Super源さんの音楽ブログ

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「僕が僕であるために/尾崎 豊」 - テレビドラマ「僕が僕であるために」「鈴木先生」主題歌 「尾崎ハウス」取り壊しまでの経緯

今日は、尾崎 豊の「僕が僕であるために」のご紹介です。

僕が僕であるために/尾崎 豊 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

尾崎 豊(おざき ゆたか、1965年11月29日 - 1992年4月25日)は、東京都練馬区出身のミュージシャン、シンガーソングライターです。

尾崎 豊は、1983年にシングル「15の夜」とアルバム「十七歳の地図」でデビューをします。
 

「十七歳の地図/尾崎 豊」 - 後に2ndアルバム『回帰線』が大手音楽チャート1位を記録する尾崎豊のデビューシングル! 作曲エピソードも紹介|Super源さんの音楽ブログ


今日は、尾崎 豊の「十七歳の地図(じゅうななさいのちず)」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。尾崎 豊(おざき ゆたか、1965年11月29日 - 1992年4月25日)は、東


破滅的で体当たりなパフォーマンスや、自己の内面をえぐり出すような赤裸々な歌詞の中で、真実の愛や夢、生きることの意味を追い求めて、学校・社会の不条理に立ち向かう魂の叫びのようなその音楽の世界が、1980年代から1990年代の初めにかけて、若者を中心に多くの人の共感を得て、尾崎 豊はカリスマ的存在となります。

尾崎 豊に強い影響を与えたミュージシャンには、ジャクソン・ブラウン、ブルース・スプリングスティーン、ビリー・ジョエル、浜田省吾、佐野元春、井上陽水、アナーキー、甲斐バンドらがいます。

1992年、26歳のときに、突然死。※
このあまりにも早すぎる死は、社会的にも大きな衝撃を与えます。

実際、死後20年を経過する現在においてもなお、尾崎豊のファンは減るどころか逆に増えており、また彼が遺した曲の数々は、多くのアーティストにカバーされ続けています。

今日は、1983年に発売された尾崎豊のファースト・アルバム、「十七歳の地図」の中から、「僕が僕であるために」をどうぞ。
 
僕が僕であるために/尾崎豊

この曲の歌詞はこちら

この曲の英題は「MY SONG」(マイ・ソング)で、ライブでも度々演奏されていた曲で、制作段階とは歌詞がかなり異なっています。
1997年に放送されたテレビドラマ「僕が僕であるために:、2011年のテレビドラマ「鈴木先生」において、主題歌として使用されました。

2004年には、トリビュートアルバムにおいて、「Mr.Children」がこの曲をカバーしています。
また、2009年には中村あゆみが、そして2010年にはmiwaによるカバー版が、映画「カラフル」のイメージソングとなっています。

尾崎豊 十七歳の地図 収録曲

Side 1
1.街の風景
2.はじまりさえ歌えない
3.I LOVE YOU
4.ハイスクール Rock'n Roll
5.15の夜

Side 2
1.十七歳の地図
2.愛の消えた街
3.OH My LITTLE GIRL
4.傷つけた人々へ
5.僕が僕であるために


ちなみに、このアルバムのタイトル曲である「十七歳の地図」という曲は、当時大学生だった尾崎豊が、学校帰りにビルの屋上から街並みを眺めていたときに思いついた曲ということです。

このエピソードの詳細については、以下のページをご覧下さい。
 

「十七歳の地図/尾崎 豊」 - 後に2ndアルバム『回帰線』が大手音楽チャート1位を記録する尾崎豊のデビューシングル! 作曲エピソードも紹介|Super源さんの音楽ブログ


今日は、尾崎 豊の「十七歳の地図(じゅうななさいのちず)」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。尾崎 豊(おざき ゆたか、1965年11月29日 - 1992年4月25日)は、東


