Super源さんの音楽ブログ

名曲紹介、作詞・作曲、音楽用語の楽しい覚え方、その他音楽にまつわることを書いていくブログです。可愛い音楽ブログパーツも配布しています。

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「さらば青春/小椋佳」 - 管理人一押し! 大阪ガス 神戸風景の企業CMソング

今日は、小椋佳の「さらば青春」のご紹介です。

さらば青春 小椋佳 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

小椋佳(おぐら けい、本名: 神田紘爾(かんだ こうじ)、1944年1月18日 -)は、東京都台東区上野出身のシンガーソングライター、作詞家、作曲家です。

小椋佳は、1971年に「しおさいの詩」でデビューをします。
当初は「さらば青春(1933年)」、「俺たちの旅(1975年)」などフォークソングの作り手の一人とみられていましたが、年を経るに従って、音楽ジャンルの枠を越え、美空ひばりの「愛燦燦(1986年)」、布施明の「シクラメンのかほり(1975年)」、アニメーション「銀河英雄伝説」のエンディング曲など、他歌手への作品提供も数多く手掛けています。

何よりも、小椋佳の情緒豊かなその美しい詩と馴染みやすいメロディー、そして透明感のあふれるその歌声で語りかけるように歌い上げる作品は、幅広い支持を得ています。

今日は、彼のその多くの作品の中から、「さらば青春」をどうぞ。
 
この曲の歌詞はこちら

いやー、いいですねー。(^o^)
明るさの中に切なさもある、素敵な曲です。(^-')

小椋佳は、初出場した1994年の「第45回NHK紅白歌合戦」で、この曲を歌唱しました。
この曲の作詞・作曲は小椋佳、編曲は小野崎孝輔です。

「さらば青春」は、1975年6月-7月に「みんなのうた」で取り上げられました。
映像は、大井文雄製作のアニメ制作で、アレンジは新しくされ、俳優の田中健が歌っています。
また、大阪ガスの神戸風景の企業CM曲として採用されています。

「蒼いピアニシモ/佐野量子」 - 初めてオリコン100位に入った佐野量子のヒット曲!

以前、佐野量子の「TOMORROW」をご紹介しました。
 

「TOMORROW/佐野量子」 - 1988年に発売された通産11枚目のシングルで、管理人の一押し曲!|Super源さんの音楽ブログ


今日は、「佐野量子」の「TOMORROW(トゥモロー)」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。 佐野 量子(さの りょうこ、1968年8月22日 -)は、静岡県富士宮市出身の元タ


今日は、もう一曲ご紹介したいと思います。

曲名は、「蒼いピアニシモ」です。

蒼いピアニシモ 佐野量子 ジャケットイメージ
写真はこちらからお借りしました。

この曲は、1985年に発売された、通算2枚目のシングルで、初めてオリコン100位に入った曲です。
作詞は秋元康、作曲は松尾一彦です。
リンク
それでは早速、「蒼いピアニシモ」をどうぞ。
 
蒼いピアニシモ/佐野量子

この曲の歌詞はこちら

心を揺さぶられる、素敵な曲です。(- . -)
この曲の作詞は、秋元康。さすが美しい歌詞ですね。
そして作曲は松尾一彦。こちらの記事にも書きましたが、この方は、ホントいい曲をたくさん書いていますね。

また、冒頭の語り(セリフ)の部分もグッときます。
残念ながら、この動画にはありませんが、内容は以下の通りです。
 
「蝶々は とても震えていました 愛すること それがどういうことなのか わからなくて 愛しかた それがどういうものなのか わからなくて だけどあなたが大好き ただそれだけを 繰り返して 言いました」

佐野量子の略歴(りゃくれき)

佐野量子は、高校在学中にタレント養成所に在籍していて、静岡から東京の養成所に毎週通う日々を送っていました。
そんな折、芸能事務所の社長の目にとまり、1984年10月に日本テレビ系ドラマ『気分は名探偵』で女優デビューを果たすことになります。

