Super源さんの音楽ブログ

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「シオン/沢田聖子」 - イルカから贈られた沢田聖子の代表曲 シングル発売日には「謎」が?

今日は、沢田 聖子の「シオン」のご紹介です。

シオン 沢田聖子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

沢田 聖子(さわだ しょうこ、1962年3月13日 -)は、東京都中野区出身のシンガーソングライターです。
担当楽器は、ボーカル、ピアノ、ギター。

沢田 聖子は、1979年5月25日に、クラウンレコードから「キャンパススケッチ」でデビューをします。
当時、「イルカの妹」というキャッチコピーにより、産休から復帰したイルカのカムバックリサイタルのステージにも立ちます。

以後、ライブを中心とした音楽活動、パーソナリティ活動などを積極的に行ないます。

彼女が活躍を開始した1980年代初頭においては、若い女性のシンガーソングライターは希少な存在で、そのルックスも相まって、男性層からアイドル的人気を得ます。
そして、80年代の女性ニューミュージックシーンを変え、アイドル性をもったシンガーソングライターの草分け的存在となります。

1980年には、学園祭出演数No.1を記録し、「学園祭のプリンセス」と呼ばれます。

今日は、そんな沢田聖子の、1979年10月25日に発売されたセカンドシングルである「シオン」をどうぞ。
 
シオン/沢田聖子

この曲の歌詞はこちら

この曲は、実はデビュー前の練習曲としてイルカから贈られた楽曲でもあり、ステージで歌われ続けている沢田聖子の代表曲であります。

というより、これはもう、上から見ても、下から見ても、裏返しに見ても、イルカがつくったと分かる、特徴のあるメロディーですね。(^^)
高校教師」の主題歌を彷彿とさせる佳曲だと思います。
 

「ぼくたちの失敗/森田 童子」 - 100万枚に迫る大ヒットとなった、ドラマ「高校教師」の主題歌|Super源さんの音楽ブログ


今日は、森田 童子の「ぼくたちの失敗」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。森田 童子(もりた どうじ、本:不詳 1952年1月15日 - 2018年4月24日)は、東京都出身の


裏返シッ テ、ドウヤッテ 見ルン ダイ!(-_-メ)/~~~~~バシィ!!(T/O)

沢田聖子のシングル発売日の謎

ところで、さきほど沢田聖子の各シングル発売日を見ていて気がついたのですが、初期の作品において、”25日”発売のものが目立ちます。

1.キャンパススケッチ(1979.05.25)
2.シオン(1979.10.25)
3.坂道の少女(1980.04.25)
4.星空のメッセージ(1980.09.25)
5.春(1981.03.25)

5作目まで、きれいに25日となっています。おお!(゚o゚)
これは、いわゆる「ゲン」をかついているのでしょうか?

その後はどうなっているのかと見てみると、

6.雨の日のサンシャイン(1981.09.05) 
7.卒業(1982.01.25)
8.あなたへのバースディ・カード(1982.05.25)
9.ドール・ハウス(1983.03.20) 
10.季節 ~シーズン~(1983.11.21)

6曲目の「雨の日のサンシャイン」で、このゲンはいったん崩れますが(とはいえ、1桁台の”5”は死守(?)しています)、次作の「卒業」で、見事復活。
そして、このゲンは、次の「あなたへのバースディ・カード」まで続きます。

そして、その後はどうなっているのかというと…、次曲の「都会人」からこのゲンは再び復活したように見えますが、

11.都会人(1984.04.25)


14.Natural(1986.04.25)
15.冷たい言葉で傷つけて(1986.09.25)
16.LIFE(1988.05.25)



21.笑顔が好きだから(1994.02.05)

と、しだいにゲンをかつがなくなり、その後はほとんど、えっ!(゚o゚)ゲンって何? という感じで、(笑) まったく意に介さない状態となっています。【><】

22.優しい風(1994.06.22)
23.風になりたい(1995.04.21)
24.青空(1996.11.21)
25.smile(1997.05.21)
…。

ほら。 おおおっ!(゚o゚)ホントだ!

そういえば、他のアーチストの方のCD発売日は、どうなっているのでしょうね。(?_?)
今まで、まったく気にしたことがなかったもので…。(爆)

以上、ふと私Super「源(ゲン)」さんが気づいた、沢田 聖子のCD発売日のゲンについてでした。(^O^)/
マタ ダシャレ カイ。(-_-メ)/~~~~~バシィ!!(T/O)

お後がよろしいようで。

「嵐の素顔/工藤 静香」 - オリコン週間1位を獲得したヒット曲!

