Super源さんの音楽ブログ

名曲紹介、作詞・作曲、音楽用語の楽しい覚え方、その他音楽にまつわることを書いていくブログです。可愛い音楽ブログパーツも配布しています。

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「きみの朝/岸田智史」 - テレビドラマ「愛と喝采と」の挿入歌 岸田智史の現在と改名の理由は?

今日は、岸田 智史の「きみの朝」のご紹介です。

きみの朝 岸田智史 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

岸田 智史(きしだ さとし、現:岸田 敏志(読みは同じ) 本名:稲田 英彦(いなだ ひでひこ) 1953年4月18日 - )は、岡山県真庭郡落合町(現・真庭市)出身のシンガーソングライター、俳優です。
父は書家の稲田東川、息子はパーカッション奏者の稲田しんたろう、娘はミュージカル女優の稲田みづ紀。

岸田 智史は、1976年にCBS・ソニーから「蒼い旅」で歌手デビューをします。

その後、1979年にTBS系列のテレビドラマ「愛と喝采と」で俳優としてもデビュー。
そして、このドラマの挿入歌「きみの朝」(ドラマの中では「モーニング」というタイトルだった)を歌い大ヒット。
この曲は、岸田 智史の代表曲となります。

今日はその「きみの朝」をどうぞ。
 
きみの朝/岸田智史 投稿者 jun-takanashi2844

この曲の歌詞はこちら

この曲は、岸田智史自身も出演したTBSのテレビドラマ「愛と喝采と」の挿入歌に採用されました。

ドラマの中では、当初「モーニング」というタイトルが表示されていましたが、レコード発売の際には「きみの朝」へ変更されていました。
この曲の作詞者である岡本おさみは、「愛と喝采と」の脚本家の岡本克己の実弟です。

当時、「愛と喝采と」のスタッフが「3年B組金八先生」を手掛けることになったため、岸田 智史に「金八」主演の打診がありました。
が、岸田智史は、この曲のヒットとコンサートで多忙だったため、当時同じ事務所の所属だった武田鉄矢が出演することになりました。

先に、武田鉄矢が作詞した主題歌「贈る言葉」の作曲も依頼されましたが、曲はできたものの、レコーディングまでには至っていません。
岸田智史はその後、桜中学シリーズの第2弾となる「1年B組新八先生」に主演しています。

岸田智史版の「贈る言葉」は、2009年5月7日放送のTBS「サカスさん」に出演した際、岸田智史の演奏にて披露されましたが、マイナー調の曲で、「既に暮れなずんじゃってる感じ」だと自ら語っていました。

他に、自らが主演した「新八」の主題歌「重いつばさ」や、リチャード・クレイダーマンのヒット曲に歌詞をつけてカバーした「潮風のセレナード」、「黄昏」や「21のキャンドルライト」などの曲が知られています。

また、岸田智史は当時、同じCBS・ソニーの所属だった山口百恵から、歌声や作品を気に入られ、山口百恵のオリジナル・アルバム「花ざかり」に「飛騨の吊り橋」「あまりりす」「ドライフラワー」の3曲を提供したことでも有名です。

岸田智史のその後と現在は?

2011年4月1日、母校の岡山県立落合高等学校が岡山県立久世高等学校と合併して、岡山県立真庭高等学校となりましたが、その際、新しい校歌の作詞・作曲を依頼され、「岡山県立真庭高等学校校歌〜風の階段〜」を制作しました。

同年の11月に、埼玉の首都高速道路三郷料金所で追突事故に巻き込まれ、頸椎(けいつい)および腰椎捻挫(ようついねんざ)の重傷を負いましたが、約1年半のリハビリの末回復、2013年10月には約3年ぶりとなる全国ツアーを開催しています。

2017年には、芸歴活動40年の節目の年を迎え、歌手としての活動が多く、全国各地の会場でライブを開催したり、イベントメディアに出演する予定が組まれました。

2011年に追突事故で重症を負い、後遺症として左手の小指と左足に麻痺が残りリハビリ生活を余儀なくされた岸田智史ですが、2022年現在もコンサートツアを開くなど、歌手としての活動を続けています。

岸田智史の改名の理由は?

岸田智史は、名前を智司から「敏志」へ改名していますが、その理由は、世間がミレニアムで沸く2000年に、何か注目を浴びることをしたいということで、改名を思い立ったということです。
「敏志」へ変えた理由は、以前から芸名として使用してきた智史が書き辛いと感じていて、しっくりきていなかったため、この漢字に変えてみたとのことです。

岸田智史のオフィシャルブログはこちら。

岸田敏志 オフィシャルブログ 「From kissy」 Powered by Ameba
https://ameblo.jp/satoshi-kishida/

「スムース・オペレーター(Smooth Operator)/シャーデー」 - アルバム「ダイアモンド・ライフ 」に収録されている名曲

今日は、シャーデーの「スムース・オペレーター(Smooth Operator」のご紹介です。

スムース・オペレーター EP盤 画像

シャーデー(Sade)は、女性ボーカルとバックミュージシャンから成る、イギリスのバンドです。

メンバーは、Sade Adu(シャーデー・アデュ 女性ボーカリスト)、Paul Spencer Denman(ベース)、Andrew Hale(キーボード)、Stuart Matthewman(ギター・サックス等)です。

