Super源さんの音楽ブログ

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「君の誕生日/ガロ」 - オリコン・シングルチャート第1位を獲得した名曲!

今日は、ガロの「君の誕生日」のご紹介です。

君の誕生日 ガロ ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

ガロ(GARO)は、1970年から1976年まで活動した、フォークロックグループです。

メンバーは、

・堀内護(MARK(マーク)、ボーカル、コーラス、ギター、マンドリン、シタール、ピアノ、スペリオパイプ)
・日高富明(TOMMY(トミー)ボーカル、コーラス、ギター、マンドリン、琴)
・大野真澄(ボーカル、コーラス、ギター、マンドリン、ピアノ)

の3人。

ガロは、全員が生ギターとボーカルを担当しているのが基本的な編成です。
1973年に、「学生街の喫茶店」、「君の誕生日」、「ロマンス」と立て続けにヒットを飛ばし、一世を風靡(ふうび)しました。

ガロは、元々は「CSN&Y(Crosby, Stills, Nash & Young(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング))」や「ブレッド」の影響下にあったバンドで、彼らのグループの楽曲もレパートリーに加えていたこともあり、当時はその卓越したコーラスワークとギターテクニックで「和製CSN&Y」と称されていました。

近年では、「ソフトロック」というジャンルにおいて、また、アルバム『CIRCUS』『吟遊詩人』ではプログレッシブ・ロック的な、そして、『三叉路』ではハード・ロック的なアプローチをしたこともあり、ロックバンドとしても再評価されています。

今日は、そんな「ガロ」の、1973年5月10日に発売された5枚目のシングルである「君の誕生日」をどうぞ。


君の誕生日/ガロ

この曲の歌詞はこちら

いい曲ですねー。(^o^)
間奏が「学生街の喫茶店」になっているのがちょっとアレですが…。テヌキ? (^x^) モゴモゴ
まぁ、この間奏があることで、ガロの曲だということが一発で分かってよいのですが、個人的には、この曲のオリジナルの間奏を、きちんと作って欲しかったと思います。

この曲は、発売から約1ヶ月後の、6月25日付けのオリコン・シングルチャートで第1位を獲得しています。

時系列上は、1972年10月に発売された「涙はいらない」の次作に相当しますが、1972年6月発売のシングル「美しすぎて/学生街の喫茶店」が、1973年2月~4月にオリコンのシングルチャートで7週連続1位を獲得するという状況下にあったため、この曲は実質的に「学生街の喫茶店」に次ぐシングルとなりました。

ちなみに、「ガロ」というグループ名は、当時ザ・タイガースのマネージャーで三人の世話役でもあった中井國二が、自分の子供にと考えていた「我朗」から名づけられました。

ガロのエピソード

・ガロは、きょうご紹介した「学生街の喫茶店」のヒットで知られていますが、前述したように、この曲はもともと「美しすぎて」のB面であり、「学生街の喫茶店」が人気が出たために、A面/B面を入れ替えた盤が、のちに発売されました。
また、この曲(レコード)のベースを弾いていたのは「宇野もんど」こと細野晴臣で、ドラムを演奏していたのは原田祐臣でした。

・当時、日本コロムビアのラジカセのブランドにも「GARO」というブランドがあり、CMソングに「学生街の喫茶店」を使われていたといいます。

・1972年、ガロは明治製菓(現・明治)「チェルシー」のコマーシャルソング『チェルシーの唄』を担当。
デビュー当時のAlfie(現在のTHE ALFEE)は、当時同じ事務所に所属しており、弟分的な位置づけでした。
ガロのライヴのスタッフをAlfieが務めたり、前座を行ったこともありました。THE ALFEEもまた、CSN&Yの影響下にあるバンドです。

・鈴木雅之は、日高の盟友小田和正の編曲による「地球はメリーゴーランド」をカバーしています。

・南こうせつは、「かぐや姫」を結成する際、ガロから影響を受けたと「フォーク・ソング」のライナーノーツに書かれています。

「過ぎてしまえば/森田公一とトップギャラン」 - オリコン54位を記録したヒット曲

今日は、森田公一とトップギャランの「過ぎてしまえば」のご紹介です。

過ぎてしまえば 森田公一とトップギャラン ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

森田公一とトップギャラン(もりた こういち と トップギャラン)は、1969年に結成された森田公一と5名のコーラスによる音楽グループです。

メンバーは、森田公一(ボーカル、キーボード、リーダー)、渡部玲子(ボーカル)、原田正美(ギター、元マグマックス・ファイブ、元ポニーズ)、岩田康男(ギター、元スケルトンズ、元レモンルーツ)、小原重彦(ベース、元マグマックス・ファイブ)、北村勝彦(ドラムス)。

