Super源さんの音楽ブログ

名曲紹介、作詞・作曲、音楽用語の楽しい覚え方、その他音楽にまつわることを書いていくブログです。可愛い音楽ブログパーツも配布しています。

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「キープ・ミー・ハンギン・オン/ザ・シュープリームス」 - ビルボードホット100で2週連続1位を記録したヒット曲!

今日は、ザ・シュープリームスの「You Keep me Hangin On(キープ・ミー・ハンギン・オン)」のご紹介です。

キープ・ミー・ハンギン・オン ザ・シュープリームス ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

ザ・シュープリームス(The Supremes)は、アメリカの黒人系女性ボーカル・グループです。
結成は1959年、解散は1977年で、全盛期は1964年から1969年までの5年間です。
当時日本では、「シュープリームス」と表記されていましたが、近年は「スプリームス」と表記されることが多いです。が、より正確には「ザ・スプリームズ」です。

ザ・シュープリームスは、1959年に「ザ・プライメッツ(The Primettes)」として結成されます。
オリジナルメンバーは、ダイアナ・ロス、メアリー・ウィルソン、フローレンス・バラード、ベティ・マグロウンの4人です。
が、ベディは、すぐバーバラ・マーティンに替わり、そのバーバラも抜けて、1961年に「ザ・スプリームス」と改名してモータウンと契約した頃には3人組となっていました。

シュープリームスは、モータウンの社長ベリー・ゴーディ・ジュニアの強力なプッシュを受け、ホーランド=ドジャー=ホーランドの作曲・プロデュースの下でヒットを連発。
そして、1964年の「Where Did Our Love Go? (邦題:愛はどこへ行ったの)」が、初の全米No.1ヒットとなったのを皮切りに、シングルが5作連続全米No.1を記録、スプリームスは一躍全米のアイドルグループとなります。

その後、1969年のダイアナ脱退前の最後のシングルとなった「Someday We'll Be Together(邦題:またいつの日にか)」まで、合計12作の全米No.1ヒットを生み出します。

1967年には、フローレンスが脱退して代わりにシンディ・バードソングが加入。
グループ名も、「ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームス(Diana Ross & the Supremes)」と変わります。

今日は、そんな「シュープリームス」の、1966年のヒット曲である「You Keep Me Hangin' On(邦題:恋はおしまい)」をどうぞ。
 
You Keep Me Hangin' On(キープ・ミー・ハンギン・オン)/Diana Ross & the Supremes(ダイアナ・ロス&ザ・スプリームス)

この曲の歌詞はこちら

この曲 は、シュープリームスの1966年のシングルで、作曲はホーランド=ドジャー=ホーランドです。
グループの8番目のナンバーワンシングルであり、Billboard Hot 100において、1966年11月13日から11月27日まで1位の座を保ちました。

「ユー・キープ・ミー・ハンギン・オン」は、その後もロッド・スチュワート、ヴァニラ・ファッジ、ボックス・トップス、カラーボックス、リーバ・マッキンタイア、キム・ワイルド、アレサ・フランクリンなどの、さまざまなアーティストによってカバーされています。

「あずさ2号/狩人」 - 累計80万枚を売上げた狩人のデビュー曲

今日は、狩人の「あずさ2号」のご紹介です。

あずさ2号 狩人 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

狩人(かりゅうど)は、愛知県岡崎市出身の兄・加藤久仁彦(かとうくにひこ)と弟・加藤高道(かとうたかみち)2人による兄弟デュオです。

狩人は、1977年3月25日に、「あずさ2号」でデビューをします。
この曲は、いきなり大ヒットとなり、また、同年暮れに行なわれた第19回日本レコード大賞など、数々の新人賞を受賞し、人気となります。

狩人は、「あずさ2号」でサンレモ音楽祭などにも出場。
その後も「コスモス街道」「若き旅人」「アメリカ橋」などのヒットにより、スター歌手の地位を築きます。

毎年年末に行なわれるNHKの紅白歌合戦には、1977年・第28回(あずさ2号)、1978年・第29回(国道ささめ雪)に2年連続で通算2回の出場を果たします。

それ以降は大きなヒットには恵まれませんでしたが、ドラマやCMに楽曲が採用され、特に1994年歌謡バラエティー番組「THE夜もヒッパレ」への出演で再ブレイク。
翌年、「あずさ2号(ニュー・ヴァージョン)」を発売し、その後二人は歌手以外に自らの才能の範囲を広げようという意図から、それぞれ歌手・舞台俳優としてのソロ活動も行うようになります。

今日は、そのデビュー曲である「あずさ2号」をどうぞ。
 
あずさ2号/狩人

この曲の歌詞はこちら

「あずさ2号」ってどんな曲?

