Super源さんの音楽ブログ

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「精霊流し(しょうろうながし)/さだまさし」 - 第16回日本レコード大賞作詩賞受賞曲 精霊流しとは?

今日は、グレープの「精霊流し(しょうろうながし)」のご紹介です。

精霊流し さだまさし ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

グレープは、高校時代からの音楽仲間であり、友人であったさだまさし(ボーカル・ギター・ヴァイオリン)と吉田正美(現・吉田政美、ギター)が1972年に結成したフォークデュオです。

グレープは、1973年に「雪の朝」でデビューします。
が、この曲は8000枚しか売れず、友人たちがレコードを買い込んで。知り合いに無理に買わせるといった状況だったといいます。

翌年の1974年4月25日に2枚目のシングル「精霊流し」を発表しますが、まだ無名のフォークデュオであったためか、当初の売り上げはこちらも今一でした。

が、東海ラジオの深夜番組「ミッドナイト東海」の中で、この曲をいたく気に入ったアナウンサーの蟹江篤子が、自分の担当曜日で毎週のように流し続けたことが功を奏し、この番組の放送エリアである名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、ついには、この年の第16回日本レコード大賞作詩賞を受賞するに至ります。
こうした経緯から、さだまさしは、蟹江篤子を恩人として慕っています。

また、当時グレープが一世を風靡した要因のひとつとしては、ヴァイオリンを弾く、というさだまさしの演奏スタイルが珍しかったということもあります。

今日は、その「精霊流し」をどうぞ。
 
精霊流し(しょうろうながし)/さだまさし

この曲の歌詞はこちら。

曲の内容は、タイトル通り、毎年8月15日に長崎県で行われる精霊流しを題材としたものです。
直接的には、さだまさしの母方の従兄が水難事故で亡くなってしまったときの精霊流しの思い出がモチーフとなっています。

この曲の初回プレスは4500枚でしたが、累計では30万枚を売り上げ、グレープの代表曲となりました。
後に、さだまさしが自伝的小説として書き下ろし、テレビドラマおよび映画化されました。

2010年には、故郷の長崎県にて、さだまさし自身が喪主となり、実父の精霊流しを執り行ないました。
精霊流しを知らない人が、精霊流しを「灯籠流し」のことだと誤解していることもあります。

また、1976年にグレープは解散しますが、その理由は、グレープの音楽は暗いというイメージがついてしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)が生じたためとのことです。
さだまさしは、解散コンサートにて、解散の理由を、「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べています。
 

「無縁坂/グレープ」 - ドラマ「ひまわりの詩(ひまわりのうた)」主題歌 「無縁坂」は東京都文京区湯島四丁目に実在する坂|Super源さんの音楽ブログ


今日は、グレープの「無縁坂」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。グレープは、高校時代からの音楽仲間であり、友人であったさだまさし(ボーカル・ギター・ヴァイオリン)と吉田正美(現


精霊流しとは?

ちなみに、精霊流し(しょうろうながし)というのは、盆前に死去した人の遺族が、故人の霊を弔うために手作りの船を造り、船を曳きながら街中を練り歩いて極楽浄土へ送り出す、という長崎の伝統行事です。

初盆を迎えた故人の家族らが、盆提灯や造花などで飾られた精霊船(しょうろうぶね)と呼ばれる船に故人の霊を乗せて、「流し場」と呼ばれる終着点まで運びます。

当日は、夕暮れ時になると町のあちらこちらから「チャンコンチャンコン」という鐘の音と、「ドーイドーイ」の掛け声や、耳をつんざくほどの爆竹の音が鳴り響き、行列は夜遅くまで続きます。

精霊流し1

精霊流し2  精霊流し3
写真は、こちらからお借りしました。

精霊船は山車(だし)を連想させる華美なもので、見物客が集まります。
精霊流しは、爆竹で死者を送るというその一種の派手さから「お祭り」と誤解されることもありますが、あくまで故人を追悼する仏教の行事です。

「愛のハーモニー(That’s What Friends Are For)/ディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick)」 - 名曲のご紹介

今日は、「ディオンヌ・ワーウィック」の「愛のハーモニー(That's What Friends Are For)」のご紹介です。

愛のハーモニー ディオンヌ・ワーウィック ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

ディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick、1940年12月12日 - 本名 Marie Dionne Warrick マリー・ディオンヌ・ワーリック)は、アメリカのニュージャージー州(New Jersey East Orange)出身の黒人女性歌手です。バート・バカラック作品の歌い手として、またホイットニー・ヒューストンの従姉妹としても知られています。
姉妹は共にR&BシンガーのDee Dee Warwick、Judy Clay(義理の姉妹)で、二人ともディオンヌ・ワーウィックよりディープなソウル・シンガーです。

ディオンヌ・ワーウィックは、ハートフォード音楽大学に在学時、主専攻で音楽教育、副専攻でピアノを専攻します。そして、ニューヨークのレコーディングスタジオでバックコーラスやデモ歌手などをしている時に、作曲家のバカラックと出会います。
大学卒業後、歌手として本格的に活動を始め、1963年にデビューします。

