「燃える手/弘田三枝子」- 「ポップスの女王」と呼ばれた弘田三枝子の1970年のヒット曲
- 名曲紹介
- 2016年08月17日
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アレ?( ?_?)コレ、画像ガ違ウ ゾ。
オーイ!( ゚O゚)Super源さーーん。画像ガ 違ウ ヨー!
アッ!(゚o゚;ホント ダ!
少々 オ待チ ヲ。(^^;/
ε=ε=ε=ε=ε= ピュー!・・・。゜.☆ ダダダ!
写真は、こちらからお借りしました。
ハイ! コチラガ 正しい 画像デス!(^O^)/
大変 失礼シマシ タ。(゚゚)(。。) ペコリン
弘田 三枝子(ひろた みえこ、本名:高木 三枝子、1947年2月5日 - 2020年7月21日)は、東京都世田谷区池尻出身の歌手です。
愛称はMICO(ミコ)、ミコちゃん。
弘田 三枝子は、1961年に「子供ぢゃないの」(ヘレン・シャピロのカバー)でデビューをします(14歳)。
翌年の1961年には、各社競作で出された「ヴァケィション」(コニー・フランシスのカバー)が大ヒットを記録。
1965年7月には、日本人歌手として初めて、アメリカの「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に出場。
そして、カーメン・マクレエ、フランク・シナトラ、クインシー・ジョーンズ、カウント・ベイシーオーケストラ、スタン・ゲッツ、ジョン・コルトレーンなど、当時のトップクラスのジャズミュージシャンが勢ぞろいする中で、ビリー・テイラー・トリオをバックに歌い、3日目のトリという大役を務めます。
そして、1969年に「人形の家」で、第11回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞。
また、京都にてR&Bの2回目のコンサートを行います。
1970年には、「ミコのカロリーBOOK」を出版。
当時は、まだこのようなダイエット本が珍しく、150万部を超える大ベストセラーになります。
ファッションやビューティーにも関心をもち、1970年度のベストドレッサー賞を受賞しています。
独特のヘアスタイル、衣装、メイクで当時のファッションリーダー的存在でありました。
更に同年、「できごと」で、東京国際歌謡音楽祭(後の世界歌謡祭)の歌唱賞を受賞しました。
尚、この「できごと」はm「喜劇 開運旅行」(松竹、1971年)の1シーンで、本人出演により歌われています。
さて、今日はそんな弘田 三枝子の、1970年4月25日に発売された「燃える手」をどうぞ。
燃える手/弘田三枝子
この曲の歌詞はこちら。
弘田 三枝子は、歌唱力とパンチの効いた歌声が特徴の歌手で、「ポップスの女王」とも呼ばれ、当時、その歌唱力は「日本女性歌手史上最高の歌唱力」とも評されていました。
今聴いても、素敵な歌声に魅了されます。(^-')
やはり、いいものは時代を超えるのですね。
弘田三枝子の死因は?
2020年7月20日、弘田三枝子は千葉県内の自宅で倒れ、同県内の病院に搬送されましたが、翌21日午後10時31分、73歳で死去しました。死因は、心不全でした。
葬儀は、親族のみで密葬として行ない、6日後の27日に訃報が発表されました。
同年はレコードデビュー60周年にあたり、記念曲の制作や記念コンサートの開催などを企画していましたが、新型コロナウイルス感染拡大で「来年に持ち越しね!」とスタッフと話し合っていたといういます。
同年6月15日に公開された、YouTubeでの日本歌手協会リレー歌謡祭第46弾での電話での自身の曲紹介(「人形の家」)が、公の場での最後の肉声となりました。