にせんだみつおがいたの?


しんちゃん



うん
これ、けっこう有名な話だよ
この頃は、「カレッジ・フォーク」のブームがあり、アマチュア出身だった森山良子やマイク眞木、フォー・セインツなどが世に出ていった時代でもあります。
「ビリーバンバン」もご多分に漏(も)れず、伴奏がフォーク・ギターとウッド・ベースという「カレッジ・フォークスタイル」となっており、これはブームが過ぎ去った今もずっと続いています。

「ビリーバンバン」はその後、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、菅原孝と菅原進による兄弟デュオとして、「白いブランコ」でメジャーデビューをすることとなり、この曲は売り上げ20万枚を超えるヒットとなります。

その後、人気は下火となってしまいますが、1972年、テレビドラマ「3丁目4番地」の主題歌である「さよならをするために」が約80万枚の大ヒットとなり、この曲でその年の「第23回NHK紅白歌合戦」に出場します。

今日はその「さよならをするために」をどうぞ。
 
さよならをするために/ビリー・バンバン

哀愁のある素敵な曲です。(^J^)
イントロから、もうこの曲の世界にグイグイ引き込まれます。
アレンジがまたいいですね。

「さよならをするために」は、ドラマ『3丁目4番地』の主題歌として作られた

この曲は、浅丘ルリ子や石坂浩二、原田芳雄らが出演した、日本テレビのテレビドラマ『3丁目4番地』の主題歌として、石坂浩二が作詞、坂田晃一が作曲をしたものです。

ドラマ『3丁目4番地
写真はこちらからお借りしました。

このドラマは、その後のトレンディ・ドラマにも通じる、豪華(ごうか)キャストによる人気番組でした。

「3丁目4番地」キャスト

木下かすみ:浅丘ルリ子
マツの長女。ラジオ局の人気DJ。『かすみナイト』という番組のパーソナリティを務めている。
木下マツ:森光子(特別出演) - 『木下館』の主人。
木下徳次:嵐寛寿郎 - マツの父。
石上平吉:石坂浩二 - かすみと同僚のアナウンサー。
陽子:田村奈巳 - マツの次女で、健の妻。
木下雪子:岡崎友紀 - マツの三女。
健:岡田眞澄 - 映画会社「東日映画」の宣伝マン。
六助:原田芳雄
令子:大原麗子
金田俊吉:藤村俊二
亜子:水森亜土
高際:寺尾聰 - 木下館の下宿人
小川平太:黒沢久雄 - 木下館の下宿人
南公平:大滝秀治 - 平吉の姉の亭主(第12話から)
ナレーター:六代目三遊亭圓生

この曲の作詞は、ドラマに出演していた石坂浩二で、作曲は西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」やチェリッシュの「あの空へ帰ろう」、杉田かおるの「鳥の詩」などを手掛けた坂田晃一が担当。
坂田晃一は他にも、ダ・カーポの「突然の微笑がやフォー・クローバースの「冬物語」などを作曲しており、フォーク系に強いソングライターでした。

曲は大ヒットしたものの、……

当時人気が今一振るわなかったビリーバンバンにとって、この曲は「白いブランコ」以来の大ヒット曲となりました。
しかしながら、当時のフォーク歌手には、他人の作品を歌うのは一種の恥であるという風潮があり、ビリーバンバンのメンバーである菅原進は、当初、この曲のレコーディングをすっぽかしたというエピソードがあります(のちに進は、本当はいい曲だったと語っています)。

また、ビリー・バンバンは、この曲で1972年の第23回NHK紅白歌合戦に初出場をしています。