翌年の1964年に「ウォーク・オン・バイ(Walk On By)」のヒットで脚光を浴びたディオンヌ・ワーウィックは、3年後の1967年に「小さな願い(I Say a Little Prayer)」でヒットを放ちます。
その後は、「サンホセへの道(Do You Know The Way To San Jose)」、「恋にさようなら(I'll Never Fall in Love Again)」など、現在もスタンダードとして親しまれているバカラック=ハル・デビッド作品で続けざまにヒットを放っていきます。

1970年代においては、1974年にスピナーズとの共演で「ゼン・ケイム・ユー」がNo.1になるもののしばらく不振でした。
が、1979年にバリー・マニロウのプロデュースによる「涙の分かれ道(I'll Never Love This Way Again)」が久々のヒット曲となりグラミー賞を受賞します。

1980年代においては、1982年にバリー・ギブ制作による「ハートブレイカー」がヒット。
1986年には、バカラック&キャロル・ベイヤー・セイガーのライティングコンビによるグラディス・ナイト、エルトン・ジョン、スティーヴィー・ワンダーとの共演作「愛のハーモニー」が大ヒットします。

今日はその「愛のハーモニー」をどうぞ。


愛のハーモニー(That's What Friends Are For)/ディオンヌ&フレンズ(Dionne Warwick and Friends)

この曲の歌詞はこちら
訳詞は、こちらのブログで紹介されています。

「愛のハーモニー」は、バート・バカラックとキャロル・ベイヤー・セイガーが制作した楽曲で、オリジナルは、1982年の映画「ラブ IN ニューヨーク」のサウンドトラックに収録され、ロッド・スチュワートが歌いました。

また、この曲は今日ご紹介した「ディオンヌ&フレンズ(ディオンヌ・ワーウィックとグラディス・ナイト、エルトン・ジョン、スティーヴィー・ワンダー)」によるカバー・バージョンで知られており、このバージョンは、米国エイズ研究財団のためのチャリティーシングルとして、1985年にイギリスとアメリカで発売され、300万ドル以上の収益を上げます。
エルトン・ジョンはピアノを、スティーヴィー・ワンダーはハーモニカを演奏しています。

この曲は、Billboard Hot 100において、チャートイン3週目の1986年1月に1位に上がったあと、4週連続1位を記録します。そして、1986年のBillboard年間チャートにおいて1位のシングルとなります。

「狂った果実(くるったかじつ)/アリス」 - 40万枚を売り上げた1980年のヒット曲

今日は、アリスの「狂った果実(くるったかじつ)」のご紹介です。

狂った果実 アリス ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

アリス(Alice、ALICE)は、1971年に結成された、フォークグループ、バンドです。

メンバーは、谷村新司(たにむらしんじ、チンペイ/リードボーカル、ギター)、堀内孝雄(ほりうちたかお、ベーヤン/ボーカル、ギター)、矢沢透(やざわとおる、キンちゃん/ドラム)。

アリス結成のきっかけは、1970年に行なわれたアメリカコンサートツアーで、大阪のフォークグループ、「ロック・キャンディーズ」のリーダーだった桃山学院大学出身の谷村新司と、東京のソウルバンド、「ブラウン・ライス」のゲストドラマーだった矢沢透が知り合い、意気投合したのがきっかけです。

デビュー当初はあまり売れませんでしたが、地道なツアー活動等の懸命な努力の結果、「帰らざる日々」「冬の稲妻」「涙の誓い」「今はもうだれも」「帰らざる日々」「遠くで汽笛を聞きながら」「さらば青春の時」「夢去りし街角」「ジョニーの子守唄」「チャンピオン」「秋止符」「狂った果実」「それぞれの秋」等、たくさんのヒット曲を放ちます。

そして、1978年には、日本人アーティストとして初めて日本武道館3日間公演を成功させるなど、一時代を築きます。

のみならず、日本武道館では、その後活動を停止するまでの間何回も公演し、他に後楽園球場、甲子園球場、横浜スタジアム、といった当時の野球場や、東京厚生年金会館大ホール、大阪フェスティバルホールといった全国の主要な音楽ホールなどを軒並みに満員にするほど、アリスは多数のファンを獲得していきます。

今日は、そんなアリスの、1980年7月5日に発売された通算18枚目のシングルである「狂った果実(くるったかじつ)」をどうぞ。( ^-^)/
 
狂った果実/アリス

この曲の歌詞はこちら

作詩:谷村新司、作曲:堀内孝雄によるこの曲は、ポリスター移籍第1弾となる作品で、1980年の年間第38位にランクされ、40万枚を売り上げました。

また、アリスは全盛期は、「NHK紅白歌合戦」に一度も出場しませんでした。
その理由は、かつてアリスとしてNHKの番組オーディションに応募して落選した経緯があるため、声がかかっても「意地として断っていた」とのことです。

ちなみに、映画監督の根岸吉太郎は、この曲をモチーフにして「狂った果実」という同名の成人映画を製作し、この映画は1981年ににっかつより公開されました。
なお、この映画は1956年に日活で制作された、中平康監督、石原裕次郎・北原三枝・津川雅彦主演による石原慎太郎原作の同名映画「狂った果実」との関連性はありません。

【「狂った果実」って?】
「狂った果実」って?