森田公一とトップギャランは、エキスプレス/東芝音工(現・ユニバーサルミュージック)よりデビューをします。
その後、CBSソニーレコードに移籍。「青春時代」「人間はひとりの方がいい」「過ぎてしまえば」「惜春の歌」などのヒットを放ちます。

そして、1977年の第28回NHK紅白歌合戦に出場。1981年に解散します。

その後、1990年に、森田公一自身の作曲家30周年を記念して、「森田公一とトップギャラン2」として再結成します。
元Sugarのミキこと笠松美樹が、キーボード担当として一時期加わっていました(Sugarは87年に解散しています)。

今日は、そんな森田公一とトップギャランの、1977年8月に発売されたシングルである「過ぎてしまえば」をどうぞ。
 
過ぎてしまえば/森田公一

この曲は、当時オリコン最高位、54位を記録しています。

この曲の歌詞はこちら

2010年から、森田公一の抜けたトップギャランに、狩人の加藤久仁彦(かとう くにひこ)がリードボーカルとして加入し、「加藤久仁彦&トップギャラン」として活動を始めています。

バンド名の由来は?

バンド名の名付け親は、当時森田公一と同じ事務所に所属していたダークダックスの喜早 哲(ゲタさん)です。
「トップギャラン(Topgallant)」という名前は、帆船(はんせん)の上部に張られるマストの名称(トガンマスト、上檣(しょう))から来ています。
渡部玲子以外のメンバー全員が、バンドリーダーの経験者で、腕利きのミュージシャンの集合体だったことから名づけられました。

「Holiday(ホリディ)/Madonna」 - アルバム『Burning Up」に収録されている名曲

今日は、Madonna(マドンナ)の「Holiday(ホリデイ)」のご紹介です。

Holiday ホリディ Madonna マドンナ ジャケットイメージ
この曲の歌詞はこちら

マドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコーネ(本名:Madonna Louise Ciccone、1958年8月16日 -)は、アメリカのミシガン州出身のポピュラー音楽のシンガーソングライター、女優、映画監督、文筆家、実業家です。
愛称は、代表曲から来た「マテリアル・ガール (Material Girl)」、または「ポップスの女王」ともいわれます。

マドンナは、1980年代初頭のニューヨークのダンスクラブ・シーンに登場し、1982年にデビュー。

1984年に、シングル「ライク・ア・ヴァージン」が大ヒット。その大胆かつ挑発的なイメージで一躍世界的なメガスターとなります。

アルバムの代表作としては、『トゥルー・ブルー』、『ライク・ア・プレイヤー』、『レイ・オブ・ライト』などがあり、シングルの代表作に「ホリディ」、「クレージー・フォー・ユー」、「パパ・ドント・プリーチ」、「ライク・ア・プレイヤー」、「イントゥ・ザ・グルーヴ」、「ヴォーグ」、「ミュージック」、「ハング・アップ」などが挙げられます。

MTVの到来により人気を得たミュージック・ビデオを駆使しながらポップアートと音楽を融合し、当時日本では「マドンナ旋風」と呼ばれる現象的な成功を収めます。

そして、セックス・シンボルとして不動の位置を固めますが、その後、多様なイメージの変遷を繰り返し現在に至ります。
彼女の活動は音楽にだけにとどまらず、レコード会社の設立、映画や舞台への出演、そして近年では児童書の執筆や映画監督などをも行なっている。

さて今日は、そんなマドンナの、1983年7月23日に発売されたファーストアルバム『Burning Up(バーニング・アップ)」の中から、「Holiday(ホリデイ)」をどうぞ。


Holiday(ホリディ)/Madonna(マドンナ)

この曲の歌詞はこちら
訳詩はこちら

1982年に、ニューヨークのダウンタウンにて、無名の時に作られたデモテープ「エヴリバディ」をきっかけに、サイアー・レコードと契約を結び、その後の正式版「エブリバディ」の商業的成功でこのアルバムが作られました。

アルバムの制作は、レジー・ルーカスをプロデューサーとして行なわれますが、完成したものはとマドンナにとって満足の行くものではありません。
そこで、急遽、その当時につき合っていたジョン・"ジェリービーン"・ベニーテスを呼び、追加製作(多くの曲のリミックスと「ホリデイ」の製作)を行ない発売しました。

このアルバムには、リンドラム、モーグ、オーバーハイムOB-Xa等の当時の最新技術が詰め込まれており、新しい音色は特にダンスジャンルから歓迎されました。

この曲はBillboard 200において8位、欧州各国でも軒並みトップ10入りし、全世界で1000万枚を売り上げ、商業的には大成功します。
当時の批評は芳しくありませんでしたが、現在では1980年代を代表する作品の1つとして、再評価されています。