Super源さんの音楽ブログ

名曲紹介、作詞・作曲、音楽用語の楽しい覚え方、その他音楽にまつわることを書いていくブログです。可愛い音楽ブログパーツも配布しています。

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「オペラグラスの中でだけ/村田恵里」- 1985年に発売されたアイドル歌手としてのデビュー曲

今日は、村田 恵里の「オペラグラスの中でだけ」のご紹介です。

オペラグラスの中でだけ 村田恵里 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

村田 恵里(むらた えり、1968年11月27日- )は、三重県四日市市出身の元歌手です。
改名歴は、村田恵里→橋本舞子→ERINA(エリナ)→FUNNY GENE(ファニー・ジーン)。

村田 恵里は、1984年に、「第3回ミスセブンティーンコンテスト」にて、松田聖子の「セイシェルの夕陽」を歌って、18万人の応募者から渡辺美里と共に歌唱賞を受賞します。
入場時には、階段で思いきり転んでしまい、会場が笑いの嵐になるというハプニングがありました。

1985年に、「オペラグラスの中でだけ」で、CBS/SONYからアイドル歌手としてデビュー。

1988年に、「橋本舞子」に改名してユーメックスへ移籍し、「TARO(タロー)」で再デビュー。
それと前後して「アイドル伝説えり子」などのアニメ作品の主題歌を多数歌いながら、ライブ活動を定期的に行ないます。

1992年、「ERINA」に改名し、研音やフォーライフレコードと契約し、「GIRLS GO MANIAC(ガールズ ゴー マニアック)」で再々デビュー。
R&B色の強い曲のシングル4枚、アルバム2枚を発売します。

1997年には、「FUNNY GENE」というユニットを結成し、キングレコードよりシングル4枚、アルバム1枚を発売。
フジテレビ系テレビドラマ「ハッピーマニア」の挿入歌、およびワコール「ベビーヒップ パンツ」CMソングに起用された「Love2 Power(ラブラブ パワー)」がスマッシュヒットしますが、2年後の1999年6月に「FUNNY GENE」は解散します。

今日は、そんな村田 恵里のデビュー曲である、「オペラグラスの中でだけ」をどうぞ。
 オペラグラスの中でだけ/村田恵里

この曲の歌詞はこちら

村田 恵里は、歌唱力もあり楽曲も良いので、もっと売れても良さそうなものですが、同期の松本典子や南野陽子などのように爆発的な人気は出なかったようです。

村田恵里の歌唱力については、かつて南野陽子も絶賛!

村田恵里の歌唱力については、南野陽子も絶賛しています。
当時、南野陽子が「クリス松村の注文の多いレコード店」の第10回のゲストとして出演した際に、

「恵里ちゃんは歌が上手い! そしてこの曲歌いたかった!」

と絶賛したということです。

「オペラグラス」つながりの村田恵里と新田恵利は、名前も一時違い!

なお、「オペラグラスの中でだけ」というこのタイトルから思い出されるのが、新田恵理の歌った「冬のオペラグラス」。
こちらも名曲です。
 

「冬のオペラグラス/新田恵理」 - おニャン子クラブの「顔」として人気を博した新田恵利のソロデビュー曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、新田 恵利の「冬のオペラグラス」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。新田 恵利(にった・えり、1968年3月17日 -)は、埼玉県上福岡市(現・ふじみ野市)出身の歌手、


おっ!(゚o゚)今、改めて見てみたら、名前が一時違いですね。
「村」田恵理と、「新」田恵理

これは気づきませんでした。【><】ワタシト シタ コトガ…。
ということで、早速調べてみると、2人ともレコード会社が同じで、村田恵理の方が新田恵理よりも約半年早くデビューしているんですね。φ(..)メモメモ

村田 恵里は何故売れなかった?

なお、優れた歌唱力と、このような名曲をひっさげて登場した村田 恵里が、何故売れなかったのかということに関して、3121さんという方が自ブログにて検証しています。
以下が、その骨子の部分です。

引用:
ではなぜ売れなかったのか?
ルックスが地味というのもあったんだろうけど、おそらくは宣伝にお金がかけなかったからだと思います。
ではなぜお金をかけなかったのか?
彼女が所属していたCBSソニーでは、1985年の同期アイドルとして松本典子が3月にデビューしています。

そして村田恵里のデビューは6月21日なのですがその二日後の6月23日に同じCBSソニーから南野陽子がデビューしているんですね。

実際のところはわかりませんが、CBSソニーとしてはそれなりに前評判の高かった松本典子と南野陽子との谷間で村田恵里のプロモーションに力を入れられなかったんじゃないでしょうか。
引用終了:

オペラグラスの中でだけ / 村田恵里-A DAY IN THE LIFE WITH MUSIC
http://ameblo.jp/purplemusic3121/entry-11338513690.html

やはり、宣伝ですよねー。(--)(__) ナットク
ベストなタイミングでデビューしていれば、彼女の場合、もっと売れたに違いありません。

【オペラグラスって?】
明日、オペラグラスって?

参考にしたサイト
オペラグラスの中でだけ/村田恵里-アイドルポップスレビュー『夢は眠らない』
https://yumehanemuranai.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-25a0.html

「小さな日記/フォー・セインツ」 - 20万枚を売上げた、デビュー曲にしてヒット曲!