シャーデーは、1984年にデビューをします。
第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンを背景にしたアルバム「Diamond Life(ダイアモンド・ライフ)」は、祖国のイギリスのみならず米国などでもヒットし、翌年の米グラミー賞最優秀新人賞に輝きます。

シャーディーの特徴は、ジャズとアダルト・コンテンポラリーをミックスしたサウンドと、アデュの落ち着いたミステリアスなボーカルです。
発表した作品数は、それほど多くはないものの、いずれも世界的なヒットとなっています。

1994年からは、アデュを除くメンバー3人が、「Sweetback(スウィートバック)」という名前で活動を始めます。

デビュー当初のジャズやソウルの系統のサウンドから、「Lovers Rock(ラバーズ・ロック)」以降はブルースやフォークの影響を感じさせるギター中心のサウンドに変化しており、くわえて、アデュがジャマイカに移住したこともあってレゲエの影響をも受けています。

今日は、1984年に発売されたファーストアルバム「ダイアモンド・ライフ (Diamond Life)」の中から、1曲目に収録されている「スムース・オペレーター(Smooth Operator」をどうぞ。
 
スムース・オペレーター(Smooth Operator)/シャーデー(Sade)

この曲の歌詞はこちら
訳詞はこちら

このアルバムは、発売当初は大ヒットには至りませんでしたが、2曲目に収録されている「ユア・ラヴ・イズ・キング(Your Love Is King)」がトップ10に入ってから、売れ始めました。

そして、女性アーティストのアルバムとしては長きに渡るセールスを誇り、全英チャートに99週間残っていました。
最高位は全米5位、全英2位で、今日ご紹介した「スムース・オペレーター」は、今日に至るまで多くのアーティストにカバーされています。

なお、「スムース・オペレーター」はしばしば、1988年発売の「パラダイス」、1992年発売の「ノー・オーディナリー・ラブ」とともに、シャーディーのテーマ音楽と考えられています。
 

「ノー・オーディナリー・ラブ(No Ordinary Love)/シャーデー(Sade)」 - 全英チャート14位を獲得したヒット曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、シャーデーの「ノー・オーディナリー・ラブ(No Ordinary Love)」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。シャーデー(Sade)は、女性ボーカルとバックミュージ


おしゃれで豪華、そして大人の雰囲気をもつ素敵なバンド、シャーデー。
シャーデーの曲の中では、「キス・オブ・ライフ」もまた素敵です。
もしもお時間が許せば、こちらもお聴きになってみてください。(^^)
 

「キス・オブ・ライフ(Kiss Of Life)/シャーデー」 - スタジオ・アルバム「Love Deluxe」からシングルカットされた名曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、シャーデーの「キス・オブ・ライフ(Kiss Of Life)」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。シャーデー(Sade)は、女性ボーカルとバックミュージシャンから成る、



「私はピアノ/高田みづえ」 - オリコン3位! 50万枚近い売上げを記録した高田みづえ自身最大のヒット曲!

今日は、高田 みづえの「私はピアノ」のご紹介です。

私はピアノ 高田みづえ ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

高田 みづえ(たかだ みづえ、戸籍名:日高 みづえ(旧姓:高田) 1960年6月23日 -)は、鹿児島県揖宿郡頴娃町(かごしまけんいぶすきぐんえいちょう:現・南九州市)出身の元歌手・元タレントです。
相撲部屋の「おかみ」で、夫は元大関の大相撲力士(現・二所ノ関親方の若嶋津六夫(本名:日高六男))。
長男は元俳優の勝信。長女はタレントのアイリ。

高田 みづえは、フジテレビのオーディション番組「君こそスターだ!」で第18回グランドチャンピオンとなり、1977年3月25日に「硝子坂(ガラスざか)」でアイドル歌手としてデビューをします。

デビュー曲の「硝子坂(がらすざか)」から好調なすべり出しで、「だけど…」「ビードロ恋細工」「花しぐれ」と、4曲連続でヒット。
同年1977年に、第19回日本レコード大賞・新人賞、日本歌謡大賞・放送音楽新人賞、FNS歌謡祭・最優秀新人賞などの新人賞を受賞します。

その後、しばらくヒットに恵まれない時期がありましたが、1980年7月に発売された「サザンオールスターズ」のカバー曲「私はピアノ」を歌って、再びブレイク。
「第31回NHK紅白歌合戦」にも2年ぶりに出場します。

その後は、「愛のイマジネーション」のB面に収録されたカバー曲「真夜中のギター」がヒット。
1982年には、音つばめの曲をカバーした「愛の終りに」と、アリスの谷村新司作詞・作曲で谷村自身がバックコーラスも担当した「ガラスの花」を発売します。

今日は、そんな高田 みづえの、1980年7月25日に発売された通算12枚目のシングルである「私はピアノ」をどうぞ。
 
私はピアノ/高田みづえ

高田みずえはこの曲で、「花しぐれ」以来、8作ぶりにオリコンTOP10入りを果たし、最高位は3位まで上昇しました。
また、シングルの売上げも50万枚近い記録となり、高田みづえ自身最大のヒット曲となりました。

ちなみに、この曲は当初、弘田三枝子の新曲として発売される予定で、アレンジ、歌の仮録音まで済んでいました。
が、高田みづえ側から、この曲をどうしても歌いたいと申し出があり、弘田三枝子側が譲ったいきさつがあるといいます。