Super源さんの音楽ブログ

名曲紹介、作詞・作曲、音楽用語の楽しい覚え方、その他音楽にまつわることを書いていくブログです。可愛い音楽ブログパーツも配布しています。

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「涙の分かれ道/ディオンヌ・ワーウィック」 - グラミー賞を受賞した1979年のヒット曲

今日は、ディオンヌ・ワーウィックの「涙の分かれ道(I'll Never Love This Way Again)」のご紹介です。

涙の分かれ道 ディオンヌ・ワーウィック ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

ディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick、1940年12月12日 - 本名 Marie Dionne Warrick マリー・ディオンヌ・ワーリック)は、アメリカのニュージャージー州(New Jersey East Orange)出身の黒人女性歌手です。
バート・バカラック作品の歌い手として、またホイットニー・ヒューストンの従姉妹としても知られています。

ディオンヌ・ワーウィックは、ハートフォード音楽大学に在学中、作曲家のバート・バカラックと出会い、大学卒業後、歌手として本格的に活動を始め、1963年にデビューします。

翌年の1964年、「ウォーク・オン・バイ」のヒットで脚光を浴び、3年後の1967年に「小さな願い(I Say a Little Prayer)」のヒットを放ってからは、「サンホセへの道(Do You Know The Way To San Jos)」、「恋よさようなら(I'll Never Fall in Love Again)」など、現在もスタンダードとして親しまれているバカラック=ハル・デビッド作品で続けざまにヒットを放ちます。
 
「サンホセへの道/ディオンヌ・ワーウィック」 - 1968年の女性ベスト・ポップ・ヴォーカル賞受賞曲 歌詞の意味は?|Super源さんの音楽ブログ

「サンホセへの道/ディオンヌ・ワーウィック」 - 1968年の女性ベスト・ポップ・ヴォーカル賞受賞曲 歌詞の意味は?|Super源さんの音楽ブログ


今日は、「ディオンヌ・ワーウィック」の「サンホセへの道(Do You Know The Way To San Jose)」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。ディオンヌ・ワーウ


1970年代においては、1974年にスピナーズとの共演で「ゼン・ケイム・ユー(Then Came You)」がNo.1になりますが、その後はしばらく不振が続きます。
が、1979年にバリー・マニロウのプロデュースによる楽曲「涙の分かれ道(I'll Never Love This Way Again)」が久々のヒットとなり、この曲はグラミー賞(女性ベスト・ポップ・ヴォーカル賞)を受賞します。

それでは、今日はその「涙の分かれ道(I'll Never Love This Way Again)」をどうぞ。
 
涙の分かれ道(I'll Never Love This Way Again)/ディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick)

この曲の歌詞はこちら

いやー、いい曲ですねー。(^o^)
タイトルの「I'll Never Love This Way Again」というのは、翻訳すると「こんな風に愛することは、もう二度とない」となります。

素晴らしい歌詞に、素晴らしい曲。
そして、素晴らしい歌唱!
まさに、名曲だと思います。

その後1980年代においては、1982年にバリー・ギブ制作による「ハートブレイカー(Heartbreaker)」がヒット。
 
「ハートブレイカー(Heartbreaker)/ディオンヌ・ワーウィック」 - ノルウェーのアルバム・チャートで10週連続1位を獲得したヒット曲|Super源さんの音楽ブログ

「ハートブレイカー(Heartbreaker)/ディオンヌ・ワーウィック」 - ノルウェーのアルバム・チャートで10週連続1位を獲得したヒット曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、ディオンヌ・ワーウィックの「ハートブレイカー(Heartbreaker)」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。ディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick、1


そして、1986年には、バカラック&キャロル・ベイヤー・セイガーのライティングコンビによるグラディス・ナイト、エルトン・ジョン、スティーヴィー・ワンダーとの共演作「愛のハーモニー」が大ヒットします。

2007年には、自身のヒット曲をカバーしたCD「マイ・フレンズ・アンド・ミー~バート・バカラックへの想い」を発売。
グロリア・エステファン、グラディス・ナイト、オリビア・ニュートン・ジョン、シンディ・ローパーらと共演しました。

2008年には、ゴスペル集「Why We Sing」を発売。
ゲストは、妹のDee Dee、他 BeBe Winance 等で、ゴスペル集の発売は、1969年の「Soulful」についで2度目となります。

そうそう、涙といえば、感情の種類によって味が変わるということをご存知ですか?

イワシ区、じゃなかった、詳しくは以下のサイトへGo!( ^-^)/
 

涙は、感情の種類によって味が変化するって本当?


人は、悲しいときだけではなく、うれしいときにも笑ったときにも涙を流すことがあります。が、実は涙の成分は、そのときの感情によってそれぞれ異なるといいます。喜び、悔しさ、怒りを感じたときに出る涙は、量が少なく、塩化ナトリウムを多く含むので、塩辛くなります。感動したときに出る涙は、水分が多いため、サラサラとして味が薄く、あまり塩辛くなりません。【「たまごっち」に涙】...


ドコニ アルン ダヨ、ソノ イワシ区」ッテ。(-_-メ)/~~~~~バシィ!!(T/O) ウギャッ!

「Maybe(メイビー)/The Chantels」 - ビルボードホット100とビルボードR&Bチャート2位を記録したヒット曲!

