「夢見る少女じゃいられない/相川七瀬」 - 40万枚近くを売上げた、相川七瀬のデビュー曲にしてヒット曲
- 名曲紹介
- 2015年08月22日
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写真は、こちらからお借りしました。
相川 七瀬(あいかわ ななせ、出生名:佐伯 美咲(さえき みさ)1975年2月16日 -)は、歌手、カラーセラピストです。
相川 七瀬は、1990年、15歳の頃に、工藤静香の嵐の素顔」でソニー主催のオーディションを受け、不合格となりますが、この時、後にトータルプロデューサーとなる織田哲郎と出会います。
1992年、高校を中退してアルバイトをしていた17歳の頃、「DREAMS COME TRUE(ドリームズ・カム・トゥルー)」や「QUEEN(クイーン)」などの音楽を聴きあさり、歌手になる決心をします。
織田哲郎に連絡を取って上京し、歌手デビューのためにボイス・トレーニングを開始します。
そして、1995年11月、織田哲郎のプロデュースによる「夢見る少女じゃいられない」で念願の歌手デビュー。
織田哲郎は、相川七瀬をトータルプロデュースするにあたって、それまでの「前向きなガール・ポップ」に対し、「前向きじゃないダークなロック」を全面に打ち出します。
1996年には、ファーストアルバム「Redレッド)」を発売。
このアルバムは、オリコンのアルバムチャート初登場で1位を獲得し、現在までに270万枚を超すダブル・ミリオンヒットを記録しています。
同年年末には第47回NHK紅白歌合戦に初出場し、「夢見る少女じゃいられない」を披露します。
1997年7月にはアルバム「paraDOX(パラドックス)」を発売、この作品もオリコン初登場1位を獲得し、現在までに180万枚を売り上げています。
今日は、そんな相川 七瀬の、1995年11月8日に発売されたデビュー曲である「夢見る少女じゃいられない」をどうぞ。
夢見る少女じゃいられない/相川七瀬
この曲の歌詞はこちら。
この曲は、織田哲郎がプロデュースしたことと、ビーイングのスタジオを使用したことで、当初はビーイングプロデュースと間違われたことが多くありました。
織田哲郎が全面プロデュースした最初の作品でもあります。
白黒で、しかも相川七瀬の顔のほとんどに髪がかかっていて見えないこのジャケット写真には反対意見も多かったですが、織田哲郎の一存で、結局この形となりました。
この曲は、デビュー曲にもかかわらず、40万枚近くを売上げ、相川七瀬自身4番目のヒット曲となりました。
相川七瀬は、2000年にはプロデューサーを布袋寅泰に変え、それまでとは異なる曲調のロックを歌うようになります。
2004年2月には、2年半振りにアルバム「7 seven(セブン)」を発売。
同月22日にNHKホールで行なわれた「日中友好歌謡祭」に出演し、「愛ノ詩 -マジェンタレイン-」を歌う様子が中国でも実況中継されます。
同年3月には、カラーセラピー本「恋のダイス&ルーレット」と不思議体験を綴った「バリコワ」を出版。
また、5月8日からは、約4年振りとなる全国ホールツアー「Live Emotion "7 seven"」を、7月からは毎年恒例のライブTOUR AIKAWA NANASE "7 seven" THE GIG '04を行ないます。
7月には、イギリスやアイルランドでJennifer Ellison(ジェニファー・エリソン)による相川七瀬の「バイバイ」をカバーした“Bye Bye Boy”がヒットし、イギリスのチャートでは13位となりました。
そして、2013年2月16日に、ソロとしては4年ぶりのオリジナル・アルバム「今事記」を発売します。
ちなみに、相川七瀬の芸名の「相川」は、地元近くにある阪急電鉄の相川駅に由来しています。
また、相川七瀬は左の首筋にLove or Die(ラブ オア ダイ)と刻まれたタトゥー(入れ墨)を入れています。
また、タトゥーはもう一ヶ所、左手首にも入れています。