歌詞の内容は、都会での愛する人との暮らしに終止符を打ち、新しい恋人と新宿駅で特急「あずさ2号」に乗って信州へ旅立とうとするヒロインの、複雑な心の内が描かれています。

そして、曲の前半部分は、しっとりとした曲調ですが、サビの部分では、それとは正反対の曲調となっています。
これが、「より効果的に、女心のアヤを際立たせ」ることになり、多くの人々の心を捉えたのです。

この曲は、累計80万枚(オリコンの集計では約50万枚)を売上げて1977年の大ヒット曲となり、新人歌手であった狩人を、一躍スターの座に押し上げます。

「狩人」という名前の由来は?

「狩人」という名前の由来は、二人の恩師である作曲家、都倉俊一から、「いつまでも大ヒットという獲物を狙い続けるハンター(狩人)であれ」と言われて名づけられたものです。

狩人のその後

2012年7月に、狩人は再結成を発表。
同年8月18日には、NHKテレビ「思い出のメロディー」で「あずさ2号」を歌唱。
同年11月6日の「NHK歌謡コンサート」では、『コスモス街道』を歌唱。
現在、兄弟2人は、狩人としての活動と同時に、ソロ活動も平行して行なっています。
2018年7月頃、加藤久仁彦の所属事務所である(株)トップカラーに移籍。

「ブーツをぬいで朝食を/西城秀樹」 - オリコン週間7位を記録したヒット曲! ライターアクション&闘病生活とその最期も紹介

今日は、西城 秀樹の「ブーツをぬいで朝食を」のご紹介です。

ブーツをぬいで朝食を 西城秀樹 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

西城 秀樹(さいじょう ひでき、本名:木本 龍雄(きもと たつお)1955年4月13日 - 2018年5月16日)は、広島県広島市出身の歌手、俳優です。

西城 秀樹は、1972年3月25日に、シングル「恋する季節」で「ワイルドな17歳」のキャッチフレーズと共に歌手デビューをします。
片仮名の「ヒデキ」の愛称で人気となった西城 秀樹は、「チャンスは一度」以降、当時マイクを持って直立不動の姿勢で歌う歌い方が主流であった歌謡界に、アクション旋風を巻き起こします。

そして、1973年に「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入り。
一躍トップアイドルの仲間入りを果たし、郷ひろみ、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれます。

1973年6月25日には、5枚目のシングル「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入り。
その後、「ちぎれた愛」、「愛の十字架」が続けてオリコン週間チャートの第1位に輝き、「第15回日本レコード大賞」では初の歌唱賞を受賞します。

1979年には、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」で「Y.M.C.A.」の4文字を全身で表現するパフォーマンスを披露します。
 

「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)/西城秀樹」 - オリコン1位!売上げ80.8万枚を記録したヒット曲!|Super源さんの音楽ブログ


今日は、「西城 秀樹」の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」(ヤングマン ワイ・エム・シー・エー)のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。西城 秀樹(さいじょう ひでき、本


今日は、そんな西城秀樹の、1978年1月1日に発売された23枚目のシングルである「ブーツをぬいで朝食を」をどうぞ。
 
西城秀樹 / ブーツをぬいで朝食を

この曲の歌詞はこちら

この曲は作曲家大野克夫による初めての作品で、1978年1月にスタートした「ザ・ベストテン」で、ピンク・レディーの「UFO」に続き、初の第1位に輝きました。
オリコンチャートにおいては、週間7位と1978年度年間65位を記録しています。

ライターアクションが人気に

また、この曲のイントロにて、西城 秀樹がライターに火を点けるアクションがあり、これが人気となりました。


写真はこちらからお借りしました。

が、TV局に、

「子どもが真似をして危険だ!」「けしからん!」

という苦情が殺到。

実際、子供が真似をして火事が起きるということがあったため、西城 秀樹本人が、番組中に、

「良い子のみんなは、絶対真似しないでください」

と訴え、このアクションは取りやめになりました。

「ボク、ブーツを買ってもらっちゃったよ」ブーブー
ブーツを履いた ブタ
写真は、こちらからお借りしました。

追記:2018.5.17

西城秀樹の闘病生活とその最期

2003年6月21日に、公演先の韓国で脳梗塞を発症します。
軽度の言語障害という後遺症は残りましたが、闘病の末復帰し、2006年9月27日に、3年ぶりに「めぐり逢い/Same old story - 男の生き様 -」が両A面で発売されます。

2011年12月20日に、脳梗塞が再発し、2週間ほど入院します。
半身麻痺と微細な言語障害の後遺症が残りましたが、リハビリに励み、少しずつ歩行の状態などが改善していきます。

2018年4月25日に、自宅にて一家団欒中に倒れ、緊急入院。
懸命の治療が行なわれましたが、翌月の5月16日23時53分に、急性心不全で神奈川県横浜市内の病院で死去。享年63歳でした。