Super源さんの音楽ブログ

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「落葉のコンチェルト/アルバート・ハモンド」 - 『カリフォルニアの青い空』と並ぶアルバート・ハモンドの代表曲!

今日は、アルバート・ハモンドの「落葉のコンチェルト」のご紹介です。

落葉のコンチェルト アルバート・ハモンド ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

アルバート・ハモンドOBE(Albert Hammond、1944年5月18日- )は、イギリス・ロンドン出身のシンガーソングライターです。息子はザ・ストロークスのアルバート・ハモンドJr.。

アルバート・ハモンドは、1969年、イギリスのボーカルグループ、The Family Doggに参加し、「A Way of Life」がUKでトップ10ヒットを記録します。

1970年代に入って、アメリカ移住後は、「カリフォルニアの青い空(It Never Rains In Southern California)」が大ヒット。シングルは、ビルボード誌で、1972年12月16日に週間ランキング最高位の第5位を獲得します。

その後、「フリー・エレクトリック・バンド」や「落ち葉のコンチェルト(For the Peace of All Mankind)」などが日本でヒットし、また作曲者としては、ホリーズの「安らぎの世界」やレオ・セイヤーの「ウェン・アイ・ニード・ユー」、カーペンターズの「青春の輝き」などのヒット曲を手がけています。

今日はその、「落葉のコンチェルト」をどうぞ。
 
落葉のコンチェルト(For the Peace of All Mankind)/アルバート・ハモンド(Albert Hammond)

この曲の歌詞はこちら

この曲は、1973年に発売されたアルバム・『The Free Electric Band(ザ・フリー・エレクトリック・バンド)』に収録されていた曲です。
日本でのみシングル盤が発売され、ロングヒットを記録しました。
そしてこの曲と、『カリフォルニアの青い空』の2曲は、アルバート・ハモンドの代表曲となりました。
 

「カリフォルニアの青い空/アルバート・ハモンド」 - 20万枚を売り上げた代表曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、アルバート・ハモンドの「カリフォルニアの青い空」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。アルバート・ハモンド(Albert Hammond、1944年5月18日-)は、イギ


しかし、「落葉のコンチェルト」は久しぶりに聴いたけど、やっぱりいい曲だなあ。(* ̄。 ̄*)ウットリ!
アレッ?(?_?)これ、何かそっくりな曲があるぞ?
ええと…、
(@_@)ウーン
(@_@)ウーン
(@_@)ウーン

分かった!(・_・)ノ ☆パチン!
ドリカムの「LOVE LOVE LOVE」だ!おぉ~っ!。w(゚゜)w

このメロディーをそのまんま使うとは、ドリカムなかなかやりますな。(^^;

「落葉のコンチェルト」誕生のエピソード

1972年に、アルバート・ハモンドは。ムーディー・ブルースのアメリカツアーのオープニングでアクトを務めたことがあります。
そして、その時に出会った女優テリー・ムーア と恋に落ちました。
「落葉のコンチェルト」は、その時の恋愛を描いたものです。

原題と邦題が違い過ぎる理由は?

この曲の原題は、「For The Peace of All Mankind(すべての人類の平和のために)」。
一方、邦題は「落ち葉のコンチェルト」。
あまりに違いすぎます。
一体全体、何故このようなことになったのでしょうか?

この曲の邦題の名付け親は、CBSソニーのディレクター高橋裕二です。
前述したように、この曲はアルバムからのシングルカット曲なのですが、シングルとして発売する際、タイトルが大げさでシングルには向かないと判断した高橋は、発売予定日の季節に合わせてこのように改題したのです。

この邦題について、アルバート・ハモンドは2016年のインタビューで「情景が浮かぶようで感動する」と好意的な見解を示しました。

ちなみに、アルバート・ハモンドは、2000年に大英帝国勲章を授与されました。

「愛の休日/ミッシェル・ポルナレフ」 - 「シェリーに口づけ」を超えるミッシェル・ポルナレフ最大のヒット曲!

今日は、ミッシェル・ポルナレフの「愛の休日(Holidays)」のご紹介です。

愛の休日 ミッシェル・ポルナレフ ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

ミッシェル・ポルナレフ(Michel Polnareff, 1944年7月3日 -)はフランス共和国ロット=エ=ガロンヌ県ネラック出身の男性ポップス・シンガーソングライター、作曲家です。
常に、派手なサングラスをかけているのが特徴で、フランスでは、国民的歌手として人気があります。
日本でも「シェリーに口づけ」、「愛の休日」などのヒット曲で知られています。

ミッシェル・ポルナレフは、幼少期からピアノやソルフェージュでアカデミックなクラシックの音楽教育を受け、コンセルバトワール(パリ音楽院)に通い、クラスで1番の成績を修めていましたが、その後エルヴィス・プレスリーの曲を聴いてロックンロールに目覚め、ギターを手に家出を決行。
ヨーロッパ放浪の旅の末、パリに戻ります。


ゆうちゃん



ミッシェル・ポルナレフは、プレスリーに会って人生が変わったんだね


しんちゃん



まさにその通りだね
だけど、家出をしちゃうなんてスゴいね
そして、有名なレコード会社「Disc'AZ」およびラジオ局「Europe 1」のディレクターであるルシアン・モーリスに出会い、レコード・デビューに至ります。

1966年、4曲入りEP「ノンノン人形(La poupee qui fait non)」でレコードデビュー。
続いて発売されたEP版「愛の願い(Love me, please love me)」も大ヒットし、一躍スターダムに上り詰めます。
同年10月、日本でのレコード発売が決定し、テイチクよりシングル「ノンノン人形」が発売されます。

