Super源さんの音楽ブログ

名曲紹介、作詞・作曲、音楽用語の楽しい覚え方、その他音楽にまつわることを書いていくブログです。可愛い音楽ブログパーツも配布しています。

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「ジプシー・クイーン/中森明菜」 - 名曲のご紹介

今日は、中森明菜の「ジプシー・クイーン」のご紹介です。

ジプシー・クイーン 中森明菜 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

中森 明菜(なかもり あきな、本名:同じ 1965年7月13日 -)は、東京都大田区生まれ、清瀬市育ちの歌手、女優です。

中森 明菜は、1982年5月1日にシングル「スローモーション」でデビューをします。
キャッチフレーズは、「ちょっとエッチな美新人娘(ミルキーっこ)」。

同年7月には、ファースト・アルバム「プロローグ〈序幕〉」を発売。このアルバムは、オリコン週間アルバムランキングの10月4日付で最高位5位を記録します。

続いて発売された2枚目のシングル「少女A」は、オリコン週間シングルランキングの10月18日付で最高位5位を記録。
中森明菜は、この曲でブレイクすることになります。

そして、続いて同年11月に発売された3枚目のシングル「セカンド・ラブ」は、11月29日付の同チャートで初の週間1位を獲得。くわえて1983年の同社年間シングルチャートで8位を記録し、約77万枚を売り上げるヒットとなります。

今日は、そんな中森明菜の、1986年5月26日に発売された通算15枚目のシングルである「ジプシー・クイーン」をどうぞ。


ジプシー・クイーン/中森明菜

この曲は、TBS系音楽番組「ザ・ベストテン」では1986年6月19日と1986年6月26日の2週連続で最高順位1位を記録後、1986年7月10日の放送でも通算3週目となる1位を記録します。
また、オリコン週間シングルチャートにおいては、1986年6月9日付で初登場・最高順位ともに1位を記録し、同チャートの100位以内においては計16週に渡ってランクイン。1986年度のオリコン年間シングルチャートでは、7位を記録しました。

「ドラマティック・レイン/稲垣 潤一」 - オリコン8位を記録したヒット曲!

今日は、稲垣 潤一の「ドラマティック・レイン」のご紹介です。


写真は、こちらからお借りしました。

稲垣 潤一(いながき じゅんいち、本名同じ、1953年7月9日 -)は、宮城県仙台市宮城野区出身の歌手、ミュージシャンです。

稲垣 潤一は、中学生の時に本格的なバンド活動を始め、仙台にて「フェイセス」を結成します。
その後、仙台のライブハウスや横須賀や立川の米軍キャンプ等で演奏を続けていましたが、1982年(昭和57年)に「スーパーポップボーカル」というキャッチコピーで、「雨のリグレット」でデビューし、その後は、「246:3AM」「ドラマティック・レイン」「エスケイプ」「夏のクラクション」「ロング・バージョン (single version)」と、次々とヒットを飛ばしていきます。

「思い出のビーチクラブ」(1987年のカナダドライ・ジンジャーエールCMソング)、「セブンティ・カラーズ・ガール」(1989年初春のカネボウ化粧品CMソング)、「APRIL」(1986年三洋電機)などのCMソングもたくさんあります。

また、映画「アイ・ラヴ・ユー」の音楽監修も務め、主題歌・挿入歌を担当しています。

今日は、1982年10月21日に発売された通算3枚目のシングルである、「ドラマティック・レイン」をどうぞ。
 
稲垣潤一 / ドラマティック・レイン 投稿者 jrapaka4

稲垣潤一は、「雨のリグレット」(チャート65位)でデビューしましたが、2作目の「246:3AM(にーよんろく:スリーエイエム)」がチャートインしなかったため、レコード会社はヒットメーカーの筒美京平に作曲のオファーをします。

そして作られたこの曲は、チャート最高位8位、半年にわたりチャートインするヒットとなり、稲垣にとって、またこの曲を作詞した秋元康にとっても、初のヒット曲となります。

なお、秋元康は、この作品のヒットで得た作詞印税でBMWを購入し、そのクルマを「ドラマティック・レイン号」と名づけて乗っていた、というエピソードも残っています。

「やさしさに包まれたなら/松任谷 由実」 - 名曲のご紹介

今日は、松任谷 由実の「やさしさに包まれたなら」のご紹介です。

やさしさに包まれたなら 松任谷 由実 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

松任谷 由実(まつとうや ゆみ、本名:同じ。旧姓:荒井 由実(あらい ゆみ1954年1月19日 -)は、東京都八王子市出身のミュージシャンです。愛称はユーミン(Yuming)。夫はアレンジャーの松任谷正隆。

松任谷 由実は、14歳の時に、プロとしての初めての仕事でスタジオでのピアノ演奏をします。
以後、スタジオで演奏をしながらオリジナルの曲を書き、15歳で作詞家としてデビュー。1971年には、17歳で作曲家としてデビューをします。その作品は、彼女を本格的なデビューへと誘った加橋かつみ(元ザ・タイガース)へ提供した「愛は突然に…」です。

1972年7月5日には、「返事はいらない」で荒井由実として歌手デビュー。
翌年の1973年11月に、ファーストアルバム「ひこうき雲」を発売。
当時、TBSラジオの深夜放送番組である「パックインミュージック」金曜日の第2部を担当していたパーソナリティ、林美雄の絶大な支持を受けて知名度が上がり、翌1974年から本格的にステージ活動を開始します。

1975年10月に発売されたシングル「あの日にかえりたい」(TBSドラマ「家庭の秘密」主題歌)は、初のオリコンチャート1位を獲得。1976年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、第一次ブームを迎えます。

6年後の1981年6月に発売されたシングル「守ってあげたい」は、同年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、第二次ブームが到来。
その年のアルバム「昨晩お会いしましょう」以降のオリジナルアルバムは、17枚連続でオリコン1位を獲得し、1987年のアルバム「ダイアモンドダストが消えぬまに」以降は9作連続のミリオンセラーとなります。

今日は、歌手デビュー2年後の1974年4月20日、「荒井由実」時代に発売された通算3枚目のシングルである、「やさしさに包まれたなら」をどうぞ。