今日は、The Chantels(ザ・シャンテルズ)の「Maybe(メイビー)」のご紹介です。


写真は、こちらからお借りしました。

The Chantels(ザ・シャンテルズ)は、1950年代の初めに、アメリカ、ニューヨーク州・ニューヨーク市ブロンクスで結成された、アフリカ系アメリカ人のガールDoowop(ドゥーワップ *)グループです。

The Chantels(ザ・シャンテルズ)は、1957年に 「He’s Gone(ヒーズ・ゴーン)」 でデビューをします。
全米ポップ・チャートは71位でしたが、翌年の1958年発売のセカンド・シングル 「Maybe(メイビー)」 は、ポップ・チャート15位、R&Bチャートでは2位を記録します。

彼らの音楽性は、当時の幾つかのグループとは異なり、クラシック音楽やラテン讃美歌の影響下にありました。
リード・シンガーのアーリーン・スミスは、古典的な訓練を受けたといわれています。

今日は、そんな彼らの、1958年のヒット曲であるその「Maybe(メイビー)」をどうぞ。
 
Maybe(メイビー)/The Chantels(ザ・シャンテルズ)

この曲の歌詞はこちら

この曲は、1957年10月16日に、バレットがピアノを弾くドゥーワップスタイルで最初に録音され、1957年12月に発売されました。

その翌年の1958年1月にチャートを上り、15位を記録しました。
ビルボードホット100 およびビルボードR&B チャートの2位となり、その後、ザ・シャンテルズは、

「間違いなく、ガールグループサウンドの最初の真のきらめき」

と表現されました。

この曲は、ジャニスジョプリン、スリーディグリーなど、多くのアーティストによってカバーされています。
最近では、韓国の女の子トリオ、TheBarberettesによってカバーされています。

* Doowop(ドゥーワップは、ポピュラー音楽における合唱のスタイルの一種。
1950年代半ばから1960年代初頭のアメリカで隆盛し、数多くのコーラス・グループが生まれた。
フランク・ザッパやルー・リード、ジョージ・クリントン、鈴木雅之、山下達郎らは、熱心なドゥーワップ・ファンとして知られている。

そうそう、山下達郎といえば、俳句の季語になっているのですが、ご存知でしたか?

ええ?!(゚o゚)そんなバナナ!

と思われた方は、以下のサイトへGo! (^_^)/~
 

「山下達郎」「ユーミン」「サザン」は、俳句の季語になっている?


「山下達郎」は夏と冬、「ユーミン」は冬、「サザン」は夏の季語として使えることをご存じですか?えっ! ウソ?と思えるような話ですが、これは本当です。句会「東京ヘップバーン」が「山下達郎」と「ユーミン」を季語に提案俳句の季語については、認定する特別の機関があるわけではなく、誰もが同じ季節を思い浮かべることができる言葉であれば問題ありません。「山下達郎」「ユーミン」「サザン」を季語とすることを提案したの...



「じゃかあしい! 四の五の言ってないで、このバナナ光線を受けてみよ!」

ゲッ!(゚O゚; 何か突然、変なおじさんが出てきましたね。(^^;

ニゲチャオーット...((((( ((;^^)


「真夜中のドア~Stay with me(まよなかのドア ステイ・ウィズ・ミー)/松原みき」 - 名曲のご紹介

今日は、松原 みきの「(まよなかのドア ステイ・ウィズ・ミー)」のご紹介です。

真夜中のドア~Stay with me 松原みき ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

松原 みき(まつばら みき、1959年11月28日 - 2004年10月7日)は、大阪府岸和田市の女性歌手、作詞家、作曲家です。
「スージー・松原(スージーまつばら)」という芸名を用いたこともあります。

松原 みきは、母親が「クレージーキャッツ」と一緒に歌った事もあるというジャズシンガーで、3歳からピアノを習い始め、ジャズに親しみました。

1972年に、堺市立平岡小学校からプール学院中学校に入学。
この頃からロックに興味を持ち、ロックバンド「愚麗」に加入し、演奏活動を始めます。

1975年に、プール学院高校に進学。
「吉野家バンド」のキーボーディストとして京都のライヴハウス磔磔で活動します。

1977年高3の時に、歌手デビューのため単身東京へ行き、文化女子大学附属杉並高等学校に転校。
米軍キャンプなど各地で演奏し、六本木のジャズスポット「バードランド」に飛び入りしたところを世良譲に絶賛されます。

そして、1979年11月5日にファーストシングル「真夜中のドア~Stay With Me」(まよなかのドア ステイ・ウィズ・ミー)でデビュー。複数の新人賞を受賞します。
以後、1991年1月21日までにカップリング曲を含むシングル17枚、ベスト盤を含むアルバム15枚を発表。
全国各地で演奏活動を展開します。

今日は、そんな松原 みきの、1979年11月5日に発売されたデビュー曲である「真夜中のドア~Stay With Me」をどうぞ。


真夜中のドア~Stay with me/松原みき

この曲の歌詞はこちら

この曲は、オリコン最高28位に入り、オリコン調べ10万4千枚、キャニオンレコード発表30万枚の売上げを記録しました。

エッ?(゚.゚)ヾ(^^)ネエネエ、「オリコン」って何? 「リモコン」の親戚?
(@_@)ウーン。
(@_@)ウーン。
(@_@)ウーン。
\(^o^)/ だっふんだ
ナンダイ ソレ ハ!(-_-メ)/~~~~~バシィ!!(T/O)

またこの曲は、シングルとアルバムとで、一部アレンジに違いがあります。
シングルバージョンでは、イントロに松原の歌声が入っており、アルバムバージョンではコーラスのみとなっています。
また、最終サビのリフレインが、アルバムバージョンはひとつ多く歌われています。
そのため、シングルバージョンに比べて、アルバムバージョンの方が15秒ほど演奏時間が長くなっています。