今日は、工藤 静香の「嵐の素顔」のご紹介です。


写真は、こちらからお借りしました。

工藤 静香(くどう しずか、本名:木村 静香(きむら しずか、旧姓:工藤) 1970年4月14日 -)は、東京都西多摩郡羽村町(現・羽村市)出身の歌手、女優、タレント、宝飾デザイナー、画家です。
元おニャン子クラブのメンバーで、愛称は「しーちゃん」「しずちゃん」。夫は、SMAPの木村拓哉。

工藤 静香は、1984年の中学2年の時に、応募総数歴代最大18万325人の第3回「ミス・セブンティーンコンテスト」に出場して、特別賞を受賞します。
そして、同年、同コンテスト出身の木村亜希(清原和博夫人)、柴田くに子(後の森丘祥子)と「セブンティーンクラブ」を結成し、1985年1月にレコードデビューするも、2枚のシングルを発表し解散します。

その後、高校へ進学後の1986年5月、事務所の勧めでフジテレビ系「夕やけニャンニャン」のオーディションコーナーである「ザ・スカウト アイドルを探せ!」に出場し、合格。おニャン子クラブの会員番号38番となります。
そして、クイズ番組等で見せる「バカキャラ」や「ヤンキーキャラ」などで注目されるようになります。

1987年春からは、生稲晃子・斉藤満喜子と内部ユニット「うしろ髪ひかれ隊」としての活動も開始。
直後に発売されたおニャン子のシングル「かたつむりサンバ」では、フロントボーカルに抜擢されるなど、終焉(しゅうえん)に向かっていたおニャン子クラブの中で人気、知名度を上げていきます。

1988年9・10月には、TBS系「ザ・ベストテン」で「MUGO・ん…色っぽい」で初の1位を獲得。同年の年間ランキングでも6位となります。
おニャン子関連の曲、もしくはおニャン子出身者の曲で、同番組で第1位を獲得したのは工藤静香ただ一人です。

1989年には、「恋一夜」「嵐の素顔」「黄砂に吹かれて」と50万枚以上の大ヒットを連発。その年のシングル年間ランキング上位10曲の中に3曲すべてが入ります。
特に「黄砂に吹かれて」は、オリコン6週連続1位の記録をもっています。

今日は、そんな工藤 静香の、1989年05月03日に発売された通算7枚目のシングルである「嵐の素顔」をどうぞ。
 
/iframe>嵐の素顔/工藤 静香

この曲の歌詞はこちら

この曲は、オリコンチャートで週間1位、1989年度年間8位を獲得しています。

「嵐の素顔」発売時の時代背景

この曲は、工藤静香にとっては平成改元後初のシングルです。
この作品発売前の4月1日から消費税が導入されたことにより、価格表示が「税込定価¥〇〇〇(税抜価格¥〇〇〇)」と改められました。

振り付けの一部は「I Think We're Alone Now」からの借用

顔の横で手をLの字に動かす振り付けは、一番と二番の間奏で行なわれ、当初は頭サビの後は違う振り付けがついていました。
担当したボビー吉野は、手で作った形を素早く組み合わせて踊る「タット」という動きを取り入れたといいます。

この振り付けは、当時アメリカで大人気だった歌手・Tiffany(ティファニー)が、1987年に発売された「I Think We're Alone Now」でやっていたものです。
後年、モノマネ等でその部分が取り上げられると、工藤静香はこの振り付けを頭サビ後にいきなりするようになりました。

工藤 静香は、「愛絵理(あえり)」名義で作詞活動も

工藤 静香は、1988年に発売されたミニアルバム「カレリア」では、「愛絵理(あえり)」名義で作詞をしています。
それ以後も、作詞の際はこの名前を使用しています。
この「愛絵理」というのは、両親が命名の際に第1候補として考えていた名前です。

不動静香のその後

ソロ・デビュー25周年にあたる2012年には、4月21日から5月27日まで、青森県立郷土館において絵画個展「あふれる感情 工藤静香展」が開催されました。
青森は、工藤の父が、旧蟹田町(現外ヶ浜町)出身という縁があります。
同年10月に、4年ぶりの新曲となる「キミがくれたもの」を発売。この曲は、シンガーソングライターの絢香が初めて他の歌手に提供した作品です。

