Super源さんの音楽ブログ

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「夢見る少女じゃいられない/相川七瀬」 - 40万枚近くを売上げた、相川七瀬のデビュー曲にしてヒット曲

今日は、相川七瀬の「夢見る少女じゃいられない」のご紹介です。

夢見る少女じゃいられない 相川七瀬 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

相川 七瀬(あいかわ ななせ、出生名:佐伯 美咲(さえき みさ)1975年2月16日 -)は、歌手、カラーセラピストです。

相川 七瀬は、1990年、15歳の頃に、工藤静香の嵐の素顔」でソニー主催のオーディションを受け、不合格となりますが、この時、後にトータルプロデューサーとなる織田哲郎と出会います。

1992年、高校を中退してアルバイトをしていた17歳の頃、「DREAMS COME TRUE(ドリームズ・カム・トゥルー)」や「QUEEN(クイーン)」などの音楽を聴きあさり、歌手になる決心をします。
織田哲郎に連絡を取って上京し、歌手デビューのためにボイス・トレーニングを開始します。

そして、1995年11月、織田哲郎のプロデュースによる「夢見る少女じゃいられない」で念願の歌手デビュー。
織田哲郎は、相川七瀬をトータルプロデュースするにあたって、それまでの「前向きなガール・ポップ」に対し、「前向きじゃないダークなロック」を全面に打ち出します。

1996年には、ファーストアルバム「Redレッド)」を発売。
このアルバムは、オリコンのアルバムチャート初登場で1位を獲得し、現在までに270万枚を超すダブル・ミリオンヒットを記録しています。
同年年末には第47回NHK紅白歌合戦に初出場し、「夢見る少女じゃいられない」を披露します。

1997年7月にはアルバム「paraDOX(パラドックス)」を発売、この作品もオリコン初登場1位を獲得し、現在までに180万枚を売り上げています。

今日は、そんな相川 七瀬の、1995年11月8日に発売されたデビュー曲である「夢見る少女じゃいられない」をどうぞ。
 
夢見る少女じゃいられない/相川七瀬

この曲の歌詞はこちら

この曲は、織田哲郎がプロデュースしたことと、ビーイングのスタジオを使用したことで、当初はビーイングプロデュースと間違われたことが多くありました。
織田哲郎が全面プロデュースした最初の作品でもあります。
白黒で、しかも相川七瀬の顔のほとんどに髪がかかっていて見えないこのジャケット写真には反対意見も多かったですが、織田哲郎の一存で、結局この形となりました。
この曲は、デビュー曲にもかかわらず、40万枚近くを売上げ、相川七瀬自身4番目のヒット曲となりました。

相川七瀬は、2000年にはプロデューサーを布袋寅泰に変え、それまでとは異なる曲調のロックを歌うようになります。

2004年2月には、2年半振りにアルバム「7 seven(セブン)」を発売。
同月22日にNHKホールで行なわれた「日中友好歌謡祭」に出演し、「愛ノ詩 -マジェンタレイン-」を歌う様子が中国でも実況中継されます。
同年3月には、カラーセラピー本「恋のダイス&ルーレット」と不思議体験を綴った「バリコワ」を出版。

また、5月8日からは、約4年振りとなる全国ホールツアー「Live Emotion "7 seven"」を、7月からは毎年恒例のライブTOUR AIKAWA NANASE "7 seven" THE GIG '04を行ないます。
7月には、イギリスやアイルランドでJennifer Ellison(ジェニファー・エリソン)による相川七瀬の「バイバイ」をカバーした“Bye Bye Boy”がヒットし、イギリスのチャートでは13位となりました。

そして、2013年2月16日に、ソロとしては4年ぶりのオリジナル・アルバム「今事記」を発売します。


ちなみに、相川七瀬の芸名の「相川」は、地元近くにある阪急電鉄の相川駅に由来しています。
また、相川七瀬は左の首筋にLove or Die(ラブ オア ダイ)と刻まれたタトゥー(入れ墨)を入れています。
また、タトゥーはもう一ヶ所、左手首にも入れています。

「夜明けのスキャット/由紀さおり」 - 150万枚のミリオンセラーを達成したヒット曲!

