Super源さんの音楽ブログ

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「ふりむかないで/シモンズ」 - オリコン37位を記録したヒット曲

今日は、シモンズの「ふりむかないで」のご紹介です。

ふりむかないで シモンズ ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

シモンズは、1971年に結成された田中ユミ、玉井タエの女性デュオです。

二人は、高校時代からベッツィ&クリスのカバーなどを歌ってライブ活動をしていましたが、高校卒業後に上京し、1971年、「恋人もいないのに」でデビューします。
この曲は、60万枚を超える大ヒットとなります。

「恋人もいないのに/シモンズ」 - 60万枚以上を売上げた、シモンズのデビュー曲にしてヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ

以前、シモンズの「ふりむかないで」をご紹介しました。 「ふりむかないで/シモンズ」 - オリコン37位を記録したヒット曲|Super源さんの音楽ブログ今日は、シモンズの「ふりむかないで

シモンズは、当時100曲を超えるコマーシャル・ソングを歌っていますが、なかでも明治製菓のチェルシーのCMソングは有名です。

 今日ご紹介する「ふりむかないで」は、デビュー年と同じ1971年に発表された曲です。

さて、それでは早速、1971年12月5日に発売された、シモンズの「ふりむかないで」をどうぞ。

ふりむかないで/シモンズ

この曲の歌詞はこちら

この曲は、オリコン最高順位37位を記録しています。

しかしこの曲、作詞、作曲ともに谷村新司だったんですね。ビックリ!(゚o゚)


「アリス」は、1972年3月5日に、シングル「走っておいで恋人よ」でデビューしたグループなので、この曲を発表した時点では、谷村新司はまだアリスデビュー前となります。

この曲は、少ない言葉と歌詞に美しいメロディを乗せた、当時のちんぺい作品のひとつの特徴です。

アレンジも秀逸で、70年代前半の歌謡曲寄りのフォークソングの名曲のひとつです。


「青い影(A Whiter Shade Of Pale)/プロコル・ハルム(Procol Harum)」 - 発売後たった2週間で売上げ枚数40万枚! イギリスのヒットチャート6週連続1位となったヒット曲!

今日は、「プロコル・ハルム」の「青い影」のご紹介です。

青い影 プロコル・ハルム ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

プロコル・ハルム(Procol Harum)は1960年代から1970年代にかけて活動した、イギリスのロックバンドです。

メンバーは、 ゲイリー・ブルッカー、ジェフ・ダン、マット・ペグ、ジョシュ・フィリップス、ジェフ・ホワイトホーン、ピート・ブラウン。

プロコル・ハルムは、デビュー曲「青い影(A Whiter Shade Of Pale)」(1967年)の世界的な大ヒットにより、一世を風靡します。

彼らの初期のサウンドを特徴つけるのは、ピアノとオルガンからなるツイン・キーボード編成です。
併せて、R&B的要素とクラシック的要素を融合させたその独特の音作りは、70年代のプログレッシブ・ロックの先駆をなしたとも評されています。

この、プロコル・ハルムというバンド名はラテン語で、「Beyond these things(ビヨンド・ジーズ・シングス)」という意味です。
当時プロデューサーが飼っていた猫の名前をもじったものと言われています。

また、R&B的要素とクラシック的要素を融合させた、彼らの独特の音作りは、70年代のプログレッシブ・ロックの先駆をなしたとも評されます。

特に、5部構成のロック組曲「In Held Twas in I」が収録されたセカンド・アルバム「月の光」(1968年)と、ポップな作風を指向したサード・アルバム・「ソルティ・ドッグ」(1969年)は、初期の佳作とされています。

その後、1969年にマシューがバンドを脱退すると、ジミ・ヘンドリックスに深く傾倒していたギタリストのロビン・トロワーの存在感が圧倒的となり、彼の奏でるギター・リフを前面に押し出したハードな楽曲が増加してきます。
link
それでは早速、1967年5月に発売された、「プロコル・ハルム」の「青い影」をどうぞ。