※尾崎豊が倒れていた、東京都足立区千住河原町の民家の部屋は、1人の女性ファンが毎日訪問した事をきっかけに、所有者の好意によってファンに開放され、「尾崎ハウス」と呼ばれてファンの交流の場になっていましたが、2011年10月に、改築のため解体されました。
「尾崎ハウス」取り壊しまでの経緯
若者の孤独と挫折を歌い、人気絶頂のなかで1992年急逝した歌手の尾崎豊の終焉の地につくられた「尾崎ハウス」(東京・足立区)が、きのう3日(2011年10月)取り壊しになった。築65年というだけでなく、ある意味が込められていた。

尾崎が亡くなったのは1992年4月25日。足立区の小峰忠雄さん(72)の敷地内だった。小峰さんは「女房が見つけたんだよ。素っ裸になって空手の型みたいなのをやっていたらしい。(尾崎豊だと)知らない、知らない」という。

尾崎はそこで倒れ還らなかった。追悼式には4万人が集まった。石原裕次郎が3万5000人、 美空ひばりが4万2000人 だから、その人気がいかに高かったかがわかる。そしてファンは倒れた現場、小峰さん宅を訪れるようになった。
小峰さんは「(女の子たちが)毎日来て泣いてるからさ、家にあげていろんな話をきいてやった」という。自宅1階の6畳間を開放した。ファンはこれを「尾崎ハウス」と呼び、室内に写真やイラストを張り巡らし、交流の場としてきた。

取り壊しの日、ファンは集まってきた。「思い出の場所がなくなるのは寂しい」という若い人。なかで「寂しさはないですね」というのは、ここで出会って結婚したという小座間高雄さん夫妻だ。「(小峰さんが)尾崎豊という人から卒業して、息子さん夫婦と幸せになってもらいたいなと思う。受け入れてくれた感謝だけです。寂しさはない」
取り壊しの主な理由がこれだった。小峰さんは「息子たちに言われた。このままだと一生つきあわなければならないからと。じゃあ思い切って建て直して、『尾崎ハウス』をやめようとなった」という。
(2011/10/ 4 12:27)
「尾崎ハウス」取り壊し―自宅開放の家主「一生は付き合えない」
http://www.j-cast.com/tv/2011/10/04108954.html?p=all

「尾崎ハウス」を提供していた小峰忠雄さんは、一体どんな人? 尾崎豊との関係は?

ところで、「尾崎ハウス」を提供していた小峰忠雄さんというのは、一体どのような人なのでしょうか?
つまり、尾崎豊とどんな関係なのでしょうか?

実は、この家主は、尾崎豊とは一切無関係です。
友人でも知人でもありませんし、親戚でもありません。
尾崎豊が、亡くなった日に、突然酩酊状態でふらふらと入ってしまったのが、たまたまここの民家だったというだけです。

そのときに、尾崎豊は既にラリっていてヤバい状態だったので、 覚せい剤を服用したのはその民家に来るだいぶ前のことと考えられます。

なお、尾崎豊の死因については、以下のサイトで深い考察がなされています。

尾崎豊の死因3
http://www.est.hi-ho.ne.jp/snowman-yukio/ozaki3.htm

「dailymotion」の方にもアカウントを作成しました。

皆さん、こんばんは!
ちょっぴりご連絡が遅くなってしまいましたが、【><】過日「dailymotion」の方にもアカウントを作成したのでお知らせいたします。

で、まずは第一弾として、以前制作したオリジナル曲「線香花火」の動画を公開いたしました。(^o^)/ ジャーン!


【MEIKO】 線香花火 【オリジナル曲】 投稿者 supergens

SuperGens 上の

と言うことは…、これが私Super源さんの「dailymotion」のデビュー曲ということになります。
おお!(゚o゚)ソウ ナノカ!
ナニ トボケタ コト イッテル ノ!(-_-メ)/~~~~~バシィ!!(T/O)

目を閉じてこの曲を聴き、線香花火の雰囲気に浸っていただければ幸いです。

o(^-^)o ヾ(^^;)ネエネエ、イマハ ソンナ 季節 ジャ ナインダ ケド?

