Super源さんの音楽ブログ

名曲紹介、作詞・作曲、音楽用語の楽しい覚え方、その他音楽にまつわることを書いていくブログです。可愛い音楽ブログパーツも配布しています。

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「シルエット・ロマンス/大橋純子」 - 48万枚を売上げた、恋愛小説「シルエット・ロマンス」のイメージソング

今日は、大橋 純子の「シルエット・ロマンス」のご紹介です。

シルエット・ロマンス 大橋純子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

大橋 純子(おおはし じゅんこ、1950年4月26日 -)は、北海道夕張市出身の歌手です。

大橋 純子は、1974年に上京し、ヤマハ音楽振興会でアルバイトをしながら、その仲間とバンドで活動を開始します。
が、その日本人離れした歌唱力と音楽性が関係者の耳に止まり、レコード会社のオーディションを受けて合格。
そして、アルバム「フィーリングナウ」でソロデビューをします。

1976年に、2作目のアルバム「ペイパームーン」のタイトル曲が、最初のヒットとなります。

1977年に、「大橋純子&美乃家セントラル・ステイション」(ギタリストは後の一風堂の土屋昌巳)名義でバンド活動。
「シンプル・ラブ」がヒットします。

1978年に、「たそがれマイ・ラブ」がTBS系ドラマ主題歌「獅子のごとく」に採用されてヒット。
この曲は、大橋純子自身最大のヒットとなり、同年末に行なわれた「第20回日本レコード大賞」金賞(大賞ノミネート)を獲得。
その後、「サファリナイト」もヒットします。

そして、1979年には、大晦日に行なわれた「第30回NHK紅白歌合戦」へ「ビューティフル・ミー」で初出場を果たします。

1981年11月には、「シルエット・ロマンス」を発売。
この曲は、同年の「第24回日本レコード大賞」で、最優秀歌唱賞を受賞します。

今日はその、1981年11月5日に発売された大橋 純子の通算18枚目のシングルである「シルエット・ロマンス」をどうぞ。
 
大橋純子 / シルエット・ロマンス

この曲の歌詞はこちら

「シルエット・ロマンス」(Silhouette Romance)というのは、恋愛小説の新書のレーベルで、この曲はそのイメージソングとして制作された楽曲です。

この曲は、発売当初の売れ行きは低調でしたが、翌年に入ってからじわじわと売れ始め、5月24日付のオリコンで最高位の7位を記録し、その後もロングヒットを続けます。
累計売上は48万枚で、またTBS系の音楽番組「ザ・ベストテン」でも、1978年の「たそがれマイ・ラブ」以来4年ぶりにランクインを果たしました。

大橋純子はこの曲で、1982年に開催された第24回日本レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞。
北島三郎と田中邦衛が特別ゲストとして祝福に訪れ、両者に見守られる中、熱唱しました。

なお、「和歌山毒物カレー事件」で逮捕された林眞須美(はやし ますみ)は、2006年に著書「死刑判決は『シルエット・ロマンス』を聴きながら 林眞須美 家族との書簡集」を出版。

この書籍のタイトルは、林眞須美の4人の子供が、ラジオ番組に「ママの大好きな曲」として「シルエット・ロマンス」をリクエストし、拘置所でその放送を聴いた林が声を出して泣いたエピソードが由来となっています。

また、「シルエット・ロマンス」の作曲者である来生たかおは、2009年に行なわれた自身のコンサートで、この本のことを話題に取り上げた後、この曲を披露しました。

「ルビーの指環/寺尾 聰」 - 第23回日本レコード大賞・FNS歌謡祭'81グランプリ受賞曲

今日は、寺尾 聰の「ルビーの指環」のご紹介です。

ルビーの指環 寺尾 聰 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

寺尾 聰(てらお あきら、1947年5月18日 - )は、神奈川県横浜市保土ケ谷区出身のベーシスト・シンガーソングライター・俳優です。
所属事務所は、ホリプロダクション→石原プロモーション→寺尾音楽事務所(自らの個人事務所)。
父は俳優の宇野重吉。女優の范文雀は元妻。

