Super源さんの音楽ブログ

名曲紹介、作詞・作曲、音楽用語の楽しい覚え方、その他音楽にまつわることを書いていくブログです。可愛い音楽ブログパーツも配布しています。

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「わたしの彼は左きき/麻丘めぐみ」 - 総計50万枚以上を売上げた麻丘めぐみの代表曲 麻丘めぐみと西城秀樹の間には子供がいた?

今日は、麻丘 めぐみの「わたしの彼は左きき」のご紹介です。

わたしの彼は左きき 麻丘めぐみ ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

麻丘 めぐみ(あさおか めぐみ、本名:藤井 佳代子 1955年10月11日 -)は、大分県生まれ、大阪育ちの女優、歌手、演出家です。

姫カットが
写真は、こちらからお借りしました。

1970年代を代表するアイドルの一人で、当時、そのチャーミングな容貌と、「牛若丸カット」と呼ばれた独特のカットの黒髪と、そして優しい歌声で一時代を築きます。
南沙織や天地真理・小柳ルミ子ら新三人娘とともに、「元祖女性アイドル」 と語られる機会もあります。

麻丘 めぐみのデビュー曲は、1972年に発売された「芽ばえ」です。
この曲は、40万枚を超えるヒットとなり、第14回日本レコード大賞で最優秀新人賞を受賞します。
 

「芽ばえ/麻丘めぐみ」- 40万枚を超えるヒットとなったデビュー曲 デビュー当時のエピソード&現在の顔も紹介|Super源さんの音楽ブログ


今日は、麻丘 めぐみの「芽ばえ」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。麻丘 めぐみ(あさおか めぐみ、本名:藤井 佳代子 1955年10月11日 -)は、大分県生まれ、大阪育ちの


翌年の1973年には、「わたしの彼は左きき」が大ヒット。
この曲は、第15回日本レコード大賞で大衆賞を受賞し、同年の「第24回NHK紅白歌合戦」にもこの曲で出場することとなり、麻丘めぐみの代表曲となります。

今日はその、1973年7月5日に発売された麻丘 めぐみの通算5枚目のシングルであり、代表曲もである「わたしの彼は左きき」をどうぞ。( ^-^)/
 
わたしの彼は左きき/麻丘めぐみ

この曲の歌詞はこちら

この曲の売上げ枚数は、総計50万枚以上を記録し、オリコンチャートで唯一の1位獲得曲(8月27日 - 9月3日付)で、麻丘めぐみの代表曲として広く知られています。
また、前述したように、麻丘めぐみはこの曲で『第24回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たしています。

ちなみに、この曲のヒット時には、この曲の歌唱中、歌詞の「左きき」の箇所で、通常左手で握っているマイクを右手に持ちかえて、左の手のひらと甲をくるりくるりと回転させる振りつけも話題になりました。

また、歌詞の内容としては、左利きの人間を差別したり忌み嫌ったりするようなものではないものの、この曲が発売された当時、世間では左利きに対する差別意識が若干残っていたこともあり、麻丘めぐみ自身は、「このタイトルでいいのだろうか?」という戸惑いがあったということです。

麻丘めぐみと西城秀樹の間には子供がいた?

麻丘めぐみと西城秀樹の間に、子供がいたという噂が存在します。
が、これに関しては噂や憶測が多く存在する状状況で、確かな情報はありません。

麻丘めぐみと西城秀樹は、明治大学付属中野高等学校の同級生で、交際していたことが知られています。
2人の関係は、多忙なスケジュールの中で育まれました。

1974年に、麻丘めぐみが西城秀樹の子供を妊娠したというマスコミの報道があり、妊娠中絶の噂も流れました。
しかし、これらについて、公式に確認された情報は存在しません。
麻丘めぐみや西城秀樹は、公式な発表やインタビューにおいて、妊娠や子供の存在について一度も言及しておらず、噂の域を出ないものとなっています。
結局2人の恋は破局し、麻丘めぐみは結婚のために芸能界を引退しました。

また、麻丘めぐみは1977年にフジテレビのディレクターと結婚しましたが、1983年に離婚しています。この離婚の理由には、夫の浮気が関与しているといわれています。

このように、麻丘めぐみと西城秀樹の間に子供がいたかどうかについては、噂や憶測が多く存在する状況で、確かな情報はありません。

「悲しみがとまらない/杏里」 - 名曲のご紹介

今日は、杏里の「悲しみがとまらない」のご紹介です。

悲しみがとまらない 杏里 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

杏里(あんり、本名:川嶋 栄子(かわしま えいこ) 1961年8月31日 -)は、神奈川県大和市出身の歌手、シンガーソングライターです。現在アメリカ在住。

杏里は、1978年、高校2年生の時に「オリビアを聴きながら」でデビューをします。
この曲は小ヒットながら、長期間にわたって売れ続け、後にスタンダードナンバーとなることになります。

杏里は、幼少時からピアノを習い、大好きな松任谷由実などの楽曲の弾き語りが趣味だったということで、歌手デビューをする前は、ファッションモデルをしていました。

最初の4年ほどはヒットに恵まれませんでしたが、1983年6月に発売された「Bi・Ki・Ni」が自己最高のオリコンアルバムチャート27位を記録。
同年8月には、日本テレビから依頼を受けてアニメ「キャッツ・アイ」の主題歌「CAT'S EYE」を歌ってシングルを発売。この曲が杏里自身予期せぬ大ヒットとなり、自身初のオリコン1位に輝き、杏里の代表曲の一つとなります。

また、その直後に発売した「悲しみがとまらない」も連続大ヒット。2曲そろってベスト10入りを果たします。

きょうはその、1983年11月5日に発売された通算14枚目のシングルとなる、「悲しみがとまらない」をどうぞ。


悲しみがとまらない/杏里

ちなみに、「杏里」という芸名は、当時の所属事務所、ボンド企画の社長で高杉敬二の娘である河村和奈へ出生時に名づける名前だったとのことです。

「むらさき式部/五大路子」 - NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」の主役で女優デビューした五大路子の1978年のヒット曲

今日は、五大 路子の「むらさき式部」のご紹介です。

五大 路子 むらさき式部 ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

五大 路子(ごだい みちこ、本名:大和田 美智子(おおわだ みちこ) 出生名:岩岡 美智子(いわおか みちこ) 1952年9月22日 -)は、神奈川県横浜市港北区の女優です。
夫は俳優の大和田伸也。弟は新横浜ラーメン博物館館長の岩岡洋志。特技は、日舞(西川流名取)、居合(三段)、三味線。

五大 路子は、1977年に、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」にて、番組の途中でヒロインの高瀬春奈が病気で降板したため、代役としてテレビドラマでの主役デビューを果たします。

1996年、一人芝居 「横浜ローザ」で横浜文化奨励賞を受賞します。
2008年には、横浜夢座の功績を讃え第29回松尾芸能賞演劇優秀賞を受賞。
2006年に公開された「デスノート」が、キャリア初の映画出演となっています。

今日は、五大 路子の1978年(昭和53年)のヒット曲である、作詞・芦原みづほ、作曲・小林亜星による「むらさき式部」をどうぞ。
 
むらさき式部/五大路子

音楽 リンク
※「むらさき式部」のヒットした年の特定に当たっては、以下のサイトを参考にしました。

歌謡曲シングル盤ヒストリー(1978年)