Super源さんの音楽ブログ

名曲紹介、作詞・作曲、音楽用語の楽しい覚え方、その他音楽にまつわることを書いていくブログです。可愛い音楽ブログパーツも配布しています。

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「夏色のナンシー/早見優」- コカ・コーラのCMソング オリコン7位を記録したヒット曲!

今日は、早見 優の「夏色のナンシー」のご紹介です。

夏色のナンシー 早見優 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

早見 優(はやみ ゆう、本名:福田 一美(ふくだ かずみ)旧姓、舘野(たての) 1966年9月2日 -)は、静岡県熱海市のタレント、歌手、女優です。父は、ジャズシンガーの井上良(いのうえ りょう)。

早見 優は、3歳から7歳まで、グアム、7歳から14歳まではハワイで育ちます。
学校での愛称は“キャシー”。

そして、1980年 14歳の時に、ハワイ三越デパートのエレベーターで「サンミュージックプロダクション」にスカウトされ、単身帰国し、「サンミュージック」と契約。日本のアメリカンスクールに通いながら、タレントとしてのレッスンを受けます。

1982年4月21日 ファーストシングル「急いで!初恋」でアイドル歌手としてデビューをします。
そして、同年の第24回日本レコード大賞新人賞を獲得。

翌年の1983年には、本人出演のコカ・コーラのCMに使われたシングルである、「夏色のナンシー」がオリコンチャート7位にランクイン。
この曲は、TBS系「ザ・ベストテン」などのチャート番組にもランクインするようになり、同年12月の「第34回NHK紅白歌合戦」にも初出場することになります。。

今日はその「夏色のナンシー」をどうぞ。

夏色のナンシー/早見優

この曲は、1983年度のコカ・コーライメージソングで、当初予定していたタイトルは、自身の愛称を用いた「夏色のキャシー」でした。
が、語呂をよくするため、「ナンシー」に変えられたということです。

キャッシーとナンシー
「ねえ、ナンシー。遊ぼうニャン」「何度言ったら分かるニャン。ミーの名前は、キャッ・シー」

この曲のCM版では、サビの部分を、当時コカ・コーラのキャッチフレーズだった「yes、coke、yes」に変えて歌われています。

また、2016年8月に発売された早見優のミニアルバム「Delicacy of Love」には、この曲のリミックス版が収録されており、間奏のコーラス部分には、早見優の2人の娘も参加しています。

「さよならルンバ/二葉 あき子」 - 1948年に発売されたヒット曲

今日は、二葉 あき子の「さよならルンバ」のご紹介です。

さよならルンバ 二葉 あき子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

二葉 あき子(ふたば あきこ、本名:加藤芳江 1915年2月2日 - 2011年8月16日)は、広島県広島市の女性歌手です。

二葉 あき子は、広島県立広島高等女学校(現在の広島県立広島皆実高等学校)を経て、1935年に東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)師範科卒業します。

音楽学校に在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で、同校に通う期待の生徒・増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受けます。
その増永丈夫は、すでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていました。

二葉 あき子のレコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコードで、卒業後は、地元の広島の三次高等女学校(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭をとります。
教師時代も、上京して学校用教材のレコードを吹込みます。

そして、1936年の春に、コロムビアの専属となります。
最初に発売したレコードは、「愛の揺り籃」でした。
その後「あの夢この夢」「月に踊る」「乙女十九」などで世に知られるようになり、1939年に、松竹映画『春雷』の主題歌「古き花園」が大ヒットしたことで、人気歌手としての声価を得ます。

これ以後、彼女の歌う多くのブルースがヒットするようになります。
また戦時中は、歌手として慰問活動をしています。

今日は、そんな二葉 あき子の、1948年11月に発売された「さよならルンバ」をどうぞ。
 この曲の歌詞はこちら

戦後は、「別れても」「夜のプラットホーム」「恋の曼珠沙華」、今日ご紹介した「さよならルンバ」、「村の一本橋」など、多くのヒット曲を放ち、特に1950年に発売された「水色のワルツ」は、綺麗なメロディーに二葉あき子の歌唱が良く合い、人々に潤いをあたえます。

NHK紅白歌合戦にも、1951年の第1回から1959年の第10回まで10回連続出場し、第6回では、代表曲のひとつである「バラのルムバ」で紅組トリを務めるなど、渡辺はま子・淡谷のり子・松島詩子・笠置シヅ子と並んで、創世記の紅白を代表する女性スターでもありました。