今日は、由紀さおりの「夜明けのスキャット」のご紹介です。

夜明けのスキャット 由紀さおり ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

由紀 さおり(ゆき さおり、本名・旧芸名:安田 章子(やすだ あきこ)、1948年11月13日 -)は、群馬県桐生市出身の歌手、タレント、女優、ナレーターです。
姉は、歌手の安田祥子(やすだ しょうこ)。

由紀 さおりは、少女時代から姉と共に本名の「安田章子」の名前で童謡歌手として活躍していましたが、1965年にキングレコードから本名名義で「ヒッチハイク娘」で歌手デビューをします。

ヒッチハイク娘
ヒッチハイク娘
写真は、こちらからお借りしました。

が、ヒットに恵まれず、童謡歌手時代からの仕事であるCM曲や、テレビ・ラジオ主題歌の吹き込み、また「大人の世界を歌えるように」という修行の意味合いもあって、キャバレー・ナイトクラブへの出演を行ないながら雌伏の時を過ごします。

1969年、東芝音楽工業(現・ユニバーサル ミュージック EMI Records Japanレーベル)から再デビュー作となった「夜明けのスキャット」を発売。

この曲は、もともとTBSラジオの深夜ラジオ番組「夜のバラード」のオープニングとして制作されたもので、当初はレコード化の予定はありませんでした。が、リスナーからの問い合わせが相次ぎ、シングルの発売が企画されました。

発売後、この曲は大ヒットとなり、最終的には150万枚のミリオンセラーを達成。
同年の暮れには、「第20回NHK紅白歌合戦」で、念願だったNHK紅白歌合戦初出場を果たします(以降1978年・第29回まで10年連続出場)。

そして翌年の1970年には、続いて発売された「手紙」も6週連続1位、1970年度年間6位となる大ヒットとなり、「第12回日本レコード大賞」の「歌唱賞」を受賞します。

その後も、「生きがい」「故郷」「ルーム・ライト」「挽歌」「ふらりふられて」「う・ふ・ふ」「トーキョー・バビロン」などのヒット曲を放ち、その確かな歌声は「酔い覚ましの清涼剤」との評価を受けます。

1980年代は、テレビの司会者・タレント・女優としての活躍も目立ち、彼女のマルチな才能がさらに発揮されていきます。
1982年には「おもしろサンデー」へ桂文珍と共に司会として出演。
1983年には松田優作主演の「家族ゲーム」でお惚けな母親役を演じ、日本アカデミー賞助演女優賞を受賞。
1987年には、朝の連続テレビ小説「チョッちゃん」で主人公の母親役を演じ、流暢な方言を披露します。

今日は、そんな由紀さおりの、1969年3月10日に発売されたシングルである「夜明けのスキャット」をどうぞ。
 
夜明けのスキャット/由紀さおり

この曲の歌詞はこちら

「夜明けのスキャット」は、タイトル通り、1番はほとんどが「ルー、ルールルルー…」というスキャットで占められているという、それまでになかったタイプの曲です。
それにもかかわらず、この年の「第11回日本レコード大賞・作詩賞」を受賞します。

このような、前例のない曲がヒットした理由として、発売後にラジオの深夜放送で頻繁にかけられたことが挙げられます。※
また、作曲家の平尾昌晃は、「昭和歌謡1945~1989 歌謡曲黄金時代のラブソングと日本人」(廣済堂新書)の中で、この曲について以下のように述べています。

「昭和30年代だったら、歌詞のほとんどない、ただ「ルー」とか「ラー」で歌っている歌をレコードで発売するなんて、まったく考えられなかっただろう。それが発売されるやいなや、150万枚を越すミリオンセラーになったばかりか、さらにその40年後に世界で注目されるのだから、やはり、歌は「時代」を生きていくのだ」

また、2009年4月8日に放送されたTBS系音楽番組「あなたが聴きたい! 歌の3時間スペシャル」では、この曲の1番に歌詞がない理由として、もともとこの曲が深夜ラジオ番組内のBGMに使われていたためであると紹介されています。


なお、この曲のメロディーについて、当時、大橋巨泉がサイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」との類似性を指摘し、「これは明らかに盗作である」といっています。


サウンド・オブ・サイレンス(Sound of Silence)/サイモンとガーファンクル(Simon & Garfunkel)


※泉麻人著「僕の昭和歌謡史」(講談社文庫刊)において、この曲について、「大ヒットする直前頃に深夜放送でよくかかっていた」と述べています。

「オペラグラスの中でだけ/村田恵里」- 1985年に発売されたアイドル歌手としてのデビュー曲

今日は、村田 恵里の「オペラグラスの中でだけ」のご紹介です。

オペラグラスの中でだけ 村田恵里 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

村田 恵里(むらた えり、1968年11月27日- )は、三重県四日市市出身の元歌手です。
改名歴は、村田恵里→橋本舞子→ERINA(エリナ)→FUNNY GENE(ファニー・ジーン)。