 
青い影(A Whiter Shade Of Pale)/プロコル・ハルム(Procol Harum)

この曲の歌詞はこちら

この曲は、発売後たった2週間で40万枚近くを売り上げ、イギリスのヒットチャートで6週連続1位を記録しました。

ちなみに、彼らのデビュー曲である「青い影」においては、オルガンが効果的に使われていますが、実は、私が昔エレクトーンを習おうと思ったきっかけは、この曲によるところが大きいです。


「花鳥風月/一世風靡セピア」 - 「前略、道の上より」でデビューした一世風靡セピアの1987年に発売されたシングル

今日は、一世風靡セピアの「花鳥風月」のご紹介です。

花鳥風月 一世風靡セピア ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

一世風靡セピア(いっせいふうびセピア)は、1980年代に活躍した男性路上パフォーマンス集団・劇男一世風靡から派生したユニットです。

メンバー は、小木茂光(おぎ しげみつ、リーダー)、哀川翔(あいかわ しょう)、柳葉敏郎(やなぎば としろう)、松村冬風(まつむら ふゆかぜ)、西村香景(にしむら かけい)、春海四方(はるみ しほう)、武野功雄(たけの いさお、中途退団)です。

一世風靡セピアは、1984年4月25日に、「今、我に正直に生きてみたい」でポスターデビュー(2万枚限定)し、その後音楽活動を開始します。そして、「前略、道の上より」や「汚れつちまった悲しみに」などのヒット曲を出しますが、1989年に解散します。

今日は、そんな一世風靡セピアの、1987年1月1日に発売された「花鳥風月」をどうぞ。

 

花鳥風月/一世風靡セピア この曲の歌詞はこちら

いやー、シブいですねー。(^o^)
この曲は、花鳥風月が発売した曲の中で、私が一番好きな曲です。
もう何度聴いたか、数え切れません。(^^)
Well, it's cool! (^o^)
This tune is my favorite of all the tunes released by Kacho-Fugetsu.
I can't count how many times I've listened to this. (^^)

一世風靡セピアの誕生の経緯とユニット名の由来

一世風靡セピアは、「劇男一世風靡」の中で、上の者が、

「歌やりたいヤツ手挙げろ」

とレコード発売などの活動をしたい者を募ったところ、手を挙げたのがこの7名で、そのまま一世風靡セピアとして結成されました。
この名前について、「SHIBUYA」のツアーパンフレットにあった柳葉のコメントによれば、

「それぞれの色を持った奴らを混ぜ合わせたらどんな色になるだろう」

というのがセピアの由来のひとつだったとしています。

NHK「紅白歌合戦」の主演依頼を蹴った一世風靡セピア

また、「夜のヒットスタジオ」への初出演が決まった際、

「来日アーティストのように、階段からメンバーが降りてくるような特別待遇にしろ」

との希望が通ったため、NHKから「紅白歌合戦」の出演依頼が届いた際にも、

「劇男一世風靡として寸劇を披露している渋谷のNHK前広場からの生中継にしろ」

との希望を出しましたが、あっさり拒否されたという話を、哀川翔が自著「俺、不良品」の中で書いています。

この時、メンバー内でも出るか出ないかを話し合いましたが、その結果、出たい者が3人で出たくない者が4人でした。
そのため、結果的に出演依頼を断ったのですが、哀川翔は「あんとき、出ときゃ良かった」と語っています。

なお、1984年の『ゆく年くる年』には出演しています。

中野英雄と勝俣州和は一世風靡セピアのメンバーではない

ちなみに、よく中野英雄や勝俣州和が一世風靡セピアのメンバーだと紹介されることがありますが、彼らはセピアの母体の「劇男一世風靡」のメンバーであり、セピアの付き人ではあるものの、メンバーではありません。