また、懐メロ歌手として、21世紀を超えてもなお活躍しましたが、2003年夏にファンのつどいにて引退を宣言し、故郷の広島に帰郷します。

引退した理由としては、難聴が進行し、バンドの演奏の音が聞き取りづらくなったことが理由であると伝えられています。

なお、曲名に同じく”ルンバ”がつく名曲としては、西田佐知子の「コーヒールンバ」があります。
もしもお時間が許せば、こちらも是非お聴きになってみてください。(^^)
 

「コーヒールンバ/西田佐知子」 - 1961年にメガヒットしたカバー曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、西田 佐知子の「コーヒールンバ」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。西田 佐知子(にしだ さちこ、本名:関口 佐智子。1939年1月9日 - )は、大阪府大阪市城東区出



「モンテカルロで乾杯/庄野真代」 - 「飛んでイスタンブール」に続く、オリコン5位を記録したヒット曲!

今日は、庄野真代の「モンテカルロで乾杯」のご紹介です。

モンテカルロで乾杯 庄野真代 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

庄野 真代(しょうの まよ、本名:庄野 眞代(読み方は同じ) 1954年12月23日 - )は、大阪府大阪市出身の歌手・シンガーソングライターです。
ルフラン所属。NPO法人国境なき楽団理事。

庄野 真代は、20歳のときに参加した「フォーク音楽祭」で、予選を次々と突破。
関西四国決勝大会でグランプリを獲得し、全国大会にてスカウトされます。

そして、1976年に、アルバム「あとりえ」でデビュー。
都会派ニューミュージックの歌手として、注目されるようになります。

そして、2年後の1978年に、代表曲「飛んでイスタンブール」が大ヒット。
同年大晦日の『第20回日本レコード大賞』中山晋平賞(のち作曲賞)を受賞し、また『第29回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たします。

庄野真代のヒット曲には、その他1978年の「モンテカルロで乾杯」「マスカレード」、1980年の「Hey Lady 優しくなれるかい」などがあります。

今日は、1978年7月10日に発売された「モンテカルロで乾杯」をどうぞ。
 この曲の歌詞はこちら

「モンテカルロで乾杯」の作詞はちあき哲也、作曲は筒美京平です。
この曲は、前作の大ヒット曲「飛んでイスタンブール」に続くシングルで、オリコチャートにおいて、最高順位5位、1978年度年間43位を記録。
庄野真代自身2番目のヒット曲となりました。

「モンテカルロ」というのは、西ヨーロッパ・モナコ公国の4つの地区(カルティエ)の1つで、同国の北東部・モナコ湾の北岸に位置する場所です。
モンテカルロはイタリア語で「シャルル3世の山」という意味で、彼の治世下で名づけられました。

モンテカルロでは、かつて歴史に残る大珍事が!

そうそう、モンテカルロといえば、1913年(日本の暦でいえば大正2年)に、ここにあるカジノのルーレットゲームで、なんと、黒の目が連続して27回も出るという大珍事がありました。

連続27回ですよ、27回!おお!(゚o゚)

数学的な確率を無視した、もはや神様のいたずらとしか思えない、文字通り人々が啞然とした出来事でした。

ご興味をもたれた方は、以下の記事をお読みになってみて下さい。(^^)
 
連続27回も黒の目を出し続け、誰もが啞然としたルーレットの目! - モンテカルロのカジノで起こった歴史に残る大珍事

連続27回も黒の目を出し続け、誰もが啞然としたルーレットの目! - モンテカルロのカジノで起こった歴史に残る大珍事


ルーレットで、赤が出るか黒が出るかは、それぞれ50%の確率です。しかしながら、1913年(大正2年)、モナコはモンテカルロのカジノで起こった大珍事は、その場に居合わせた人すべてを啞然(あぜん)とさせ、ギャンブラーたちのサイフをすっからかんにしました。それは、黒の目が15回も続けて出たことから始まったそれは、黒の目が15回も続けて出たことから始まりました。まわりのギャンブラーは、もうそろそろ赤が出る頃と、先を争う...


しかしこれ、ホント、信じられない出来事ですね!(・o・)
まさに驚嘆すべき出来事ですが、時としてこのようなことが起こるから、世の中って面白いのかも知れません。(@_@)ウーン