村田 恵里は、1984年に、「第3回ミスセブンティーンコンテスト」にて、松田聖子の「セイシェルの夕陽」を歌って、18万人の応募者から渡辺美里と共に歌唱賞を受賞します。
入場時には、階段で思いきり転んでしまい、会場が笑いの嵐になるというハプニングがありました。

1985年に、「オペラグラスの中でだけ」で、CBS/SONYからアイドル歌手としてデビュー。

1988年に、「橋本舞子」に改名してユーメックスへ移籍し、「TARO(タロー)」で再デビュー。
それと前後して「アイドル伝説えり子」などのアニメ作品の主題歌を多数歌いながら、ライブ活動を定期的に行ないます。

1992年、「ERINA」に改名し、研音やフォーライフレコードと契約し、「GIRLS GO MANIAC(ガールズ ゴー マニアック)」で再々デビュー。
R&B色の強い曲のシングル4枚、アルバム2枚を発売します。

1997年には、「FUNNY GENE」というユニットを結成し、キングレコードよりシングル4枚、アルバム1枚を発売。
フジテレビ系テレビドラマ「ハッピーマニア」の挿入歌、およびワコール「ベビーヒップ パンツ」CMソングに起用された「Love2 Power(ラブラブ パワー)」がスマッシュヒットしますが、2年後の1999年6月に「FUNNY GENE」は解散します。

今日は、そんな村田 恵里のデビュー曲である、「オペラグラスの中でだけ」をどうぞ。
 オペラグラスの中でだけ/村田恵里

この曲の歌詞はこちら

村田 恵里は、歌唱力もあり楽曲も良いので、もっと売れても良さそうなものですが、同期の松本典子や南野陽子などのように爆発的な人気は出なかったようです。

村田恵里の歌唱力については、かつて南野陽子も絶賛!

村田恵里の歌唱力については、南野陽子も絶賛しています。
当時、南野陽子が「クリス松村の注文の多いレコード店」の第10回のゲストとして出演した際に、

「恵里ちゃんは歌が上手い! そしてこの曲歌いたかった!」

と絶賛したということです。

「オペラグラス」つながりの村田恵里と新田恵利は、名前も一時違い!

なお、「オペラグラスの中でだけ」というこのタイトルから思い出されるのが、新田恵理の歌った「冬のオペラグラス」。
こちらも名曲です。
 

「冬のオペラグラス/新田恵理」 - おニャン子クラブの「顔」として人気を博した新田恵利のソロデビュー曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、新田 恵利の「冬のオペラグラス」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。新田 恵利(にった・えり、1968年3月17日 -)は、埼玉県上福岡市(現・ふじみ野市)出身の歌手、


おっ!(゚o゚)今、改めて見てみたら、名前が一時違いですね。
「村」田恵理と、「新」田恵理

これは気づきませんでした。【><】ワタシト シタ コトガ…。
ということで、早速調べてみると、2人ともレコード会社が同じで、村田恵理の方が新田恵理よりも約半年早くデビューしているんですね。φ(..)メモメモ

村田 恵里は何故売れなかった?

なお、優れた歌唱力と、このような名曲をひっさげて登場した村田 恵里が、何故売れなかったのかということに関して、3121さんという方が自ブログにて検証しています。
以下が、その骨子の部分です。

引用:
ではなぜ売れなかったのか?
ルックスが地味というのもあったんだろうけど、おそらくは宣伝にお金がかけなかったからだと思います。
ではなぜお金をかけなかったのか?
彼女が所属していたCBSソニーでは、1985年の同期アイドルとして松本典子が3月にデビューしています。

そして村田恵里のデビューは6月21日なのですがその二日後の6月23日に同じCBSソニーから南野陽子がデビューしているんですね。

実際のところはわかりませんが、CBSソニーとしてはそれなりに前評判の高かった松本典子と南野陽子との谷間で村田恵里のプロモーションに力を入れられなかったんじゃないでしょうか。
引用終了:

オペラグラスの中でだけ / 村田恵里-A DAY IN THE LIFE WITH MUSIC
http://ameblo.jp/purplemusic3121/entry-11338513690.html

やはり、宣伝ですよねー。(--)(__) ナットク
ベストなタイミングでデビューしていれば、彼女の場合、もっと売れたに違いありません。

【オペラグラスって?】
明日、オペラグラスって?

参考にしたサイト
オペラグラスの中でだけ/村田恵里-アイドルポップスレビュー『夢は眠らない』
https://yumehanemuranai.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-25a0.html