同時に、廃盤となっている3作品(「ミステリアス」「静香」「JOY」)を含むポニーキャニオン発売のオリジナルアルバム全15作品が、CD BOXセット「SHIZUKA KUDO ORIGINAL ALBUM COLLECTION」として発売されました。

「夢見る少女じゃいられない/相川七瀬」 - 40万枚近くを売上げた、相川七瀬のデビュー曲にしてヒット曲

今日は、相川七瀬の「夢見る少女じゃいられない」のご紹介です。

夢見る少女じゃいられない 相川七瀬 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

相川 七瀬(あいかわ ななせ、出生名:佐伯 美咲(さえき みさ)1975年2月16日 -)は、歌手、カラーセラピストです。

相川 七瀬は、1990年、15歳の頃に、工藤静香の嵐の素顔」でソニー主催のオーディションを受け、不合格となりますが、この時、後にトータルプロデューサーとなる織田哲郎と出会います。

1992年、高校を中退してアルバイトをしていた17歳の頃、「DREAMS COME TRUE(ドリームズ・カム・トゥルー)」や「QUEEN(クイーン)」などの音楽を聴きあさり、歌手になる決心をします。
織田哲郎に連絡を取って上京し、歌手デビューのためにボイス・トレーニングを開始します。

そして、1995年11月、織田哲郎のプロデュースによる「夢見る少女じゃいられない」で念願の歌手デビュー。
織田哲郎は、相川七瀬をトータルプロデュースするにあたって、それまでの「前向きなガール・ポップ」に対し、「前向きじゃないダークなロック」を全面に打ち出します。

1996年には、ファーストアルバム「Redレッド)」を発売。
このアルバムは、オリコンのアルバムチャート初登場で1位を獲得し、現在までに270万枚を超すダブル・ミリオンヒットを記録しています。
同年年末には第47回NHK紅白歌合戦に初出場し、「夢見る少女じゃいられない」を披露します。

1997年7月にはアルバム「paraDOX(パラドックス)」を発売、この作品もオリコン初登場1位を獲得し、現在までに180万枚を売り上げています。

今日は、そんな相川 七瀬の、1995年11月8日に発売されたデビュー曲である「夢見る少女じゃいられない」をどうぞ。
 
夢見る少女じゃいられない/相川七瀬

この曲の歌詞はこちら

この曲は、織田哲郎がプロデュースしたことと、ビーイングのスタジオを使用したことで、当初はビーイングプロデュースと間違われたことが多くありました。
織田哲郎が全面プロデュースした最初の作品でもあります。
白黒で、しかも相川七瀬の顔のほとんどに髪がかかっていて見えないこのジャケット写真には反対意見も多かったですが、織田哲郎の一存で、結局この形となりました。
この曲は、デビュー曲にもかかわらず、40万枚近くを売上げ、相川七瀬自身4番目のヒット曲となりました。

相川七瀬は、2000年にはプロデューサーを布袋寅泰に変え、それまでとは異なる曲調のロックを歌うようになります。

2004年2月には、2年半振りにアルバム「7 seven(セブン)」を発売。
同月22日にNHKホールで行なわれた「日中友好歌謡祭」に出演し、「愛ノ詩 -マジェンタレイン-」を歌う様子が中国でも実況中継されます。
同年3月には、カラーセラピー本「恋のダイス&ルーレット」と不思議体験を綴った「バリコワ」を出版。

また、5月8日からは、約4年振りとなる全国ホールツアー「Live Emotion "7 seven"」を、7月からは毎年恒例のライブTOUR AIKAWA NANASE "7 seven" THE GIG '04を行ないます。
7月には、イギリスやアイルランドでJennifer Ellison(ジェニファー・エリソン)による相川七瀬の「バイバイ」をカバーした“Bye Bye Boy”がヒットし、イギリスのチャートでは13位となりました。

そして、2013年2月16日に、ソロとしては4年ぶりのオリジナル・アルバム「今事記」を発売します。


ちなみに、相川七瀬の芸名の「相川」は、地元近くにある阪急電鉄の相川駅に由来しています。
また、相川七瀬は左の首筋にLove or Die(ラブ オア ダイ)と刻まれたタトゥー(入れ墨)を入れています。
また、タトゥーはもう一ヶ所、左手首にも入れています。