Super源さんの音楽ブログ

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「あずさ2号/狩人」 - 累計80万枚を売上げた狩人のデビュー曲

今日は、狩人の「あずさ2号」のご紹介です。

あずさ2号 狩人 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

狩人(かりゅうど)は、愛知県岡崎市出身の兄・加藤久仁彦(かとうくにひこ)と弟・加藤高道(かとうたかみち)2人による兄弟デュオです。

狩人は、1977年3月25日に、「あずさ2号」でデビューをします。
この曲は、いきなり大ヒットとなり、また、同年暮れに行なわれた第19回日本レコード大賞など、数々の新人賞を受賞し、人気となります。

狩人は、「あずさ2号」でサンレモ音楽祭などにも出場。
その後も「コスモス街道」「若き旅人」「アメリカ橋」などのヒットにより、スター歌手の地位を築きます。

毎年年末に行なわれるNHKの紅白歌合戦には、1977年・第28回(あずさ2号)、1978年・第29回(国道ささめ雪)に2年連続で通算2回の出場を果たします。

それ以降は大きなヒットには恵まれませんでしたが、ドラマやCMに楽曲が採用され、特に1994年歌謡バラエティー番組「THE夜もヒッパレ」への出演で再ブレイク。
翌年、「あずさ2号(ニュー・ヴァージョン)」を発売し、その後二人は歌手以外に自らの才能の範囲を広げようという意図から、それぞれ歌手・舞台俳優としてのソロ活動も行うようになります。

今日は、そのデビュー曲である「あずさ2号」をどうぞ。
 
あずさ2号/狩人

この曲の歌詞はこちら

「あずさ2号」ってどんな曲?

歌詞の内容は、都会での愛する人との暮らしに終止符を打ち、新しい恋人と新宿駅で特急「あずさ2号」に乗って信州へ旅立とうとするヒロインの、複雑な心の内が描かれています。

そして、曲の前半部分は、しっとりとした曲調ですが、サビの部分では、それとは正反対の曲調となっています。
これが、「より効果的に、女心のアヤを際立たせ」ることになり、多くの人々の心を捉えたのです。

この曲は、累計80万枚(オリコンの集計では約50万枚)を売上げて1977年の大ヒット曲となり、新人歌手であった狩人を、一躍スターの座に押し上げます。

「狩人」という名前の由来は?

「狩人」という名前の由来は、二人の恩師である作曲家、都倉俊一から、「いつまでも大ヒットという獲物を狙い続けるハンター(狩人)であれ」と言われて名づけられたものです。

狩人のその後

2012年7月に、狩人は再結成を発表。
同年8月18日には、NHKテレビ「思い出のメロディー」で「あずさ2号」を歌唱。
同年11月6日の「NHK歌謡コンサート」では、『コスモス街道』を歌唱。
現在、兄弟2人は、狩人としての活動と同時に、ソロ活動も平行して行なっています。
2018年7月頃、加藤久仁彦の所属事務所である(株)トップカラーに移籍。

「ブーツをぬいで朝食を/西城秀樹」 - オリコン週間7位を記録したヒット曲! ライターアクション&闘病生活とその最期も紹介

今日は、西城 秀樹の「ブーツをぬいで朝食を」のご紹介です。

ブーツをぬいで朝食を 西城秀樹 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

西城 秀樹(さいじょう ひでき、本名:木本 龍雄(きもと たつお)1955年4月13日 - 2018年5月16日)は、広島県広島市出身の歌手、俳優です。

西城 秀樹は、1972年3月25日に、シングル「恋する季節」で「ワイルドな17歳」のキャッチフレーズと共に歌手デビューをします。
片仮名の「ヒデキ」の愛称で人気となった西城 秀樹は、「チャンスは一度」以降、当時マイクを持って直立不動の姿勢で歌う歌い方が主流であった歌謡界に、アクション旋風を巻き起こします。

そして、1973年に「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入り。
一躍トップアイドルの仲間入りを果たし、郷ひろみ、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれます。

1973年6月25日には、5枚目のシングル「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入り。
その後、「ちぎれた愛」、「愛の十字架」が続けてオリコン週間チャートの第1位に輝き、「第15回日本レコード大賞」では初の歌唱賞を受賞します。

1979年には、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」で「Y.M.C.A.」の4文字を全身で表現するパフォーマンスを披露します。
 

「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)/西城秀樹」 - オリコン1位!売上げ80.8万枚を記録したヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ


