Super源さんの音楽ブログ

名曲紹介、作詞・作曲、音楽用語の楽しい覚え方、その他音楽にまつわることを書いていくブログです。可愛い音楽ブログパーツも配布しています。

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「雨のハイスクール/芳本 美代子」 - 「白いバスケット・シューズ」で歌手デビューした芳本美代子の1985年のヒット曲

今日は、「芳本 美代子」の「雨のハイスクール」のご紹介です。

雨のハイスクール 芳本 美代子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

芳本 美代子(よしもと みよこ、本名:金山 美代子(かなやま みよこ、旧姓:芳本 1969年3月18日 - ) は、山口県宇部市出身の女優、元アイドル歌手です。愛称はみっちょん。

芳本 美代子は、中学3年在学中の1983年に、KBC九州朝日放送主催のオーディション、第5回福岡音楽祭・新人登竜門ビッグコンテストに応募、本選に進むも無冠に終わります。
が、テレビ放送を見たテイチクレコードのスタッフにスカウトされ、山口から福岡に通う形で、歌のレッスンを始めます。

そして、1984年3月、芸映プロがマネジメントを引き受け、同年8月に上京。
翌年の1985年3月21日に「白いバスケット・シューズ(作詞:松本隆 作曲:井上大輔)」で歌手デビューを果たします。併せて、同年の各音楽祭で新人賞を獲得します。
 

「白いバスケット・シューズ/芳本 美代子」 - 石川秀美の妹分としてデビューした芳本美代子のデビュー曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、芳本 美代子の「白いバスケット・シューズ」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。芳本 美代子(よしもと みよこ、本名:金山 美代子(かなやま みよこ、旧姓:芳本 1969


1990年以降は、芸能活動の主体を歌からテレビドラマや舞台に切り替えて、数多くの作品に出演するほか、女優としてテレビドラマや舞台等で活躍しています。

今日は、そんな芳本 美代子の曲の中から、1985年9月11日に発売された、作詞:松本隆、作曲:財津和夫による「雨のハイスクール」をどうぞ。
 
雨のハイスクール/芳本 美代子

この曲の歌詞はこちら

芳本 美代子のシングルは、1985年から1990年までの間に19タイトルが発売され、オリコンチャートでは内5枚がベスト10入りをします。

最高位は、「ヴァニティ・ナイト」で、この曲の週間売り上げは第5位。
アルバムは、1985年から1989年までの間にオリジナル盤が10枚、ライブ盤が1枚で、ベスト盤は1986年-1989年に3枚と、2003年に1枚がそれぞれ発売されています。

オリコンチャートでは、内1枚がベスト10入りし、最高位は「WING」で、この曲の週間売り上げは第10位。

また、テイチク所属の女性アイドルの中で、1970年 - 1980年代にオリコンチャートでシングルベスト10入りしたのは、高田みづえと芳本美代子の2人だけで、アルバムチャートでベスト10に到達したのは芳本美代子ただ1人です。

TBSの「ザ・ベストテン」には、1986年に2曲が計2週チャートイン。最高位は「Auroraの少女」の8位と、「青い靴」の10位。

芳本 美代子のエピソード

・風見しんごは、小学校時代の先輩。

・デビュー当初憧れていた芸能人は石野真子、松田聖子、真田広之。

・若手時代にレコード会社対抗の運動会に出場したが、運動音痴であったため1回出場して以来期待されなくなった。

・芸能界で一番うれしかったことは、仕事で、何度も海外に連れて行ってもらったことだといいます。

・1980年代は。ジャニーズ系のアイドルと共演しただけで女性アイドルは異性のファンから嫉妬されてバッシングを受けることがありましたが、芳本美代子場合は同性のファンばかりだったので、そうした経験はありませんでした。
また、恋愛を疑われることとも、彼女の場合無縁だったといいます。

「恋心/相川七瀬」 - 売上枚数112.9万枚! ミリオンヒットを達成したヒット曲!

今日は、相川七瀬の「恋心」のご紹介です。

恋心 相川七瀬 ジャケットイメージ
写真は
こちらからお借りしました。

相川 七瀬(あいかわ ななせ、出生名:佐伯 美咲(さえき みさ)1975年2月16日 -)は、歌手、カラーセラピストです。

相川 七瀬は、1990年、15歳の頃に、工藤静香の「嵐の素顔」でソニー主催のオーディションを受け、不合格となりますが、この時、後にトータルプロデューサーとなる織田哲郎と出会います。

1992年、高校を中退してアルバイトをしていた17歳の頃、「DREAMS COME TRUE」や「QUEEN」などの音楽を聴きあさり、歌手になる決心をします。
織田哲郎に連絡を取って上京し、歌手デビューのためにボイス・トレーニングを開始します。

