Super源さんの音楽ブログ

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「嵐の素顔/工藤 静香」 - オリコン週間1位を獲得したヒット曲!

今日は、工藤 静香の「嵐の素顔」のご紹介です。


写真は、こちらからお借りしました。

工藤 静香(くどう しずか、本名:木村 静香(きむら しずか、旧姓:工藤) 1970年4月14日 -)は、東京都西多摩郡羽村町(現・羽村市)出身の歌手、女優、タレント、宝飾デザイナー、画家です。
元おニャン子クラブのメンバーで、愛称は「しーちゃん」「しずちゃん」。夫は、SMAPの木村拓哉。

工藤 静香は、1984年の中学2年の時に、応募総数歴代最大18万325人の第3回「ミス・セブンティーンコンテスト」に出場して、特別賞を受賞します。
そして、同年、同コンテスト出身の木村亜希(清原和博夫人)、柴田くに子(後の森丘祥子)と「セブンティーンクラブ」を結成し、1985年1月にレコードデビューするも、2枚のシングルを発表し解散します。

その後、高校へ進学後の1986年5月、事務所の勧めでフジテレビ系「夕やけニャンニャン」のオーディションコーナーである「ザ・スカウト アイドルを探せ!」に出場し、合格。おニャン子クラブの会員番号38番となります。
そして、クイズ番組等で見せる「バカキャラ」や「ヤンキーキャラ」などで注目されるようになります。

1987年春からは、生稲晃子・斉藤満喜子と内部ユニット「うしろ髪ひかれ隊」としての活動も開始。
直後に発売されたおニャン子のシングル「かたつむりサンバ」では、フロントボーカルに抜擢されるなど、終焉(しゅうえん)に向かっていたおニャン子クラブの中で人気、知名度を上げていきます。

1988年9・10月には、TBS系「ザ・ベストテン」で「MUGO・ん…色っぽい」で初の1位を獲得。同年の年間ランキングでも6位となります。
おニャン子関連の曲、もしくはおニャン子出身者の曲で、同番組で第1位を獲得したのは工藤静香ただ一人です。

1989年には、「恋一夜」「嵐の素顔」「黄砂に吹かれて」と50万枚以上の大ヒットを連発。その年のシングル年間ランキング上位10曲の中に3曲すべてが入ります。
特に「黄砂に吹かれて」は、オリコン6週連続1位の記録をもっています。

今日は、そんな工藤 静香の、1989年05月03日に発売された通算7枚目のシングルである「嵐の素顔」をどうぞ。
 
/iframe>嵐の素顔/工藤 静香

この曲の歌詞はこちら

この曲は、オリコンチャートで週間1位、1989年度年間8位を獲得しています。

「嵐の素顔」発売時の時代背景

この曲は、工藤静香にとっては平成改元後初のシングルです。
この作品発売前の4月1日から消費税が導入されたことにより、価格表示が「税込定価¥〇〇〇(税抜価格¥〇〇〇)」と改められました。

振り付けの一部は「I Think We're Alone Now」からの借用

顔の横で手をLの字に動かす振り付けは、一番と二番の間奏で行なわれ、当初は頭サビの後は違う振り付けがついていました。
担当したボビー吉野は、手で作った形を素早く組み合わせて踊る「タット」という動きを取り入れたといいます。

この振り付けは、当時アメリカで大人気だった歌手・Tiffany(ティファニー)が、1987年に発売された「I Think We're Alone Now」でやっていたものです。
後年、モノマネ等でその部分が取り上げられると、工藤静香はこの振り付けを頭サビ後にいきなりするようになりました。

工藤 静香は、「愛絵理(あえり)」名義で作詞活動も

工藤 静香は、1988年に発売されたミニアルバム「カレリア」では、「愛絵理(あえり)」名義で作詞をしています。
それ以後も、作詞の際はこの名前を使用しています。
この「愛絵理」というのは、両親が命名の際に第1候補として考えていた名前です。

不動静香のその後

ソロ・デビュー25周年にあたる2012年には、4月21日から5月27日まで、青森県立郷土館において絵画個展「あふれる感情 工藤静香展」が開催されました。
青森は、工藤の父が、旧蟹田町(現外ヶ浜町)出身という縁があります。
同年10月に、4年ぶりの新曲となる「キミがくれたもの」を発売。この曲は、シンガーソングライターの絢香が初めて他の歌手に提供した作品です。