今日は、「西城 秀樹」の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」(ヤングマン ワイ・エム・シー・エー)のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。西城 秀樹(さいじょう ひでき、本


今日は、そんな西城秀樹の、1978年1月1日に発売された23枚目のシングルである「ブーツをぬいで朝食を」をどうぞ。
 
西城秀樹 / ブーツをぬいで朝食を

この曲の歌詞はこちら

この曲は作曲家大野克夫による初めての作品で、1978年1月にスタートした「ザ・ベストテン」で、ピンク・レディーの「UFO」に続き、初の第1位に輝きました。
オリコンチャートにおいては、週間7位と1978年度年間65位を記録しています。

ライターアクションが人気に

また、この曲のイントロにて、西城 秀樹がライターに火を点けるアクションがあり、これが人気となりました。


写真はこちらからお借りしました。

が、TV局に、

「子どもが真似をして危険だ!」「けしからん!」

という苦情が殺到。

実際、子供が真似をして火事が起きるということがあったため、西城 秀樹本人が、番組中に、

「良い子のみんなは、絶対真似しないでください」

と訴え、このアクションは取りやめになりました。

「ボク、ブーツを買ってもらっちゃったよ」ブーブー
ブーツを履いた ブタ
写真は、こちらからお借りしました。

追記:2018.5.17

西城秀樹の闘病生活とその最期

2003年6月21日に、公演先の韓国で脳梗塞を発症します。
軽度の言語障害という後遺症は残りましたが、闘病の末復帰し、2006年9月27日に、3年ぶりに「めぐり逢い/Same old story - 男の生き様 -」が両A面で発売されます。

2011年12月20日に、脳梗塞が再発し、2週間ほど入院します。
半身麻痺と微細な言語障害の後遺症が残りましたが、リハビリに励み、少しずつ歩行の状態などが改善していきます。

2018年4月25日に、自宅にて一家団欒中に倒れ、緊急入院。
懸命の治療が行なわれましたが、翌月の5月16日23時53分に、急性心不全で神奈川県横浜市内の病院で死去。享年63歳でした。

「夕月/黛 ジュン」 - 累計売り上げは66.3万枚、週間2位を記録した最大のヒット曲!

今日は、黛 ジュンの「夕月」のご紹介です。

夕月 黛 ジュン ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

黛 ジュン(まゆずみ ジュン、本名:渡邊 順子(わたなべ じゅんこ) 1948年5月26日 -)は、東京都調布市出身の歌手、女優です。実兄は作曲家の三木たかし。
1960年代後半を中心に、独特のパンチの効いた魅力的な歌声でヒットを飛ばした歌手です。

黛 ジュンは、1964年に「渡辺順子」の名でデビューします。
が、ヒットせず、2年後の1967年に石原プロモーションへ移籍します。
くわえて、作曲家である黛敏郎のファンであったことと、パンチのある名前ということで「黛ジュン」に改名し、東芝音楽工業から「恋のハレルヤ」で再デビューをします。

この曲は、ミニスカートと共にパンチの効いた歌声で、一気に注目を集めることとなります。

そして、翌年の1968年に発売された「天使の誘惑」は更なるヒットとなり、同年の第10回日本レコード大賞に輝きます。
結果、1967年から1968年の2年間において、レコードの売上が500万枚を記録。「天使の誘惑」「夕月」では映画の主演女優に抜擢。売れっ子女優にもなります。

てなもんや三度笠(1962年 - 1968年)、花の恋人たち(1968年)、火曜サスペンス劇場「姉は二度死んだ」(1984年)、新・事件「断崖の眺め」(1984年)、特捜最前線 第385話「新幹線出張殺人!」(1984年)など多くのドラマにも出演します。

また、年末恒例のNHK紅白歌合戦では、1967年の第18回から1970年の第21回まで、4年間連続で通算4回の出場を果たします。

今日は、そんな黛 ジュンの多くのヒット曲の中から、1968年09月10日に発売された通算5枚目のシングルである、「夕月」をどうぞ。
夕月/黛ジュン

この曲の作詞はなかにし礼で、作曲は黛の実兄である三木たかし(2009年5月11日に喉頭がんで死去。享年64歳)が手がけた作品です。
年をまたいだロングセラーとなり、累計売り上げは66.3万枚を記録、前作「天使の誘惑」を上回る自身最大のヒット曲となりました。

また、オリコンチャートにおいては、最高順位週間2位、1968年度年間20位、」1969年度年間46位を記録しています。