そして、1995年11月、織田のプロデュースによる「夢見る少女じゃいられない」で念願の歌手デビュー。
 

「夢見る少女じゃいられない/相川七瀬」 - 40万枚近くを売上げた、相川七瀬のデビュー曲にしてヒット曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、相川七瀬の「夢見る少女じゃいられない」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。相川 七瀬(あいかわ ななせ、出生名:佐伯 美咲(さえき みさ)1975年2月16日 -)は、


1996年には、ファーストアルバム「Red」をリリース。このアルバムは、オリコンのアルバムチャート初登場で一位を獲得し、現在までに270万枚を超すダブル・ミリオンヒットを記録しています。同年年末には第47回NHK紅白歌合戦に初出場し、「夢見る少女じゃいられない」を披露します。

1997年、7月にアルバム「paraDOX」発売、この作品もオリコン初登場一位獲得、現在までに180万枚を売り上げています。

今日は、そんな相川 七瀬の曲の中から、1996年10月7日に発売された通算5枚目のシングルである「恋心」をどうぞ。
 
恋心/相川七瀬

この曲は、オリコンチャートにおいて相川七瀬自身最高位の2位を獲得。3週連続TOP3入りし、5週間連続で10万枚以上を売上げ、12週目で自身初のミリオンヒットを達成。
現時点での累計売上枚数は112.9万枚で、最大の売上枚数となっています。

相川七瀬 シングル売上TOP20

相川七瀬のシングル売上TOP20は、以下の通りです。

順位タイトル発売日最高順位
1恋 心1996年10月07日2位
2トラブルメイカー1997年02月13日2位
3Sweet Emotion1997年05月01日2位
4夢見る少女じゃいられない1995年11月08日12位
5BREAK OUT!1996年06月05日4位
6LIKE A HARD RAIN1996年04月17日8位
7彼女と私の事情1998年02月04日6位
8Nostalgia1998年05月08日7位
9Bad Girls1997年11月12日5位
10Lovin’ you1998年11月06日8位
11バイバイ。1996年02月07日19位
12COSMIC LOVE1999年03月17日6位
13世界はこの手の中に/Heat of the night1999年07月23日7位
14midnight blue2000年05月31日10位
15China Rose1999年12月08日13位
16SEVEN SEAS2000年08月09日10位
17Jealousy1999年09月29日8位
18NO FUTURE2001年01月31日15位
19「仮面ライダー剣(ブレイド)」オープニング・テーマ Round ZERO ~BLADE BRAVE2004年02月18日11位
20~ dandelion ~2001年01月31日17位
出典:https://www.oricon.co.jp/prof/230423/rank/single/

「ルビーの指環」 - 名曲のご紹介

今日は、寺尾 聰の「ルビーの指環(ルビーのゆびわ)」のご紹介です。

寺尾 聰(てらお あきら、1947年5月18日 -)は、神奈川県横浜市保土ケ谷区出身の俳優、歌手、ベーシスト、シンガーソングライターです。俳優・宇野重吉は実父。

寺尾 聰は、1964年、奥島吉雄らとカレッジ・フォーク・グループ※「ザ・サベージ」を結成し、ベースギターを担当。1966年に「いつまでもいつまでも」でレコードデビューし、大ヒットしますが、すぐにグループを脱退。

1968年、三保敬太郎を中心とした「ザ・ホワイト・キックス」というグループ・サウンズに、同じくベーシストとして参加しますが、このバンドはシングル「アリゲーター・ブーガルー」の1枚を出して解散。

同年にはまた、石原裕次郎製作・主演の映画「黒部の太陽」で俳優としてデビュー。
これを機に、寺尾 聰は石原裕次郎の門下となり、石原軍団の若手有望株として、主にテレビドラマに出演することになります。
役どころとしては、青春ものドラマなどで二枚目半的な役柄を演じることが多く、また、「大都会」では新聞記者、「大都会 PARTIII」、「西部警察」など、石原プロモーション制作のアクションドラマでは刑事役で活躍します。

1981年には、ヨコハマタイヤのCM曲だった「シャドー・シティ」に続き、「ルビーの指環」が大ヒット。この曲は、第23回日本レコード大賞・FNS歌謡祭'81グランプリを受賞します。

今日はその、「ルビーの指環」をどうぞ。


ルビーの指環/寺尾聰

ちなみに、こ曲の誕生した経緯について、寺尾聰によれば、「飲食店のカウンターに残されていたマッチ箱をシャカシャカと振っているうちに、リズムパターンとメロディを思い浮かんだ」とのことです。

※グループサウンズ(GS)が流行っている頃に、大学生の間で流行っていたフォークソングを総称して、カレッジフォークと呼んでいます。