そして1985年4月21日に、「ファースト・レター」でアイドル歌手としてもデビュー。
 

「ファースト・レター/佐野量子」 - 1985年に発売された、佐野量子のデビューシングル!|Super源さんの音楽ブログ


以前、佐野量子(さのりょうこ)の「蒼いピアニシモ」をご紹介しました。 「蒼いピアニシモ/佐野量子」 - 初めてオリコン100位に入った佐野量子のヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ


女優で芸能界デビューした佐野量子ですが、実は歌手への憧れもずっと持ち続けていたといいます。

その後、所属事務所の方針転換に伴い、浅井企画に移籍。
同事務所の小堺一機(こざかい かずき)や関根勤(せきね つとむ)と共演する機会が増え、2人が佐野量子の天然行動や言動を拾ったことで、バラドルとしての活動が増えます。
が、1994年12月に、芸能界からの引退を表明します。

「夏休み/吉田拓郎」 - シングル「風をみたか」のB面に収録されている名曲! 「夏休み」に関する都市伝説は本当? また、「吉田拓郎死亡説」の真偽は?

以前、吉田拓郎の「カンパリソーダとフライドポテト」をご紹介しました。
 

「カンパリソーダとフライドポテト/吉田拓郎」 - アルバム『大いなる人』からシングルカットされた名曲!|Super源さんの音楽ブログ


今日は、吉田拓郎の「カンパリソーダとフライドポテト」のご紹介です。写真はこちらからお借りしました。 吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 - )は、鹿児島県大口市生まれのシンガーソ


今日は、もう一曲ご紹介したいと思います。

曲名は、「夏休み」です。リンク

夏休み
写真はこちらからお借りしました。

この曲は、1985年に発売されたシングル「風をみたか」のB面に入っている曲で、作詞・作曲ともに吉田拓郎自身です。

それでは早速、「夏休み」をどうぞ。( ^-^)/
 
夏休み/吉田拓郎

「夏休み」にはさまざまなバージョンが

この曲のオリジナルは、1971年に発売された『よしだたくろう オン・ステージ』に収録されています。
その後、さまざまなバージョンが、同じくアルバム収録曲として発売されています。
1989年には、シングル盤としても発売されています。

「夏休み」に関する都市伝説は本当?

「夏休み」は、ヒロシマ原爆投下に対するメッセージソングだという都市伝説があります。
しかしながら、吉田拓郎はオフィシャルサイトで以下のように強く否定しています。
 
「ただひたすらに子供だった時代の懐かしい夏の風景を描いた絵日記なのである。実在した鹿児島時代の"姉さん先生"も広島時代によく"トンボ獲り"で遊んだ夏もすべてが僕を育ててくれた"夏休み"なのだ」「反戦歌などでは断じて!ない!」
 
歌詞中に出てくる「姉さん先生」は、吉田拓郎が谷山町立谷山小学校(現在の鹿児島市立谷山小学校)に在籍していた当時、担任だった宮崎静子先生がモデルとなっています。

なおこの曲は、2019年10月からは、吉田拓郎が幼少期に過ごした谷山にある指宿枕崎線谷山駅の到着メロディとして流されています。

「吉田拓郎死亡説」の真偽は?

吉田拓郎はこれまで、のどや肺にがんを患ってきました。
2003年に肺がん、2014年には喉頭(こうとう)がん。
2003年の肺がんでは、肺の1/3を切除する手術を受けました。

その後しばらくはがんの再発もなく、安定した音楽生活を送っていました。
が、2014年に、今後はのどに白板症という異物が見つかり、これを取り除くため、手術をうけました。

そして、見事病気から復活した吉田拓郎は、2016年にステージに復帰。
その後大きな病気にかかることはなく、現在も音楽活動を続けています。

しかしながら現在、吉田拓郎は目立ったメディア露出がなく、テレビ番組にはあまり出演しません。

2003年に肺がんを患い、その手術を受けるために一時活動休止したことや、2009年の全国ツアーを慢性気管支炎で中止したこと、さらには、2014年にのどにがんを患ったことなどが重なってメディア出演がさらに減ったことなども合わさって、吉田拓郎死亡説や訃報の噂が浮上するようになったのです。