同時に、廃盤となっている3作品(「ミステリアス」「静香」「JOY」)を含むポニーキャニオン発売のオリジナルアルバム全15作品が、CD BOXセット「SHIZUKA KUDO ORIGINAL ALBUM COLLECTION」として発売されました。

「夢見る少女じゃいられない/相川七瀬」 - 40万枚近くを売上げた、相川七瀬のデビュー曲にしてヒット曲

今日は、相川七瀬の「夢見る少女じゃいられない」のご紹介です。

夢見る少女じゃいられない 相川七瀬 ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

相川 七瀬(あいかわ ななせ、出生名:佐伯 美咲(さえき みさ)1975年2月16日 -)は、歌手、カラーセラピストです。

相川 七瀬は、1990年、15歳の頃に、工藤静香の嵐の素顔」でソニー主催のオーディションを受け、不合格となりますが、この時、後にトータルプロデューサーとなる織田哲郎と出会います。

1992年、高校を中退してアルバイトをしていた17歳の頃、「DREAMS COME TRUE(ドリームズ・カム・トゥルー)」や「QUEEN(クイーン)」などの音楽を聴きあさり、歌手になる決心をします。
織田哲郎に連絡を取って上京し、歌手デビューのためにボイス・トレーニングを開始します。

そして、1995年11月、織田哲郎のプロデュースによる「夢見る少女じゃいられない」で念願の歌手デビュー。
織田哲郎は、相川七瀬をトータルプロデュースするにあたって、それまでの「前向きなガール・ポップ」に対し、「前向きじゃないダークなロック」を全面に打ち出します。

1996年には、ファーストアルバム「Redレッド)」を発売。
このアルバムは、オリコンのアルバムチャート初登場で1位を獲得し、現在までに270万枚を超すダブル・ミリオンヒットを記録しています。
同年年末には第47回NHK紅白歌合戦に初出場し、「夢見る少女じゃいられない」を披露します。

1997年7月にはアルバム「paraDOX(パラドックス)」を発売、この作品もオリコン初登場1位を獲得し、現在までに180万枚を売り上げています。

今日は、そんな相川 七瀬の、1995年11月8日に発売されたデビュー曲である「夢見る少女じゃいられない」をどうぞ。
 
夢見る少女じゃいられない/相川七瀬

この曲の歌詞はこちら

この曲は、織田哲郎がプロデュースしたことと、ビーイングのスタジオを使用したことで、当初はビーイングプロデュースと間違われたことが多くありました。
織田哲郎が全面プロデュースした最初の作品でもあります。
白黒で、しかも相川七瀬の顔のほとんどに髪がかかっていて見えないこのジャケット写真には反対意見も多かったですが、織田哲郎の一存で、結局この形となりました。
この曲は、デビュー曲にもかかわらず、40万枚近くを売上げ、相川七瀬自身4番目のヒット曲となりました。

相川七瀬は、2000年にはプロデューサーを布袋寅泰に変え、それまでとは異なる曲調のロックを歌うようになります。

2004年2月には、2年半振りにアルバム「7 seven(セブン)」を発売。
同月22日にNHKホールで行なわれた「日中友好歌謡祭」に出演し、「愛ノ詩 -マジェンタレイン-」を歌う様子が中国でも実況中継されます。
同年3月には、カラーセラピー本「恋のダイス&ルーレット」と不思議体験を綴った「バリコワ」を出版。

また、5月8日からは、約4年振りとなる全国ホールツアー「Live Emotion "7 seven"」を、7月からは毎年恒例のライブTOUR AIKAWA NANASE "7 seven" THE GIG '04を行ないます。
7月には、イギリスやアイルランドでJennifer Ellison(ジェニファー・エリソン)による相川七瀬の「バイバイ」をカバーした“Bye Bye Boy”がヒットし、イギリスのチャートでは13位となりました。

そして、2013年2月16日に、ソロとしては4年ぶりのオリジナル・アルバム「今事記」を発売します。


ちなみに、相川七瀬の芸名の「相川」は、地元近くにある阪急電鉄の相川駅に由来しています。
また、相川七瀬は左の首筋にLove or Die(ラブ オア ダイ)と刻まれたタトゥー(入れ墨)を入れています。
また、タトゥーはもう一ヶ所、左手首にも入れています。

「夜明けのスキャット/由紀さおり」 - 150万枚のミリオンセラーを達成したヒット曲!

