Super源さんの音楽ブログ

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「とびだせ初恋/浅野ゆう子」- 後に「セクシー・バス・ストップ」が大ヒットする浅野ゆう子のデビュー曲

今日は、浅野 ゆう子の「とびだせ初恋」のご紹介です。

とびだせ初恋 浅野ゆう子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

浅野 ゆう子(あさの ゆうこ、本名: 赤沢 裕子(あかざわ ゆうこ)、1960年7月9日 -)は、兵庫県神戸市の女優、歌手です。

浅野 ゆう子は、1974年に、アイドル歌手として「とびだせ初恋」でデビューをします。

そしてその後、「恋はダン・ダン」「ひとりぼっちの季節」と、シングルを発売していきます。
 

「恋はダン・ダン/浅野ゆう子」- 「第16回日本レコード大賞新人賞」を受賞した浅野ゆう子のヒット曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、浅野 ゆう子の「恋はダン・ダン」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。浅野 ゆう子(あさの ゆうこ、本名: 赤沢 裕子(あかざわ ゆうこ)、1960年7月9日 -)は、兵


しかしながら、当時の女性アイドルは、小柄であることが好ましいとされており、浅野ゆう子のように長身で日本人離れしたプロポーションのアイドルは、珍しい存在でした。
くわえて、ミニスカートやホットパンツなどでスタイルを強調していたため、女性からの反発を受けたこともあって、アイドル歌手としてはうまくいきませんでした。

そんな中、1976年04月25日に発売された8枚目のシングル「セクシー・バス・ストップ」が大ヒット。
この曲は、浅野ゆう子自身最大のヒット曲となります。
 

「セクシー・バス・ストップ/浅野 ゆう子」 - オリコン週間12位を記録! 浅野ゆう子最大のヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ


今日は、浅野 ゆう子の「セクシー・バス・ストップ」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。浅野 ゆう子(あさの ゆうこ、本名: 赤沢 裕子、1960年7月9日 -)は、兵庫県神戸市


そして、歌を実質休業状態になった1980年代からは、様々な会社の水着キャンペーンモデルなど企業広告で活躍。

ただし、水着での初出は1979年(昭和54年)のカネボウ化粧品CF「一気にこの夏チャンピオン」からで、1981年の洋酒の悩殺ポスターは、世の男性の目を楽しませます。



今日は、そんな浅野ゆう子の、1974年5月25日に発売されたデビュー曲である「とびだせ初恋」をどうぞ。
 
とびだせ初恋/浅野ゆう子

この曲のレコード・ジャケットは、脚の長さを強調したものですね。
13歳にしてはスタイル良すぎですが、昭和30年代風のおかっぱ頭と脚の長さがミスマッチという気も…。(^^;

浅野ゆう子は当時、「ジャンプするカモシカ」というキャッチフレーズで活動していました。
それで、このようなジャケットになったものと思われます。

浅野ゆう子のエピソード

浅野ゆう子は、若い頃はものまね番組にも出演し、風吹ジュン等のものまねを披露していました。

・1980年代後半から1990年代前半にデビューした俳優やお笑い芸人から、「バブル期の大御所」また「ボディコンといえばゆう子」と言われています。
バブル時代当時には、「ボディコンゆう子」の異名が業界に浸透していました。

・1991年の『NHK紅白歌合戦』では、気丈にも鼻の骨の骨折を隠しながら司会を続けるということがありました。

・フジテレビ系『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」において、20回出演の記録をもっています(2012年4月18日出演時点)。これは、和田アキ子(21回出演)に次いで、陣内孝則と並ぶ歴代2位の記録です。

・浅野ゆう子はマイケル・ジャクソンの大ファンで、1980年代の日本公演で追っかけをしたことがあり、神奈川県葉山のフランス料理店で食事を一緒にしたこともあります。

・あまり知られていませんが、浅野ゆう子は若手時代、TBS系の長寿クイズ番組『世界・ふしぎ発見!』の準レギュラー回答者でした(3枠または5枠席)。
これは、前任の女性の準レギュラー回答者だった和田アキ子の事実上の後任として、1986年10月から月1または月2ペースの出演でしたが、女優業が多忙になって出演が困難になったため、1989年頃の出演が最後となっています。