寺尾 聰は、少年期に洋楽に憧れ、エレキギターを入手して独学で練習します。
その当時影響を受けたミュージシャンの1人に、リッキー・ネルソンがいます。

そして1964年に、奥島吉雄らとカレッジ・フォーク・グループ「ザ・サベージ」を結成。
ベースギターを担当します。

1966年には、「いつまでもいつまでも」でレコードデビュー。
この曲は大ヒットしますが、すぐにグループを脱退してしまいます。

1968年に、三保敬太郎を中心としてザ・ホワイト・キックスというグループ・サウンズに参加。
このグループは、シングルを1枚出して解散します。
そして同年に、石原裕次郎製作・主演の映画である「黒部の太陽」で俳優デビュー。

1981年には、ヨコハマタイヤのCM曲だった「SHADOW CITY」に続き「ルビーの指環」が大ヒット。
この曲は、は第23回日本レコード大賞・FNS歌謡祭'81グランプリを受賞。
さらに、TBS「ザ・ベストテン」では、「ルビーの指環」「シャドー・シティ」「出航 SASURAI」が3曲同時にベストテンにランクインし、「ルビーの指環」12週連続1位の栄誉を讃えた真紅の記念シートも設置されました。

これを含めて、全曲を自らが作曲したアルバム「Reflections」は、当時のアルバムセールスを更新。
空前の大ヒットとなりました。

今日はその、1981年2月5日に発売された、寺尾 聰の通算6枚目のシングルである「ルビーの指環」をどうぞ。
 
ルビーの指環/寺尾 聰

この曲の歌詞はこちら

この大ヒットした「ルビーの指環」は、石原プロの関係者に聴かせたところ、「こんなお経みたいな曲が売れるわけがない」と専務の小林正彦が難色を示しましたが、社長の石原裕次郎の「いいじゃないの」の一言でレコード化が決定しました。

また、この曲がヒットし、「ザ・ベストテン」などで連続1位を取っていた頃、寺尾聰が父である宇野重吉に、家に帰った際にその事を報告したところ、宇野重吉は新聞に見入ったまま、「ふーん…」と素っ気ない返事をしました。
しかしながら、宇野重吉はいつも、「今日は何位だった?」と息子のことを陰ながら気にしていたといいます。

「ドールハウス/沢田聖子」 - 「キャンパススケッチ」でデビューした沢田聖子の1983年発売のシングル

今日は、沢田 聖子の「ドールハウス」のご紹介です。


写真は、こちらからお借りしました。

沢田 聖子(さわだ しょうこ、1962年3月13日 -)は、東京都中野区出身のシンガーソングライターです。
担当楽器は、ボーカル、ピアノ、ギター。

沢田 聖子は、1979年5月25日に、クラウンレコードから「キャンパススケッチ」でデビューをします。
当時、「イルカの妹」というキャッチコピーにより、産休から復帰したイルカのカムバックリサイタルのステージにも立ちます。

以後、ライブを中心とした音楽活動、パーソナリティ活動などを積極的に行ないます。

彼女が活躍を開始した1980年代初頭においては、若い女性のシンガーソングライターは希少な存在で、そのルックスも相まって、男性層からアイドル的人気を得ます。
そして、80年代の女性ニューミュージックシーンを変え、アイドル性をもったシンガーソングライターの草分け的存在となります。

1980年には、学園祭出演数No.1を記録し、「学園祭のプリンセス」と呼ばれます。

今日は、そんな沢田聖子の、1983年03月20日に発売された通算9枚目のシングルである「ドールハウス」をどうぞ。
 
ドールハウス/沢田聖子

この曲の歌詞はこちら

1970年代から1980年代にかけて、フォーク・ニューミュージック系の歌手はテレビには出演しないという一種の風潮のようなものがあった時代に、沢田聖子はライブを中心とした音楽活動を続けるかたわら、音楽番組にも数多くゲスト出演をしています。

1979年11月に、初の全国ネットフジテレビ系列『夜のヒットスタジオ』に出演し、「シオン」を歌います。
1998年10月6日~2000年9月26日に、KBS京都テレビにて毎週火曜日22:30-23:00に放送された「うわさの街WA!」では、立原啓裕との共演で、初のテレビ番組のレギュラーを務めます。

1993年10月3日~2004年3月28日に、TBS系列にて毎週日曜日7:30-8:00に放送された「笑顔がいちばん!」では、初の旅番組レポーターとして4回にわたって出演し、自らの楽曲「青空」「smile」「PRESENT」が番組のテーマソングとなります。