今日は、フォー・セインツの「小さな日記」のご紹介です。

小さな日記 フォー・セインツ ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

フォー・セインツは、1960年代後半に一世を風靡したカレッジ・フォーク・グループの草分け的存在です。

メンバーは、上原徹(ボーカル、ギター)、志賀正浩(ベース)、ダニー石尾(ボーカル、バンジョー、ギター)、荒木しげる(ドラムス)。

フォー・セインツは、成蹊高等学校の文化祭で結成されたフォーク・グループです。
ラジオ番組「フォーク・ビレッジ」で歌った「小さな日記」が反響を呼び、1968年に「小さな日記」でデビューをします。

この曲は、20万枚の大ヒット。

翌年には、2枚目のシングルとして発売された「希望」も大ヒットし、当時の“カレッジ・ポップス”をリードするグループとなります。

1972年、レコード会社の移籍に伴い、グループ名を「フォー・クローバース」に改名。
日本テレビの同名のドラマ主題歌「冬物語」(浅丘ルリ子、原田芳雄主演)などのヒット曲を連発するものの、1973年に解散。メンバーは、それぞれの活動に入ります。

2006年、NHK BS-2「BSまるごと日本のフォーク&ロック大全集」にて33年ぶりにメンバーが集まり、「小さな日記」「希望」を披露。
翌年の2007年11月にはデビュー40周年として、東京・六本木のライブハウスでコンサートを開催。
そして、2008年には新曲「この街で」を発売し、本格的に再結成を果たします。

今日は、そんなフォー・セインツのデビューシングルである「小さな日記」をどうぞ。
 
小さな日記/フォー・セインツ

この曲の歌詞はこちら

この歌詞の主人公の彼、亡くなってしまったんですね。(・_・、) クスン
これは切ないですねー。(T^T) 

ドラムスの荒木しげる死去! フォー・セインツはどうなる?

2012年に、ドラムスの荒木しげるが死去。
フォー・セインツは、今後どうなるのでしょうか?
このことに関して、ダニー石尾が、2012年11月15日に「日刊ゲンダイ」の取材で、以下のように答えています。

「4年前の結成40周年のとき、一夜限りの復活ライブをやったんだ。それ以来、いくつか新曲も出したけど、今年4月、ドラムの荒木(しげる)が肺炎で亡くなっただろ。オレらは大学からの仲間で、全員そろわなきゃ意味がない。再結成はもうないね」

「フォーセインツ」のボーカルだったダニー石尾さん|日刊ゲンダイ
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/139596

「”おまえにチェックイン”/沢田研二」- オリコン週間8位を獲得したヒット曲

今日は、沢田 研二の「”おまえにチェックイン”」のご紹介です。

おまえにチェックイン 沢田研二 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

沢田 研二(さわだ けんじ、本名:澤田 研二 1948年6月25日 -)は、鳥取県鳥取市生まれ、京都府京都市出身の歌手、俳優、作詞・作曲家です。
ニックネームはジュリー。妻は女優の田中裕子。前妻は元ザ・ピーナッツの伊藤エミ。

沢田 研二は、1971年11月1日に「君をのせて」でソロデビュー※をします。
 

「君をのせて/沢田 研二」- オリコン23位を記録したソロデビュー曲|Super源さんの音楽ブログ


今日は、沢田 研二の「君をのせて」のご紹介です。 写真は、こちらからお借りしました。沢田 研二(さわだ けんじ、本名:澤田 研二 1948年6月25日 -)は、鳥取県鳥取市生まれ、京都府京都


そして、1973年4月21日に「危険なふたり」を発売。
この曲は、65万枚を売り上げ、ソロ初のオリコン1位を獲得、併せて第4回日本歌謡大賞を受賞します。

続いて翌年の1974年には、「追憶」が58万枚を売り上げ、2曲目のオリコン1位を獲得します。

今日は、そんな沢田研二の、1982年5月1日に発売された通算36枚目のシングルである「”おまえにチェックイン”」をどうぞ。
 
”おまえにチェックイン”/沢田研二

この曲は、オリコンで週間8位、1982年度年間46位を獲得しています。

この曲の作詞は柳川英巳(やながわ ひでみ)、作曲は大沢誉志幸(おおさわ よしゆき)によるもので、大沢誉志幸は冒頭のコーラス部分「チュルルルチュッチュ…」の部分にも参加しています(このパートは、沢田研二、大沢誉志幸、佐野元春、伊藤銀次の4人でハモっています)。

この曲のタイトルは、歌詞カードに表記されている通り、正確には前後に引用符がついた「"おまえにチェックイン"」です。
が、この曲を収録したアルバムや、その他のベストアルバムにも引用符の抜けているものが多く、公式でも表記が統一されていません。


沢田研二のオフィシャルサイトは、以下となっています。
沢田研二 オフィシャルサイト
http://www.co-colo.com/top.html
CD、DVD、ライブ情報などが載っています。

沢田研二に関する情報は、こちらから。
「沢田研二」ブログ-1 | 記事一覧 | ウェブリブログ
http://webryblog.biglobe.ne.jp/f/7/f7dfba3435.html
沢田研二の最新情報・ファンブログがたくさん見つかります。


※沢田研二は、1960年代後半のグループサウンズ(通称GS)全盛期から活躍している歌手で、特に1970年代から1980年代前半にかけて、スーパースターとして日本のポップス界を牽引しました。
ソロ以降のシングル総売上は1,239万枚で、グループ時代に歌っていたザ・タイガース、PYG時代を含めると、1,666万枚となります。この数字から、当時、沢田研二がいかに人気のある歌手であったかということが分かります。