1971年8月、日本ではCBSソニーよりシングル「シェリーに口づけ(Tout, tout pour ma cherie)(c/w 初めての愛)」と、同曲を追加収録したファースト・アルバム「愛と青春のトルバドゥール/ミッシェル・ポルナレフ 1」が発売されます。
日本での人気はこの時に火がつき、「シェリーに口づけ」がラジオ・チャートでトップ入りし、40万枚を売り上げる大ヒット・シングルとなったことで、実質的にはこの時点がミッシェル・ポルナレフの日本でのデビューとされています。

今日は、そんなミッシェル・ポルナレフの多くのヒット曲の中から、1972年に発売された 「愛の休日」をどうぞ。
 
ミッシェル・ポルナレフ(Michel Polnareff)/愛の休日(Holidays)

この曲は、「シェリーに口づけ」を超える、彼の最大のヒット曲となりました。
そして、1972年11月には初の来日公演が実現。
このときのバック・バンドは、フランスのロック・バンド、ディナスティ・クリジス(Dynastie Crisis)で、東京公演を録音したライヴ盤「ポルナレフ・ア・トーキョー」が翌年の1973年に日本でのみ発売されました。

また、この日本での大人気に乗じて、翌年に予定されている次作アルバムについて日本先行発売をする計画が発表されました。

ミッシェル・ポルナレフの素顔は?

ミッシェル・ポルナレフは、その特徴的なサングラスから、素顔を想像することは非常に難しいですが、実はこんな繊細な顔をしています。


※写真は、こちらからお借りしました。

この顔からこのような素敵な曲が生まれるというのは、何か納得という気がします。
ちなみに、当時ミッシェル・ポルナレフが人気を博した理由には、この金髪の巻き毛と大きなサングラスという斬新(ざんしん)なルックスも大きかったものと思われます。

しかしながら、この素顔を隠すサングラスに関しては、ファッションだけが理由ではありませんでした。
当時、ミッシェル・ポルナレフは白内障を患(わずら)っており、失明一歩手前の状態で、手術を受けたことが分かっています。

「チャンスは一度/西城秀樹」 - オリコン20位を記録した通算3枚目のヒット曲

今日は、西城 秀樹の「チャンスは一度」のご紹介です。

チャンスは一度 西城秀樹 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

西城 秀樹(さいじょう ひでき、本名:木本 龍雄(きもと たつお)1955年4月13日 -)は、広島県広島市出身の歌手、俳優です。

西城 秀樹は、1972年3月25日に、シングル「恋する季節」で「ワイルドな17歳」のキャッチフレーズと共に歌手デビューをします。
片仮名の「ヒデキ」の愛称で人気となった西城 秀樹は、「チャンスは一度」以降、当時マイクを持って直立不動の姿勢で歌う歌い方が主流であった歌謡界に、アクション旋風を巻き起こします。

そして、1973年に「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入り。
一躍トップアイドルの仲間入りを果たし、郷ひろみ、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれます。

その後、「ちぎれた愛」、「愛の十字架」が続けてオリコン週間チャートの第1位に輝き、「第15回日本レコード大賞」では初の歌唱賞を受賞します。

今日は、1972年11月25日に発売された、通算3枚目のシングルである「チャンスは一度」をどうぞ。

チャンスは一度/西城秀樹

この曲は、前作「恋の約束」に続き、たかたかしと鈴木邦彦のコンビによる第2作で、オリコンチャートにおいて20位を記録しています。
編曲では馬飼野康二が初めて加わった作品でもあります。
またこの作品から、一の宮はじめによる「振り付け」が付き、当時は「アクション」と呼ばれました。

また、西城 秀樹は1972年12月4日に「夜のヒットスタジオ」に初出演しますが、以来、1988年11月23日放送(曲は「33才」)まで、約16年という長期間、190回にわたって出演しています。

これは、郷ひろみの175回、野口五郎の123回を凌ぎ、新御三家の中では最多で、五木ひろしの222回、森進一の204回に続き、歴代3位の出演回数となっています。


なお、西城秀樹のこの曲のヒットによって日本中に巻き起こったアクション・ブームについては、以下の通りです。

・1972年、3枚目のシングル「チャンスは一度」で初めて振付けがつく。
・同年、初のベストテン入りを果たした「情熱の嵐」では、さらに振付けがエスカレート。が、西城秀樹のは振付けと言うには激しい動きだったため、「アクション」と呼ばれた 。

・1974年、「薔薇の鎖」でスタンドマイクを使ったアクションを行ない、評判を呼ぶ。
・ロッド・スチュワートが、コンサートでアルミのマイクスタンドを使っていることに気づき、すぐに10本を特注。この軽量スタンドマイクを使うことにより、西城秀樹型の「スタンドマイク・アクション」が誕生。
・以後、コンサートでの定番となる。

「薔薇の鎖/西城秀樹」 - 当時としては斬新なマイクスタンド・アクション披露曲|Super源さんの音楽ブログ

「薔薇の鎖/西城秀樹」 - 当時としては斬新なマイクスタンド・アクション披露曲|Super源さんの音楽ブログ

以前、西城秀樹の「傷だらけのローラ」をご紹介しましたが、今日はもう一曲ご紹介したいと思います。曲名は、「薔薇の鎖(ばらのくさり)」です。 写真は、こちらからお借りしました。この曲は、19

・その後間もなく、この軽量スタンドはブームとなり、翌年にはメーカーが生産するようになる。

ちなみに、西城秀樹は、2003年に脳梗塞を発症し、歌手生命の危機に陥りましたが、その際、甲状腺癌を克服して復帰したロッド・スチュワートを励みにして、無事回復したことを語っています。