Super源さんの音楽ブログ

名曲紹介、作詞・作曲、音楽用語の楽しい覚え方、その他音楽にまつわることを書いていくブログです。可愛い音楽ブログパーツも配布しています。

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「ぼくたちの失敗/森田 童子」 - 100万枚に迫る大ヒットとなった、ドラマ「高校教師」の主題歌

今日は、森田 童子の「ぼくたちの失敗」のご紹介です。

ぼくたちの失敗 森田 童子 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

森田 童子(もりた どうじ、本:不詳 1952年1月15日 - 2018年4月24日)は、東京都出身の女性シンガーソングライターです。

森田 童子は、1975年に、アルバム「グッドバイ」、シングル「さよならぼくのともだち」でデビューをします。
その後、主にライブハウスを中心に活動し、1983年までにアルバム7枚、シングル4枚を発売。
が、同年の新宿ロフトでのライブを最後に、引退を宣言することなく活動を休止します。

カーリー・ヘアにサングラスというスタイルで、コンサートはもちろんレコードのジャケットなどでも、その素顔を見せることはありませんでした。
本名は非公開のうえ、実生活についてもほとんど公表せず、作詞した歌詞の内容もありのままの実体験ではなく、自身の願望を投影したものであるとしており、普段も寡黙で、独特の世界観を表現した作品に自分の生活感を滲ませることを避けていたとされています。

今日は、そんな森田 童子の曲の中から、1976年11月21日に発売された「ぼくたちの失敗」をどうぞ。
 
ぼくたちの失敗/森田 童子

この曲の歌詞はこちら

この曲は、テレビドラマ「高校教師」の主題歌に使われて、話題となりました。
1993年1月に、テレビドラマ「高校教師」の主題歌として、1976年発売のシングル「ぼくたちの失敗」が使われたことで、この曲のシングルCDは100万枚に迫る大ヒットとなりました。

これに伴い、同年3月にベスト盤『ぼくたちの失敗 森田童子ベスト・コレクション』がCDで発売され、続いて同年4月には、オリジナル・アルバム7枚がCDで再発売されたため、活動当時を知らない若い世代を含めて、 森田童子は新たに多くのファンを獲得します。

さらに、同年11月には、映画版『高校教師』の主題歌として「たとえばぼくが死んだら」が使われ、シングルカットされて発売されました。

森田童子の略歴

・1973年に、西荻窪ロフトでライブハウスデビュー。以降、ライブハウスを中心に活動する。

・1975年10月に、シングルレコード「さよなら ぼくの ともだち」で、ポリドール(現:ユニバーサルミュージック合同会社)からメジャーデビュー。1980年に、ポリドールからワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)へ移籍。

・1975年~1983年までの間にアルバム7枚、シングル4枚を発売。同年のアルバム『狼少年 wolf boy』と、1984年の新宿ロフトでのライブを最後に音楽活動を休止します。

・2018年4月24日未明、心不全のため自宅で死去。享年(きょうねん)66歳。活動休止後は主婦として暮らしていました。音楽関係者の話として「体調を崩して2017年から入退院を繰り返し、退院後間もなく逝去(せいきょ)した」「公表するつもりはなかった」と報道されました。

「折鶴(おりづる)/千葉紘子」 - 「恋する女に悔いはない」でデビューした千葉紘子の、オリコン第9位を取得したヒット曲!

今日は、千葉 紘子の「折鶴(おりづる)」のご紹介です。


写真はこちらからお借りしました。

千葉 紘子(ちば ひろこ、本名:同じ 1944年11月19日 -)は北海札幌北出身の女性歌手、教育関係者です。

千葉 紘子は、1970年2月に、大阪万国博覧会の第3回全国カンツォーネコンクールで優勝し、翌年の1971年7月に「恋する女に悔いはない」でデビューをします。

そして、その翌年の1972年7月に発売した「折鶴」が大ヒット。この曲は、オリコンチャート最高位第9位を取得します。

1980年以降は、ラジオパーソナリティとして活躍中で、FM東京の「ステレオ歌謡バラエティ」、NHKラジオ第1放送「はつらつスタジオ505」などを担当。
また、当時「ルックルックこんにちは」の名物コーナー「ドキュメント女ののど自慢」の審査員も務めています。

今日は、1972年8月25日に発売された、作詞・安井かずみ、作曲・浜圭介による「折鶴」をどうぞ。
 
折鶴(おりづる)/千葉紘子

この曲の歌詞はこちら

いかにも昭和歌謡という感じの、抒情的で素敵なメロディー。
千葉紘子の声の質、歌唱の良さも相まって、とても素敵な楽曲に仕上がっていると思います。

なんと、『折り鶴』は小柳ルミ子のカバー曲だった!

そうそう。今これを書いている私自身、とても驚いたことがあります。
この曲の作曲者は、てっきり『わたしの城下町』、『お祭りの夜』、『瀬戸の花嫁』、『京のにわか雨』などの名曲を次々に生み出した平尾昌晃作の作曲かと思いきや、なんと、『石狩挽歌』などの作曲で知られる「浜圭介」だったのです!

おぉ~~~っ!。w(゚゜)w

さらに、この「折り鶴」は、千葉紘子のオリジナルではなく、なんと、もともと小柳ルミ子の曲だったのです。

おぉ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!。w(゚゜)w

実は、「折り鶴」は、1973年(昭和48年)8月に発売された小柳ルミ子のオリジナルアルバム「京のにわか雨~はるかなるこころのふるさと」に収録されていた曲でした。
それを、その後千葉紘子がカバーし、大ヒットしたのがこの曲だったのです。

おぉ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!。w(゚゜)w
オイオイ!(( o. O; w ドコマデ 飛ンデク ノ。

千葉紘子は教員免許を持ち、全国少年院へ慰安も

ちなみに、千葉紘子は中学校の教員免許を持っており、歌手活動に加えて少年の育成にも携わっています。
1983年には法務省の篤志面接委員に、1990年には保護司に就任し、全国各地の少年院などへの慰問や、院生のカウンセリングを行なっています。

「池上線(いけがみせん)/西島 三重子」 - 名曲のご紹介

今日は、西島 三重子の「池上(いけがみせん)」のご紹介です。

西島 三重子(にしじま みえこ、本名:西嶌、1950年8月17日 -)は東京都中野区出身のシンガーソングライター、絵本・エッセイの執筆者です。

西島 三重子は、アマチュアグループ「カウンセラーズ」のヴォーカルとして、渋谷西武チャオパルコの「サウンド・フェスティバル」に出場し、自作曲である「のんだくれ」を歌ったところ、ワーナー・パイオニアのディレクターに認められて、1975年9月5日にアルバム「風車」とシングル「のんだくれ」でデビューをします。

そして、翌年の1976年4月25日発売された、2枚目のシングル「池上線」がヒット。
この曲は、超ロングヒットとなり、西島 三重子の代表曲となります。

今日は、その代表曲である「池上線(いけがみせん)」をどうぞ。


池上線(いけがみせん)/西島 三重子

ちなみに、池上線は、東京都品川区の五反田駅と大田区の蒲田駅とを結ぶ東京急行電鉄(東急)が運営する路線総延長10.9 kmの鉄道路線で、1922年(大正11年)10月6日に、池上電気鉄道により蒲田 - 池上間 (1.8km)を結ぶ路線として 操業開始しました。