・2017年、年末に一般男性と結婚したことを公式サイトを通じて発表しました。

「想い出が多すぎて/高木麻早」 - 「ひとりぼっちの部屋」でデビューした高木麻早のセカンドシングル

今日は、高木 麻早の「想い出が多すぎて」のご紹介です。

想い出が多すぎて 高木麻早 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

高木 麻早(たかぎ まさ、1953年12月31日 - )は愛知県名古屋市出身のシンガーソングライターです。

高木 麻早は、高校生の頃からその歌唱力に注目され、名古屋出身のデュオ「チェリツシュ」の担当番組に出演依頼されたり、地元の名古屋では一目置かれる存在でした。

そして1973年5月に、ヤマハ第5回ポピュラーソングコンテストに出場し、「ひとりぼっちの部屋」で入賞。
『キューピットのささやき』を愛称に、関東ポニーからソノシートでプレキャンペーン。
同年9月10日には、同曲で「ヤマハ音楽振興会」所属でキャニオンレコードからデビューをします。

「ひとりぼっちの部屋」は、40万枚を超える売り上げとなり、ファースト・アルバム「高木麻早」は、オリコン新人賞を受賞します。

今日は、そんな高木 麻早の、1974年1月10日に発売されたセカンドシングルである「想い出が多すぎて」をどうぞ。
 
思い出が多すぎて/高木麻早

この曲の歌詞はこちら

この曲の作詞は北山修、杉田二郎、作曲は高木麻早、編曲は萩田光雄です。
曲の雰囲気が、前曲の「想い出が多すぎて」と非常によく似ていますね。
前曲も良かったですが、私はこちらの「思い出が多すぎて」の方が、さらに好きです。(^^)

高木 麻早の近況

2004年11月、オリジナルアルバム『True Love』を発売し、音楽活動を再開。
10年以上続いている名古屋ブルーノートでのLIVEは、毎回sold outで終了しています。

2011年[に、吉田幸弘監修の元で、嚥下機能低下防止ソングとしてリハビリ効果のある「ぱ」「た」「か」「ら」の音を含む替え歌「パンダのたからもの」が、高木麻早作詞・歌唱により発表。
制作されたCDは、高齢者福祉施設に配布されました。

2018年は、デビュー45周年のツアーを企画していましたが、イベント会社の不手際で日程が決定できず、2019年に記念コンサートを開催する予定となっています。

「太陽がいっぱい/松本伊代」 - オリコン14位を記録したヒット曲! 松本伊代の現在の年齢とお顔は?

今日は、松本 伊代の「太陽がいっぱい」のご紹介です。

太陽がいっぱい 松本伊代 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

松本 伊代(まつもと いよ、本名:小園 伊代(こぞの いよ) 1965年6月21日 -)は、東京都大田区出身のタレント、歌手、女優です。
夫はタレントのヒロミ、長男はタレントの小園凌央。

松本 伊代は、中学3年生のときに、原宿でスカウトされます。
そして、1981年にTBS系『たのきん全力投球!』の田原俊彦の妹役オーディションに合格し、デビューをします。
同年10月21日には、「センチメンタル・ジャーニー」で、アイドル歌手としてもデビュー。

当時のキャッチコピーは、「瞳そらすな僕の妹」「田原俊彦の妹」。

そして、1982年12月の「第24回日本レコード大賞新人賞」を始めとして、同年に多くの音楽新人賞を受賞します。

その後、『オールナイトフジ』の司会を務めるなど、バラエティ番組でも活動。
1986年からは、川村真澄・林哲司・船山基紀による「恋愛三部作」を発売します。

今日は、そんな松本伊代の、1983年6月1日に発売された通算7枚目のシングルである「太陽がいっぱい」をどうぞ。
 
太陽がいっぱい/松本伊代

この曲の歌詞はこちら

この曲は、オリコンチャートにおいて14位を、ザ・ベストテンにおいて同じく14位と1983年年間87位を記録しています。

松本伊代の年齢と、現在のお顔は?