今日は、由紀さおりの「夜明けのスキャット」のご紹介です。

夜明けのスキャット 由紀さおり ジャケットイメージ
写真は、こちらからお借りしました。

由紀 さおり(ゆき さおり、本名・旧芸名:安田 章子(やすだ あきこ)、1948年11月13日 -)は、群馬県桐生市出身の歌手、タレント、女優、ナレーターです。
姉は、歌手の安田祥子(やすだ しょうこ)。

由紀 さおりは、少女時代から姉と共に本名の「安田章子」の名前で童謡歌手として活躍していましたが、1965年にキングレコードから本名名義で「ヒッチハイク娘」で歌手デビューをします。

ヒッチハイク娘
ヒッチハイク娘
写真は、こちらからお借りしました。

が、ヒットに恵まれず、童謡歌手時代からの仕事であるCM曲や、テレビ・ラジオ主題歌の吹き込み、また「大人の世界を歌えるように」という修行の意味合いもあって、キャバレー・ナイトクラブへの出演を行ないながら雌伏の時を過ごします。

1969年、東芝音楽工業(現・ユニバーサル ミュージック EMI Records Japanレーベル)から再デビュー作となった「夜明けのスキャット」を発売。

この曲は、もともとTBSラジオの深夜ラジオ番組「夜のバラード」のオープニングとして制作されたもので、当初はレコード化の予定はありませんでした。が、リスナーからの問い合わせが相次ぎ、シングルの発売が企画されました。

発売後、この曲は大ヒットとなり、最終的には150万枚のミリオンセラーを達成。
同年の暮れには、「第20回NHK紅白歌合戦」で、念願だったNHK紅白歌合戦初出場を果たします(以降1978年・第29回まで10年連続出場)。

そして翌年の1970年には、続いて発売された「手紙」も6週連続1位、1970年度年間6位となる大ヒットとなり、「第12回日本レコード大賞」の「歌唱賞」を受賞します。

その後も、「生きがい」「故郷」「ルーム・ライト」「挽歌」「ふらりふられて」「う・ふ・ふ」「トーキョー・バビロン」などのヒット曲を放ち、その確かな歌声は「酔い覚ましの清涼剤」との評価を受けます。

1980年代は、テレビの司会者・タレント・女優としての活躍も目立ち、彼女のマルチな才能がさらに発揮されていきます。
1982年には「おもしろサンデー」へ桂文珍と共に司会として出演。
1983年には松田優作主演の「家族ゲーム」でお惚けな母親役を演じ、日本アカデミー賞助演女優賞を受賞。
1987年には、朝の連続テレビ小説「チョッちゃん」で主人公の母親役を演じ、流暢な方言を披露します。

今日は、そんな由紀さおりの、1969年3月10日に発売されたシングルである「夜明けのスキャット」をどうぞ。
 
夜明けのスキャット/由紀さおり

この曲の歌詞はこちら

「夜明けのスキャット」は、タイトル通り、1番はほとんどが「ルー、ルールルルー…」というスキャットで占められているという、それまでになかったタイプの曲です。
それにもかかわらず、この年の「第11回日本レコード大賞・作詩賞」を受賞します。

このような、前例のない曲がヒットした理由として、発売後にラジオの深夜放送で頻繁にかけられたことが挙げられます。※
また、作曲家の平尾昌晃は、「昭和歌謡1945~1989 歌謡曲黄金時代のラブソングと日本人」(廣済堂新書)の中で、この曲について以下のように述べています。

「昭和30年代だったら、歌詞のほとんどない、ただ「ルー」とか「ラー」で歌っている歌をレコードで発売するなんて、まったく考えられなかっただろう。それが発売されるやいなや、150万枚を越すミリオンセラーになったばかりか、さらにその40年後に世界で注目されるのだから、やはり、歌は「時代」を生きていくのだ」

また、2009年4月8日に放送されたTBS系音楽番組「あなたが聴きたい! 歌の3時間スペシャル」では、この曲の1番に歌詞がない理由として、もともとこの曲が深夜ラジオ番組内のBGMに使われていたためであると紹介されています。


なお、この曲のメロディーについて、当時、大橋巨泉がサイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」との類似性を指摘し、「これは明らかに盗作である」といっています。


サウンド・オブ・サイレンス(Sound of Silence)/サイモンとガーファンクル(Simon & Garfunkel)


※泉麻人著「僕の昭和歌謡史」(講談社文庫刊)において、この曲について、「大ヒットする直前頃に深夜放送でよくかかっていた」と述べています。