ということで、今後は、従来通りYouTube、ニコニコ動画に続いて、こちらdailymotionの方にも、オリジナル曲を少しずつではありますが公開していこうと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。m(__)m

こちらのアカウントをお持ちの方は、もしよろしければフォローなどして頂けると、泣いて喜びます。(;;)

以上、取り急ぎ、ご報告でした!( ^-^)/

「愛しのクリスティーヌ(Souvenir d’enfance)/リチャード・クレイダーマン」 - 「渚のアデリーヌ」で知られるリチャード・クレイダーマンの1981年のヒット曲

今日は、「リチャード・クレイダーマン」の「愛しのクリスティーヌ(Souvenir d'enfance)」のご紹介です。

愛しのクリスティーヌ Souvenir d’enfance リチャード・クレイダーマン Richard Clayderman ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

リチャード・クレイダーマン(リシャール・クレデルマン)(Richard Clayderman、1953年12月28日 -)はフランスのパリ郊外のロマンヴィルで生まれたピアニストです。
本名はフィリップ・ロベール・ルイ・パジェス(Philippe Pages)で、幼少時よりピアノに親しみ、5歳で作曲を始め、学校の教科書よりも楽譜の方がよく読めたと伝えられています。

リチャード・クレイダーマンは、1976年、「渚のアデリーヌ Ballade pour Adeline」でデビューします。
 

「渚のアデリーヌ(Ballade pour Adeline)/リチャード・クレイダーマン(Richard Clayderman)」 - 2200万枚を売り上げたリチャード・クレイダーマンのデビュー曲!|Super源さんの音楽ブログ


以前、「リチャード・クレイダーマン」の「星空のピアニスト」をご紹介しましたが、今日はもう一曲ご紹介したいと思います。曲名は、「渚のアデリーヌ(Ballade pour Adeline)」です。


当初、フランスではあまり注目されませんでしたが、その後当時の西ドイツのテレビドラマの主題歌に使われたことにより、全西独シングル・ヒット・チャートの第1位に輝き、これを契機に、スペイン周辺の国々でもヒットし、いわば逆輸入の形でフランスでもヒットすることになります。

この話を聞いた、当時のビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント)が、デルファン社とクレイダーマンに関する日本での独占販売契約を結び、1978年、日本で初めて彼のレコードが発売されると直ぐに評判になったといいます。

1980年には、日本で初のコンサートを開き、「ニュー・イージーリスニング・ミュージック」として注目されるようになります。

リチャード・クレイダーマンは、初来日以来、毎年日本でコンサートを行なうほか、全世界通して年300日はコンサートをしています。

今日は、1980年に発売された(日本での発売は1981年)、リチャード・クレイダーマンの「愛しのクリスティーヌ(Souvenir d'enfance)」をどうぞ。
 
愛しのクリスティーヌ(Souvenir d'enfance)/リチャード・クレイダーマン(Richard Clayderman)

現在の日本で、リチャード・クレイダーマンの楽曲で良く知られている曲と言えば、「渚のアデリーヌ」ですが、日本でその名を最初に知らしめたのは1981年のシーボン化粧品のCMで流れた「愛のコンチェルト」です。
このCMは、当時頻繁に流れ、たとえ曲のタイトルを知らなくても、曲を聴けば「あの化粧品の曲だ」と分かるほどでした。

1982年には、「星のセレナーデ」に岸田智史(きしださとし)と下田逸郎(しもだ いつろう)が歌詞をのせて、「潮風のセレナード」のタイトルで岸田智史がカバーしました。

ちなみに、リチャード・クレイダーマンの曲の中で、管理人が一番好きなのは、何といっても「星空のピアニスト」ですね。
もう、リチャード・クレイダーマンといったらこの曲です。
 

「星空のピアニスト/リチャード・クレイダーマン」 - 管理人一押し! イトーヨーカドーの閉店時間のBGM|Super源さんの音楽ブログ


今日は、リチャード・クレイダーマンの「星空のピアニスト(Lyphard Melody)」のご紹介です。写真は、こちらからお借りしました。 リチャード・クレイダーマン(リシャール・クレデルマン


そして次が、今日ご紹介た「愛しのクリスティーヌ」、そして、「渚のアデリーヌ」と続きます。

皆さんの、リチャード・クレイダーマンベスト3はどの曲ですか?