そういえば、松本伊代って、現在何歳になったのでしょうか?
また、一体どのようなお顔になったのでしょうか?
ちょっと調べてみました。v(^^)

松本伊代 現在
松本伊代 最近 2022年
出典:https://sirabee.com/2022/02/25/20162805445/

松本伊代は、2022年現在57歳で、こんな顔になっているようです。
しかし若いですねー。w(゚゜)w オォーッ

管理人の感覚としては、ついこの間までアイドル歌手として活動していたイメージなのですが…、時がたつのは、本当に早いものです。(@_@)ウーン

松本伊代のその後と近況

1993年に、番組での共演がきっかけとなり、B21スペシャルのヒロミと結婚。
その後、2男の母となります。

2005年には、1982年の同期デビューだった早見優・堀ちえみとともにママドルユニット「キューティー★マミー」を結成。

2009年には、アイドル時代の12枚のオリジナルアルバム+ボーナスCD・DVDをまとめたBOXセット「SWEET 16 BOX」のボーナストラックとして、尾崎亜美作詞・作曲・プロデュースによる19年振りの新曲「私の声を聞いて」を発売。
配信限定ながら、シングルカットもされました。

2012年には、品川ステラボールでデビュー30周年記念コンサートを開催しました。

2017年には、2月11日に名古屋ブルーノートで、芸能生活35周年を記念したワンマンライブを開催しました。
地方におけるワンマンライブとしては、これが約25年ぶりとなるもので、終演後には「これからは気を引き締めて、このような形のライブも続けていきたいです」とコメントするなど、今後の音楽活動にさらなる意欲を示しました。

松本伊代、芸能生活35周年記念ライブを名古屋ブルーノートで開催 | OKMusic News
https://okmusic.jp/news/158191

松本 伊代のエピソード

・1982年、新人賞レースを争ったことから、当時は堀ちえみ、小泉今日子、中森明菜、早見優らと共に「花の82年組」の1人と呼ばれました。

・運動が全般的に苦手で、ボールがうまく投げられないなどのエピソードが披露されたこともあり、また、デビュー時は身長156cmに対して体重は38kgしかなく、軽過ぎて自動ドアが開かないこともあったといいます。

・1984年12月29日の放送のオールナイトフジで、自著と称する『伊代の女子大生 まるモテ講座』を宣伝した際、本の内容について質問をされ、「まだ読んでないのですけど」と発言してしまい、その場にいた片岡鶴太郎から「自分で書いた本なのにまだ読んでないとはどういうことか」と突っ込まれたことがあります。
この件については、「ゲラの状態で最終チェックはしましたが、製本になった状態を見たのはこの時が初めてだったので、(製本された本を)まだ読んでいないと発言した」と弁明をしましたが、後に、この弁明に関しても「嘘です」と白状しており、この本は、すべてゴーストライターによる代筆であったことを認めています。

・松本伊代は独特の低い声質が持ち味ですが、デビュー当初にスタッフから60年代に人気を博した海外の女性グループ「ロネッツ」のテープを渡され、良く聴いて勉強するようにいわれたと語っています。
ロネッツのフロントのロニー・スペクターが独特の低いハスキーボーカルが特徴の歌手で、加えて、松本伊代のデビュー時の楽曲が60年代調のために、スタッフが参考になると考えていた模様です。

・「マイ・ラグジュアリー・ナイト」のヒット曲で知られる歌手のしばたはつみは、松本伊代のはとこで、遠縁にあたります。


そうそう。松本伊代といえば、センチメンタルジャーニー」も名曲ですね。(^^)
もしもお時間が許せば、こちらも是非お聴きになってみてください。
 

「センチメンタルジャーニー/松本伊代」 - ロッテガーナチョコレート CMソング 松本伊代のデビュー曲にして最大のヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ


今日は、松本 伊代の「センチメンタルジャーニー」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。松本 伊代(まつもと いよ、本名:小園 伊代(こぞの いよ) 1965年6月21日 -)は、